第二章 シヴァラの書

第42話 死門(1)

 逆立つ波のせいで船着き場に停めた船が揺れている。

 柱に結んだ紐が激しくきしみ、今にもちぎれてしまいそうだ。

 幾重もの鳴き声とともに鳥たちが頭上を通り過ぎていく。それに続くように、強風が頬を殴りつけた。

「急がねえと」

 遠くの空。海の先には死をまき散らす漆黒の嵐――死門が目に見える距離まで近づいていた。この分では恐らくあと半刻ほどで、港も奴に覆われてしまうだろう。

 釣った魚が詰まった荷袋を肩に抱え、竿や道具をいそいそと片づける。すでに他の漁師たちは逃げたらしく姿は見えない。どうやら自分が港に残った最後の人間のようだった。

 雷の轟く音が響き、視界が一瞬白く染まる。漁師は焦りを覚え、作業を急いだ。

 固定具がしっかりと結ばれていることを確認し、船から出る。土の上へ足を下ろし振り返ると、肌がぴりぴりとざわついた。

 今回の死門はいつも以上に機嫌が悪いらしい。この分ではしばらくの間は、漁に出ても生きた魚を拝むことは出来ないだろう。

 黒々とした雲の塊は力をため込むようにその色味を増し、頻繁に雷鳴と発光を繰り返している。雲の下敷きとなった海は暴れ狂い、竜巻がいくつも渦巻いて見えた。

 ――村の連中……俺の馬まで連れてってなきゃいいが。

 漁師は身震いし、すぐにその場を立ち去ろうとしたのだが、船着き場を離れる直前で気になるものを目にし、動きを止めた。

 船が見えたのだ。自分の持つ個人漁船ほどの小さな船。それが一隻、死門に向かって接近している。

 早くしないと避難に間に合わなくなるとわかっていたが、思わず目を凝らさずにはいられない。仲間の漁師のほとんどはもう海には出ていないはずだ。そうわかっていても心が泡立つ。

 ――あれは一体どこの馬鹿だ?

 船はすでに高立つ波に揺られ、今にも転覆してしまいそうなほど揺れている。

 漁師は声を上げようとしたが、そこで再び一筋の雷が頭上に走った。

 甲板に人影が見えた。全身を黒衣で覆い姿を隠した異様な人物。体格からして、男だろうか。

 フードで覆われているため顔はわからなかったが、村の人間にしては妙ないで立ちだ。漁師はどことなく不吉な予感を抱いた。

 九大災禍には、それぞれの呪いを信仰する災禍教という信者がいる。死門はその中でも自殺願望を抱く者が多い派閥だ。もしかしたら、あれもそういった類の人間なのだろうか。

 今から海に出てたところで間に合いそうにはない。下手をしたら自分が死門の嵐に巻き込まれ、命を吸い取られてしまうだろう。

 吹き荒れる風がさらに強くなっていく。せめて、顔くらいは確認できないだろうか。もし村人であれば、親族のために自分は事実を知っておく必要がある。

 今にも逃げ出したい気持ちを抑え、葛藤する漁師。その間にも、船は死門の真下へと進んでいく。

「駄目だ。もう助からない……!」

 あの距離では吹き荒れる風に乗った呪いで、もはやいつ命を吸われてもおかしくはない。せめて最後の姿だけでも目に収めようと、漁師は固唾を飲んで彼の姿を眺めた。




 頭の上に真っ黒な濃い雲が重なっている。

 風は猛獣のごとく暴れ狂い、波は今にも足元の船を粉砕してしまいそうだった。

 立ち上がる竜巻の中には死骸となった無数の魚が混じり合い、まるであの世への入り口を目にしているかのように空から降ってくる。

 かつて知識の粋を極めた賢者の成れの果て。神に呪われ、呪いの塊となった存在――九大災禍“死門”。

 何百年。何千年。いや、下手をしたらそれ以上の年月を、あれはこうして苦しみ続け彷徨ってきた。この世界に息づく数多の同胞と同じように。

 奥歯を噛みしめ、黒衣の男はゆっくりと手を開いた。

 自分はようやく手段を手に入れた。世界を、全てを崩すことの出来る強大な武器を。

 制御するまで四年の時間を要したが、今なら意のままに操ることが出来る。

 この世界は償いをする時が来たのだ。無自覚に、無遠慮に、自分たちがどんな場所に立っているかも知らないで、彼らはのうのうと生きてきた。

 もういい加減、十分だろう。そろそろ天秤をひっくり返してもいい頃合いだ。

 頭の中に悲鳴が木霊している。

 ずっと終わらない悲鳴が。

 苦痛と絶望の声が。

 ひと際激しい風が船を揺らし、甲板が大きく傾く。

 幾重もの轟音が鳴り響き、周囲を断続的に明るく照らした。

 重い雨が全身を濡らし、服を肌に密着させる。

 常人であればとっくに命を吸われ、床に倒れているはずの状況。絶対に生きてはいられないはずの充満した呪い。

 しかし黒衣の男は平然とその場に立ち続けた。まるで呪いなど気にもしていないというように。意に介さないとでも言うように。

 彼は真っすぐに死門の中心を見つめ、ただ一言、声を上げた。

「……行け。傷の獣」

 黒衣の男の頭上にうっすらと、白と黒の帯が脈動し始めた。それらは半透明から次第に色味を増し、同時に死門の雷を迎え撃つように広がっていく。

 三つの金色の瞳が無数の帯の中心に浮かび上がり、そこを中心として巨大な体躯が姿を見せた。真っ黒な全身に蠢く白い亀裂模様。狼とも猫とも両生類ともいえる殺意に満ちた獣の顔。それが出現した途端、死門を形成する嵐がいとも簡単に押しのけられていく。

 耳をつんざくような咆哮。瞬間、世界のありとあらゆる存在が悲鳴を上げているかのような錯覚を覚えた。

 全身の神経に緊張が走る。何度見ても恐ろしい存在だ。特殊な事情のある自分でなければ決してこれを支配することなどできはしなかっただろう。少しでも集中を途切らせれば、今すぐにでも自分も溶けて消えてしまうという実感があった。

 恐怖を感じているのかそれとも外敵に対する反射反応なのか。死門の中で暴れ狂っていた竜巻がこちらへと急接近してくるも、獣の体から雷のように広がる白黒の帯と咆哮を受け、あっさりとその場から搔き消される。

 無駄なのだ。どれほど強力な呪だろうと、この世界のものである限り決して獣の力に抗うことはできない。

 激しく混じり合い打ち消し合う力の奔流の中で、黒衣の男はとうとう死門の核ともいえる部位を特定した。かつての賢者であった偉大な魔法使い。それが世界と拮抗し、呪いを生み出している中心だ。

 両の手を船の前に下ろし、再び獣が叫び声を放つ。

 黒衣の男はその光景を見て、ゆっくりと――口角を上げた。

 


 何度も轟音を鳴り響かせ、雷と竜巻を振りまく死門。

 黒衣の男があの真下へ到達した瞬間から、これまで目にしたことが無いほど激しい光が目に映った。

 一体何が起きているのだろうか。男の乗った船が消えた位置からは、まるで死門と拮抗するように白い雷が立ち上り、雲や嵐を切り裂いていく。あれがまだ生きているのかはわからないが、漁師の目にはまるで死門が悲鳴を上げ、苦しんでいるようにも見えた。

「な、何がどうなってるんでぃ……」

 逃げなければ嵐に飲まれてしまうことはわかりきっていたのに、どうしても足が動かない。

 白い雷が走るたびに、嵐の中で一瞬巨大な何かの輪郭が動いているような姿が見えた。一体それが何なのかはわからないが、生き物のようにも見えなくもない。

 おかしなことが起きている。何かとんでもなくおかしなことが。

 得体の知れないものを目にしているという恐怖からか、それとももっと根源的な何かなのか。

 その瞬間、漁師はまるで、世界に深い亀裂が走ったかのような、異様な痛みが全身に走るのを感じた。





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