第6話 生贄(6)

 冷たい感触。目を開けると、一面に泥沼のようなものが広がっていた。

 これは夢なのだろうか。先ほどまで洞窟の中にいたはずなのに、異様に開けた場所に立っている。

「ここは……?」

 ――どうなっているんだ? 俺は死んだのか?

 天には赤黒い空が広がり、漆黒の太陽が輝いている。まるで別世界のようだ。

 小刻みに打ち鳴らされる音が続く。雨が降っていた。漆黒の太陽を囲むようにして浮かんでいる雲から、足元に広がる泥と同じく真黒な雨が降り注いでいる。

 あまりに異様な光景。あまりに現実離れした場所。

 生贄になった者は三神の元へ召されると聞いていたが、ここがそうなのだろうか。カウルは一瞬そんなことを考えたが、すぐにそんなわけがないと思い直した。

 ここには穏やかさも安らぎも何もない。ただ恐ろしく冷たい空気と、今にも身を引き裂かれそうなおぞましい圧迫感だけが周囲を満たしている。

 心臓が激しく脈動する。息が苦しい。体が内側からはちきれそうだ。

 一体どこに来てしまったのだろうか。生贄の道を歩いていた時も恐怖感はあったが、こんなものではなかった。これはまるで種類が違う。海のど真ん中に放り込まれた虫けら。それが一番近い感覚だろう。

 視界も、聞こえる音も、臭いも、何もかもが異質だ。絶対に人の生きる世界ではないと確信することができる。

 な、何か……俺は……。

 勝手に息が途切れ途切れになる。気を抜いた瞬間、カウルは自分が掻き消えてしまうような気がした。

 黒い雨が全身を水浸しにしていく。何となくこのままここに留まるのはまずいと思った。何か嫌なことが起こると直感した。

 足を底の見えない泥沼に食い込ませ、ただこの場から逃げたい一心で前に歩く。泥沼は際限なく遠くまで広がっているようだった。灰色の霧が地平線を隠し、その境界を確認することはできない。

 何なんだよ。何がどうなってるんだ?

 訳がわからない。自分は死んだのだろうか。それともこれはただの夢なのだろうか。混乱と恐怖だけがカウルの思考を支配していた。

 しばらく歩き続けると妙なものが見えた。泥沼のど真ん中に霧が渦を巻くようにして固まっていたのだ。

 カウルは引き寄せられるようにそこへ近づいた。

 距離が詰まるごとに霧の渦がほどけていく。カウルは足を止めようと思ったが、既に体は自身の支配を離れ言うことを聞かなくなっていた。

 霧の中心部までたどり着くと、花びらが開くように灰色の幕は晴れ、何かが姿を見せた。

 その瞬間――、カウルは全身に数千の刃物を突き付けられたような衝撃を受けた。

 すぐにわかった。

 すぐに悟った。

 それが絶対に見てはいけない。触れてはいけないものであると。

 だがカウルはそれから視線をそらすことができなかった。体が全く動かなかった。

 あまりの恐怖に息ができない。自分が本当にここに居るのかもわからなかった。

 霧に囲まれた泥沼の中心。そこにそれはうずくまっていた。

 赤子のように体を丸めているそれは、カウルの三倍もの大きさがあった。形としては人に近いが、所々に突起のようなものがあり、黒い全身に脈動するような白い亀裂模様がうごめいていた。

 なん、だこれ……? 何だよこれは――。

 理解できる存在でないことはすぐに分かった。自分とはまったく世界を異にした何か。見ているだけで、前の前にあるだけで、底知れぬ深淵を覗き込んでいるような気分にさせられる。

 それはゆっくりと膝の前に組んでいた腕を解き、顔を上げた。

 視線が合った瞬間、カウルの膝は崩れ落ちた。体が解けてしまったかのようだった。

 金色の目に赤い筋の入った虹彩。まるで夜空に浮かびあがる太陽のように美しく恐ろしい、獣じみた三つの瞳がカウルを覗いていた。

 こんなものが三神であるはずがない。目の前にいる何かは明らかに邪悪な存在だ。明らかに悪意と負の意思に満ちている。

 三神でないとすれば可能性は一つしかない。カウルはすぐにその正体に思い至った。

 まさかこれが――

「――刻呪――……」

 三つの金色の瞳は顔の中心に三角形を描くように配置されており、それぞれの目の延長線上に後ろに向かって流れるような突起が生えていた。

 それはカウルを見据えたまま地面に手をつき立ち上がった。漆黒の泥沼が波立ち、ただでさえ大きかった体がさらに巨大に目の前にそそり立つ。それを避けるように大量の黒い雨がカウルの全身に吹き付けた。

 脈動する白い亀裂のような模様はまるで雷のように激しく、刻呪の闇に覆われた輪郭を照らしている。肉体がある化け物というよりは、白い雷に形作られた影のようだった。

 刻呪の後頭部や腕からは無数の白い雷のような物体が広がっており、それが服の袖や体毛のようになびいていた。

 ――ああ。ここで俺は死ぬんだ。こいつに殺されて。

 これが生贄の儀式の結果であると、カウルは悟った。清像の儀式により呪術に組み込まれた生贄は、こうしてここで刻呪に食われて死ぬのだと。

 もはや体を震わせることすらできない。恐怖心はある。絶望と悲しみもある。だがそれ以上に、圧倒的に高位の存在を前にした圧迫感が、思考の全てをカウルから消し飛ばしてしまっていた。

 白い雷のような帯をなびかせながら、一歩一歩足を前にくりだす刻呪。それはカウルを見据えると、三つの目の下にある人に似た口を大きく開いた。

 死ぬ、終わる。ここで。

 わかっていても体は動かない。

 獣のような爪の生えた腕がカウルの肩を抑え込み、その口が近づいていく。既に何も考えられなくなっていたカウルは、ただその時が来るのを待つことしかできなかった。

 刻呪のおぞましくも美しい顔が眼前に迫った時、不意にどこからか声のようなものが聞こえた。聞き覚えのある文章の羅列のような妙な言葉。それは次第に大きさを増していき、黒い雨に紛れて降り注ぐようにカウルの耳に落ちてきた。

 何故か刻呪の動きが止まる。それは声の主を探すように首を斜めに傾けた。

 思考を真っ白に染めながら、カウルはその声が祈祷師のものであることに気が付いた。いつも厄払いをしてくれていた老人の声ではなく、自分を祭壇まで導いたあの祈祷師の声だ。

 ――生きたいか?

 それは周りに溢れる呪言とは違い、カウルの中から響くように聞こえた。

 自分が生贄にならなければ誰かが代わりに犠牲となる。それは父や母かもしれないし、ゴートやモネかもしれない。

 決意したはずだった。覚悟したはずだった。村のみんなのために、家族のために犠牲になると。だが圧倒的な絶望を前にして。身の毛のよだつ世界に放り込まれて。もはや理論も建前も取り繕うことができなかった。

 涙が静かにカウルの頬を流れ落ちる。

 カウルは無意識のうちに答えていた。

 「――……生きたい」

 肩に強い衝撃が走った。刻呪が噛みついたのだ。

 痛みよりも苦しみよりも早く、ただ今までに感じたことのないような強烈な刺激が全身に広がった。全身の意識の全てが噛まれた傷口に向かって収束させられているような気がした。

 右の視界が空と同じく真っ赤にそまる。噴き出た血の飛沫が空中に浮かんで見えた。

 人はあまりに強烈な痛みを受けた時、逆にそれを感じることができないのだろうか。猛烈な刺激こそ感じつつも、カウルは苦痛を抱くことはなかった。

 もはや何も考えられない。カウルはただ茫然と噴き出る自分の血と食らいつく刻呪いの姿を見続けていた。

 視界がぐらつき全身から力が抜ける。いよいよ死ぬと、そう思った時、妙な事が起こった。

 肩に食らいついていた刻呪の顔が半透明になりまるで溶け込むようにカウルの肩へ溶け込み始めたのだ。

 カウルは虚ろな目でそれを見つめた。

 その現象は刻呪自身にも予想外だったのだろう。刻呪は抵抗するように腕に力を込めたが、無駄だった。

 首、胴体、腕と、刻呪の半透明化は次々に進んでいき、それに合わせカウルの身体に溶け込む量も増えていった。

 とうとう刻呪の全身がカウルの身体に吸い込まれると、カウルはえも言えぬ気持ち悪さを感じその場に膝をついた。

 刻呪の全身を覆っていた白い雷がカウル自身の身体に巡り始める。体の中であのおぞましい刻呪が蠢いているのを感じた。

 何だこれ? なに、が――……。

 想像を絶する異物感と気持ち悪さ。まるで自分の体内で刻呪が胎動しているかのような不快感だった。

 嫌だ。怖い。怖い。怖い。助けて。誰か、助け――

 次の瞬間、背後に広がっていた泥沼と空に大きな亀裂が走った。

 強い光を感じカウルは振り返った。割れて崩れ落ちり亀裂の向こうに、晴れ渡った青い空が広がっていた。

 何が起きているのかさっぱりわからない。けれどあの空は確かに本物の空だった。

「どうして、空が……」

 わけがわからない。わからないが、その空を目にしたことでカウルの死にかけていた心に再び生きる意思が灯り始めた。

 出れる。外に。ロファーエル村に。

 胸を抑えながら体の向きをそちらに変えようとする。生贄のことだとか、刻呪のことだとか、考える余裕なんてなかった。ただ生きたかった。ただまたみんなの顔を見たかった。

 その空に向かって腕を伸ばそうとしたところで――カウルの胸から何かが飛び出した。



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