第50話 魔剣(5)
おぼろげな意識の中、カウルは自分が山の中を駆けているのだと気が付いた。何かとすれ違う度に勝手に腕が動き、血飛沫(ちしぶき)が飛ぶ。
猪、蛇鎌、鹿、赤剥。禍獣だろうと動物だろうとお構いなし。あり得ない程素早く効率的に剣が宙を舞い亡骸が倒れる。
肉を裂くごとに。
血を浴びるごとに。
黒剣が震え喜んでいるのがわかった。何かを斬ることこそがそれの生きがいだとでも言うように。
「止めろ! 体を返せ……! これは俺の体だ」
体を止めようとあがくも、腕も足もまったく言うことをきかない。カウルの抵抗をあざ笑うかのように、頭の中で声が響いた。
――久しぶりの自由なんだ。少しくらい我慢してくれないか。煩くてかなわない。
それはまるでベルギットのような口調だった。
「お前は何なんだ? 剣にとりついた呪いなのか?」
――言っただろう。私はベルギット。お前の手にある魔剣だと。
再び師の名を口に出す声。嘘だとわかっていても心が乱される。カウルは頭を振って必死に己をいさめた。
惑わされてはならない。彼女は死んだのだ。間違いなく、自分の目の前で。
「お前はベルギットさんじゃない。正体を言え」
――正体も何もベルギットは私の名前だ。お前の師、イーダは長年私を使い続けたために、意識の一部分が私と同化しかけていた。あの女が剣を抜いた時の人格は、全て私だ。
それはカウルにとって衝撃的な言葉だった。
あまりのことに思わず否定する。
「嘘だ……そんなことがあるわけが……」
――嘘なものか。イーダは優れた退魔師だったが、その剣技は所詮、田舎兵士の延長線でしかない。あの女が復讐を果たせたのは全て私の力だ。私があの女を生かし続けた。今まで一度もおかしいとは思わなかったのか。あんな老いた女に幾多の禍獣を殺せる力があったことを。
カウルの脳内に黒剣を構えたベルギットの姿が映る。
あの異質な存在感。圧倒的な剣技。
確かにベルギットは退魔師として多くの知識を備(そな)えてはいたけれど、本気の剣技を披露する時だけは、いつもあの黒剣を抜いていた。まるで黒剣の力に頼るかのように。
草木の隙間から蛇鎌が飛び出す。カウルの体は予備動作無しでそれをあっさりと両断した。
そんな……まさか。
嘘だと言いたかった。戯言だと一笑にふしたかった。けれどそれが真実であることは否定しようがなかった。体が、感覚が、今の動きがまさにベルギットそのものであると覚えていたからだ。
この黒剣がベルギットさんだった? ……この四年間ずっと? 俺に剣を教えてくれた時も?
駄目だとわかっていても動揺を抑えきれない。それに釣られるかのように、より一層意識が体から遠のいていく。
――私は人の肉体を渡り歩く意思ある魔剣。本来であれば私を握った時点でイーダに自由意志など無かった。だが残念なことに、あの女は軽度の“祝福者”だった。生まれつき呪いのかかりにくい体質だったのだ。幾年もの間私は都合のいい道具として使われてきたが――……あの女が死んだ今、それももう終わりだ。私はお前の体を使い、人も禍獣も全てを斬り伏せ、気の向くままに血を味わい尽くす。そしてお前の体が使い物にならなくなれば、また次の肉体を得て同じことを繰り返し続ける。それこそが私の存在理由。呪いとしての本懐なのだから。
再び剣から耳鳴りがする。カウルは歯を食いしばって侵食に耐えようとした。
祝福者。呪いの影響を受けにくい土地を祝福地というが、生物の中でもまれにそういった特性を持って生まれる者がいると聞く。有名な銀眼騎士しかり、そういった者たちは呪いに対する耐性が非常に高く、弱い呪いであればどれほど体に浴びても平然としていられるそうだ。この声の話が真実なら、ベルギットもそういった特性を持っていたということになる。
雷が鳴り水滴が頬に当たった。どうやら天候が悪化したらしい。すぐに雨が降り始め、灰色の視界を色濃く染め始めた。
冗談じゃない。俺は村のみんなを助けなければならないんだ。こんな剣に体を支配されて死ぬまで酷使されるなんて、そんな馬鹿なことが許せるか。
再度黒剣から手を離そうと試みたが、効果はまったくなかった。指はまるでカウルの意思などないかのように硬く柄を握りしめ、次なる獲物を求めて空を斬る。
足が草木を踏む前にその感触が皮膚に走り、雨の一粒一粒すら鮮明に見えた。体が軽い。全身が一つの刃になったかのようにすら感じられる。
大きな川が目の前に現れたため体の動きが止まる。しかしすぐに周囲を観察し、左方向へと下り始めた。
この方向には王都からアザレア方面へと続く街道がある。今の黒剣には見境がない。もし旅の人間と遭遇すれば、きっと嬉々として刃を振るうことだろう。
カウルは必死に足掻いたが、やはりどれだけ念じてみても効果は無かった。
雨はより強さを増し川の流れも速くなる。いつしかカウルの全身は大量の水を吸い込みずぶ濡れになってしまっていた。
意識が徐々に馴染んでいくのがわかる。
ベルギットはあと少しでカウルの体を完全に支配することが出来ると確信していた。
イーダと契約していた際は、強敵と戦う際のみしか表に出る機会は無かったが、この男は違う。カウルは祝福者ではない。呪いの影響を与え続ければ自分の意のままに制御し、利用することが可能となるだろう。
ベルギットはイーダに出会うまで何度も多くの剣士を犠牲にしてきた。意識を支配し、力で誘惑し、傍に置かなければ落ち着かなくなるほど我が身に依存させ所有者を奴隷のように扱ってきた。そしてその度に所有者の剣技を取込み、自らの力として昇華し続けた。最高の剣技を目指していたのか、それともそう設計されたからなのか。一体何故そうしなければならなかったのかは、自分でももう思い出せない。ただ本能として、そうせざる負えないのだ。
――だからあれほど、私を置いて行けと指示されたものを……。
イーダの台詞を思い出し、密かにカウルを憐れむ。しかしすぐにその思いは鳴りを潜め、呪いはより深くカウルの中へと浸透していった。
斬りたい。
殺したい。
刃を振るいたい。
思考がそれらの感情で溢れ、埋め尽くされる。
空気が、手の干渉が、土の香りが、命として感じられる感覚の全てが心地よい。
これからは好きなだけ獲物を斬り続けられる。
好きなだけ刃を振るえる。
気の向くままに。
永遠に。
そう、ベルギットが歓喜した瞬間だった。
視界が、黒く染まった。
鮮やかなほどに感じられていた命の感触が喪失し、全身に冷たい悪寒が走る。はっとして意識を集中させた途端、“それ”と目が合った。
金色に輝く三つの瞳が暗闇を裂くように浮かび上がり、真っすぐにこちらを見つめている。
攻撃をされたわけでも、干渉されたわけでもない。しかしその刹那、ベルギットは生まれて初めて恐怖という感情を抱いた。
まるで悲鳴のような耳鳴りが響いた。
怯えるような黒剣の声。
既に思考の大部分を消失しかけていたカウルだったが、その音を聞いた途端、意識が暗の中から浮かび上がった。
……何だ……?
走っていた足は止まり、動きを完全に止めている。
冷たい感触。どうしてだろうか。全く言うことを聞かなかった指先が僅かに動くのがわかった。
感覚が戻っている……?
自分は意識を支配されかけていた。黒剣の呪いを邪魔するものなど何もなかったはずだ。一体何が起きたのかと不思議に思う。
重い頭を動かし自分の手を見ると、黒剣の柄を握っている位置に薄っすらと傷の呪いが漏れ出しているのが見えた。どうやら無意識のうちに呪いを発動してしまっていたらしい。
――何だこの記憶は? 何だ“あれ”は?
支配されかけたことでカウルの記憶が見えたのだろうか。先ほどまでとは打って変わって、冷静さを失ったように黒剣が叫んだ。
そういえばと思い出す。
最初に蛇鎌と戦った時を省き、カウルはベルギットの前では極力傷の呪いを使わないようにしていた。わが身一つで禍獣と戦える。そういった力を求めて彼女に弟子入りした以上、教えを乞う時だけは、自らの技術で戦わなければ意味が無いと考えていたからだ。だから当然ベルギットと常に共にあった黒剣も、カウルが呪われている事実など知るはずがない。
恐れているのか。傷の呪いを……この黒剣が……?
段々と戻り始めた思考力を何とか稼働させる。
退魔師としてはごく基礎的な知識。呪いは祈祷術とぶつかれば消滅するが、それは呪い同士でも同じこと。強さに差がある呪いが干渉し合った場合、弱い呪いはかき消される。
どうやら傷の呪いに触れたことで、黒剣の呪いが押し負けたらしい。体に走る傷の呪いを意識するごとに思考が鮮明になっていく。
そうか。傷の呪いは傷を広げる。呪い同士の対消滅でも、それは同じなんだ。……なら――……!
今を逃せばもう機会は無い。カウルは声を絞り上げ、剣を頭上に掲げた。
――何をする? やめろ。
強烈な思念が黒剣から溢れ、カウルの意識に覆いかぶさる。だが一歩遅かった。
カウルは最後の気力を振り絞って傷の呪いを手に発動させた。
甲高い耳鳴り。
全身に広がっていた根のような感覚が搔き消えたのがわかる。カウルの手から弾かれた黒剣は滑らかに回転し、川の上へと投げ出された。
刃に水面の光を反射しながら落ちていく黒剣。カウルは何故かその瞬間、黒剣と目が合ったような気がした。
水の流れる大きな音が耳に届き我に返る。
しまった……!
カウルは素早く川を覗き込んだが、既に遅かった。沈んだのか、それとも流されたのか。既に黒剣の姿はどこにも見当たらない。
体に上手く力が入らず、近くにあった木に手を付き体を寄りかからせる。
呼吸が整ってくると同時に、先ほどの黒剣の台詞が頭の中に蘇った。
ベルギットのこと。
剣を抜いている時の人格のこと。
自分が本当にベルギットだと思っていたのは、一体どちらだったのだろうか。混乱し過ぎて頭の整理が追いつかない。
「くそ……」
一体何故ベルギットさんはあんな危険な剣をずっと持ち続けていたのだろうか。人一倍呪いというものを嫌悪し、嫌っていたはずなのに。
カウルは彼女の声を聴きたかった。
真実を知りたかった。
だがどれだけ願ったところで、今となってはもう問いただすことも出来ない。
雨のせいで川は激しさを増し、土砂が大量に混じり合っている。
唯一確実に言えるのは、これではとても黒剣を再び見つけることなど不可能だということだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます