インド洋

「来ないで!」

 うら寂しい東尋坊の崖際に、ゆみの声がこだまする。

「待つんだ! それ以上は危険だ!」

 棟方むなかたは必死の形相で叫んだが、弓子がそのことを理解していないはずはなかった。

 溢れる涙を拭いながら、弓子が声を絞り出す。

「その通りよ……。稲村いなむらさんを殺したのは私」

 棟方の脳裏に最悪の想像がよぎった。弓子は、自らの死をもって稲村殺しをつぐなおうとしているのではないか。

 弓子の背後には茫漠ぼうばくたる灰色の海が広がっている。

 冬のインド洋は暗く冷たい。ここから飛び降りれば、万に一つも助からない。

 棟方はその手を弓子に向かって差し出し──


 ◆


 編集者の修正を経たその原稿を見て、私はうんざりした気分になった。

「……いやおかしいでしょ」

「何がです?」

「何がじゃないよ。インド洋だよインド洋。何が悲しくて冬のインド洋に飛び込まなきゃいけないんだよ。追い詰められた殺人犯が飛び込むと言ったら冬の日本海でしょうが。何だよ冬のインド洋って。それはもうガンジス川とシタールの音色なんよ。弓子じゃなくてサラスヴァティーなんよ」

「でもしょうがないですよ。もう世界はすっかり変わってしまったんですから」

 そう。世界はすっかり変わってしまった。

 西暦3020年、日本列島がめちゃめちゃ移動を始めたのだ。

 というのも、なんかプレートの動きがめちゃめちゃ活発になってしまったからなのだが、その速さといったらこれが尋常ではなかった。

 日本列島は、わずか一年でインド洋まで移動してきていた。

 東尋坊とインド洋は繋がった。だから、弓子が飛び込めばインド洋に落ちるという描写は、何も間違っていないのだ。間違ってはいないのだが……。

「ここを『日本海』にしちゃうと、読者が『ああこれは3019年以前の話なんだな』ってなっちゃうんです。やっぱそういうのって気になっちゃうんですよね。話の本筋とは関係ないところで引っかかりが発生しちゃって、感動がブレちゃう」

「だからっていくらなんでもインド洋は……」

「もうそういう世界なんですよ。諦めてください。これから先、また日本が元に戻る保証なんてないんですから、ここはインド洋で行くほうが安全です」

 そういうものなのだろうか。そう言われても、やっぱり私は元の日本が恋しいのだ。

 その憧憬も込めて、やはりここは「日本海」で行きたかった。

 私は変わってしまった世界を恨んだ。

「ああ、あともう一点ありました」

「まだあるの? 何?」

「この部分、棟方も弓子も二人とも叫んでますけど、二人ともマスクしてないですよね?」

 世界は、すっかり変わってしまった。

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