ばなな姫

トト

1 出会いは最悪

 気づいた時にはもう歩みを止めることはできなかった。

 自分の足が黄色いバナナの皮の上に導かれるように乗っかたのを見たと思った瞬間には、まるで漫画のようにきれいな半円を空中に描く、周りの景色がスローモーションで反転していく。そして大きな音と共に腰から僕は地面に着地した。


「痛っ──てぇー」


 一瞬息を飲み込んだ後、大学の廊下に響き渡るばかりの叫び声をあげた。

 

「アハハハハ。裕介、お前新学期早々笑わすなよ」


 そういって駆け寄ってきたのは同じ医学部生の青葉賢治あおばけんじだった。


「別にわざとじゃない」


 僕はまだ笑い続けている賢治にムッとしながら立ち上がる。


「ごめーん」


 そこにその髪型が似合うのは外人かモデルぐらいだろうというほど短い髪の女性が駆け寄って来る。

 ならなぜ女性かとすぐわかったかと言えば、ちょっと耳に残るよく通る声音、短パンからすらりと伸びる白い綺麗な足。アクセサリーも一切身に着けていないのになぜか輝きを放つオーラとともに漂ってくる甘い香り。

 

 一瞬見惚れそうになった自分を叱咤するように軽く頭を振る。


「大丈夫ですか」 


 気遣わしげな言葉とは裏腹に、今にも噴出しそうな表情を見てすぐに我を取り戻す。そしていつもなら、女性に対し紳士的に振舞うことを心掛けているのに、柄にもなくムスッとした態度のまま強い口調で文句を言っていた。


「あぶないじゃないか!」

「ごめんね、いつもはちゃんと入るんだけど。まさかあんなに綺麗に転ぶとは」


 そういいながら彼女は僕の足を滑らしたバナナの皮を拾い上げると、近くのゴミ箱にヒョイッと捨てた。


「入ったからいいって問題じゃないだろ! ゴミを投げること自体非常識じゃないか!」


 カチンときてさらに怒気を強める。


「まあ確かによくないよね、これからは反省してゴミは投げないようにします。安倍裕介あべゆうすけくん」

「なぜ僕の名を?」


 予想外にあっさりと自分の非を認め、両手を顔の前に合わせて謝るポーズをとっている彼女をマジマジと見詰める。


「はい」


 転んだ時に落ちたのだろう僕の名前が書かれた名札を渡してくる。

 おもわずそれをひったくるように受け取ると、フンとそっぽを向き賢治に向かって「行くぞ」と言って歩き出す。


「なんなんだあの女」

 

 まだなんか胸のもやもやが収まらない。


「祐介知らないのか? 飯田久美いいだくみまたの名を『ばなな姫』」

「ばなな姫?」


 なんだそのふざけた名前は、と賢治を睨みつける。だが、賢治のほうが逆になぜ知らないんだよとばかりに呆れ顔をした。


「この学校では有名だぜ。俺たちと同じ医学部二年でそのうえ特待生。あの抜群のスタイルと美貌を持っていて頭までいいなんて、天は二物を与えずなんて嘘だな」


 確かにスタイルは良かった。それに世の中から見たら美人なのも認めよう。僕の趣味ではないが。


「あのクリッとした大きな瞳、ちょっと気の強そうな態度」

「で、なんでバナナ?」


 話の腰を折るのも悪いので黙って聞いていたが、ダラダラと外見を褒めだした賢治に痺れを切らしそう聞いた。


「あぁ、そんな女神のような彼女の食事はいつもバナナなんだ。彼女が構内でバナナ以外の食べ物を食べてる姿を見た人はいままで一人もいないって話だぜ。やっぱあのスタイルの良さはバナナに秘密があるのかな」


 一人はしゃいだ声で続ける賢治をどこか冷めた目で見詰めながら、どうでもよい情報だったと聞いてしまったことを後悔した。


 ただのバナナ好きの性悪女だ。なんだあの短いショートは。

 すっきりとした明るい茶髪と勝ち気そうな大きな目がニコリと微笑むさまが頭に浮かび慌てる。

 記憶が改ざんされている。よく思い出せ。茶髪の短髪、人を転ばせて笑っているような女だぞ。あれはバナナばかり食べてる猿だ。そうだ日本猿に違いない。そう思うことでなんとかムズムズする気持ちと腹の虫に折り合いをつける。


☆──☆


 お昼休み、賢治と二人で学食に行くと、賢治が僕を肘で突付いて指差した。指された方向をみるとそこには数人の男女と共に食事をとっている彼女の姿が見えた。

 他の生徒は皆学食を食べているのに対し確かに彼女はバナナを食べていた。

 いや正確にはすでに食べ終わっていて、テーブルの横に置かれたバナナの皮がそれを物語っていた。

 彼女が何か話すたび笑い声が聞こえる。


「あーかわいいな、久美ちゃん」

「そうか、俺にはただのおしゃべりな猿にしか見えんが」


 食堂の奥にいるおばちゃんにAランチ一つと声をかける。「お前にマジかよ」と呆れたように眉に皺を寄ながら、「俺もAね」と横から顔をだす。


「賢治こそ一度眼科で見てもらえ、そしたら彼女の正体がわかるから」

「祐介こそさっきこけた時、腰だけじゃなく頭も打ったんじゃないか?」

「ねぇ、誰の正体がわかるの?」

「だから、あの猿女」

「……裕介」


 賢治の慌てた声に思わず振り返る。


「あっ……」


 そこにはさっきまで友達と楽しくおしゃべりしていたはずの、あの猿女もとい久美の姿があった。


「私けっこう猿、好きよ」


 右手に握り締められたバナナが、普段より大きな曲線を描いている。


「これさっきのお詫び、どうぞ」


 そしてその大きく曲がったバナナを僕のトレーに彼女は無造作に置いた。


「あっ、おい待てよ!」

「なに?」


 顔は笑っているが声に怒気が含まれている。


「あ、ありがと」


 その迫力におもわずそう言う。本当はこんな握り締められたバナナなど食べたくないのだが。


「いえ」


 僕に向かってニコリと微笑むと振り返ることなく食堂を出て行った。きっと漫画なら彼女の額には怒りマークが見えただろう。

 

「あー久美ちゃん、俺はそんなことこれっぽっちも思ってないよ」


 立ち去る彼女の背中に賢治がそんなことを叫んでいた。


「これ、どうすればいいんだよ」 


 食べ物を粗末にしてはいけない。

 不自然に曲がったバナナを食べるべきかどうするべきか悩んだすえ、賢治のトレーにそっと乗せる。


「えっ。くれるの?」


 賢治は彼女の手の形につぶれたバナナを喜んで食べたのだった。

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