第13話


 休みの度に、菊は足繁く武田モータースを訪れた。

 お陰で今では、武ちゃんこと武田社長に事務所で苦手な缶コーヒーを奢ってもらうまでには親しくなっていた。



 そんな、すっかり春めいてきたとある水曜日。


 いつも通り菊は、武田モータースの来客用駐車スペースに停めようと、愛車の軽自動車の左ウインカーを点滅させた。しかし、


「あれ?」


 来客用駐車スペースには既に何台か車が留まっており、停めるところがない。仕方なくウインカーを戻して、少し離れた近くのコインパーキングに停めることにした。


 車から降りると、少し強めの風が吹き、思わず目を瞑る。


 数年前に買った型落ちのベージュの春コートのポケットに手を突っ込んで、菊はてくてく歩いて道路向かいの武田モータースに向かった。


 少し離れた位置にある近くの横断歩道を目指して歩いていたのだが、その菊の足が、不意に止まる。


「………え?」


 道路向かいの武田モータースに投げた視線が一気に強ばった。息が詰まり、心臓が高鳴る。突然の動悸に、思わず胸を押さえた。


(……え、嘘、…買われるの?)


 菊の休日唯一の楽しみは、あのキッチンカーを眺めることだった。モチベーションを高め、しんどい仕事に立ち向かう勇気を貰うことだった。


(え、待って、待って、)


 そのキッチンカーの傍に、若い夫婦らしき男女が立っているのが見える。そしてその夫婦の傍らには、以前菊に説明してくれたように、松原が立って説明を施している様子が見えた。


「……っ」


 気がつけば菊は走り出していた。

 走って横断歩道の前まで着いたが、信号が変わるのさえも待ちきれず、キョロキョロ道路を見渡して、息を切らしながら渡るタイミングを探った。


 しかし車の切れ目はできずに、歯噛みしながら信号を睨み付けた。


(だめ、だめ、あれだけは、あれだけは、買わないでっ)


 勝手な言い分であることは承知している。

 それでも菊は祈るように、信号が青になった瞬間、全力で渡った。


「はあ、はあ、はあ、」


 そして息も絶え絶えに武田モータースにたどり着き、膝に手を当てて息を整えていると、


「菊さん、大丈夫ですか、」


 不意に声がして、菊は汗まみれの顔をあげた。


 そこにいたのは、心配そうに駆け寄ってきたらしき松原。

 その松原の後ろでは、若い夫婦が訝しそうに菊を見ていた。


「松原さん、あれ、売れちゃうんですか?」


 かすれた声で聞く菊に、


「菊さん、すみません、少し事務所で待っていてもらえますか?」

「待って!私、買うから!貯金下ろしたら頭金くらいにはなります!だから!」

「落ち着いて。…すぐ俺も行きますから、事務所で待っていてください。」


 松原は切羽詰まった菊を落ち着かせるよう、両肩にそっと手を添えて、穏やかな声音で菊を事務所へと向かわせた。


 菊は何度か振り返りながらも、何とか事務所へと歩を進める。しかし、向かいきれずに途中で止まってキッチンカーの行く末を見届けていると、接客している松原と目が合った。


「………」


 気まずく視線を反らし、菊はとぼとぼと事務所を目指して再び歩き始めた。


     ※ ※ ※


 武田モータース事務所には誰もいなかった。

 しかし勝手知ったる菊はいつものようにパイプ椅子に座るが、落ち着かず、そわそわと手を何度も組み直した。


「すみません、お待たせしました。」


 しばらくして事務所の扉がガチャリと開き、走ってきたのであろう松原が軽く息を切らせて入室してきた。


「こちらこそすみません。その、…商談の邪魔をしてしまって、」

 

 菊は立ち上がり、頭を下げた。そして、


「あの、」

「あの、」


 二人は同時に口を開き、しかし菊は松原に手のひらを向けて、先に話すよう促した。


「あの、菊さん、今日、あのキッチンカー、試乗してみませんか?」

「…え、」

「大丈夫、社長の許可は貰ってますから。」

「…え、でも、」

「この辺を走らせながら、菊さんの夢についてもう少し考えてみてください。それと、」


 松原は黒い髪をガシガシと掻きながら、言葉を探すように少し俯いた。言いにくいことを言おうとしていることを察して、菊は息を飲む。


「大きなお世話だとは思うけど、起業を目指すなら、貯金は保険として取っておいた方がいいと思います。その、…貯金の全てをはたいて今あの車を買っても、この先の資金がなくなったら、あなたにとってあの車は『ただの車』になりますよ。」


 松原は、菊がキッチンカーの購入に貯金を頭金として出すと言った発言から、全額キャッシュで買い取れるだけの貯金が菊にないことを察した。


 それは松原にとっては商売人としての資質を問われる出過ぎた発言だった。だが、菊を思ってのことだとすぐにわかり、菊は俯き、袖で目を押さえ、小さな声で「ありがとう」と絞り出すように、言った。

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