第10話


「おう、最近お前、元気なかっただろ。こう見えても俺はお前の『お父さん』だからな、気を利かせてやったんだぞ。」


 父親の押し付けがましい親心など、今の菊の耳にはまったく届かない。


「…すごい、すごい、」


 菊は口を手で抑え、感嘆が漏れるのを必死で堪えた。心は踊り、見開かれた瞳は太陽の光を全て吸い込んだように輝く。


「…すごい、可愛い、」


 頭の中に想い描いていたモノが現実として目の前に現れると、嬉しさのあまり表現力を奪われ、菊は身動ぎ一つとれなくなった。


 そこにあったのは、古びてはいたが可愛らしいフォルムのトラック型のキッチンカー。


「中古だが、前の持ち主が大事に使ってたらしいから、まだまだ現役だぞ。なあ松原くん、」


 父親の呼び掛けに応えるように、キッチンカーの運転席から降りてきた松原が「そうですね」と軽く笑う。


「前のオーナーさんはこのキッチンカーでサンドイッチのような軽食を販売していたので、荷台の販売スペースはガラス張りのショーケースになっていて、」


 松原が開けてくれた荷台の説明を聞きながら、菊は何度か袖で目頭を拭った。



『いらっしゃいませ!』

『おう菊ちゃん、今日も『ころりん』は美味しそうな弁当が並ぶねぇ、そうさな、今日は何にするかな、』

『今日は紀子さん特製の唐揚げ弁当がよく売れてますよ。おむすびはシンプルに塩むすび!』

『おういいね、それをくれ!』

『はい!ありがとうございます!』

『菊ちゃん菊ちゃん、こっちには梅と昆布と、高菜のおにぎりをもらえるかしら?』

『あ、はーい。少々お待ちください。紀子さーん、おにぎりの注文いただきましたぁ!』

『はいはい。あらあらまあまあ、いつもありがとうございます。』

『いつもありがとうございまーす。』


「……………」


 菊は、堪えきれずに踞り、小さくなって嗚咽を漏らしながら、ようやく心の底から泣くことができた。



     ※ ※ ※



 武田モータースの事務所の冷たい机に俯せ、菊はしばらく泣いた。


 父親は見るに耐えなかったのだろう、事務所に入りたがらなかった。


 そんな父親に、代わりに見てやってくれと頼まれた松原が事務所に入り、菊から少し離れた位置のパイプ椅子に座って、プレハブの外を眺めていた。


「……すみません、泣いちゃって…」


 涙と鼻づまりでうまく声が出せない菊の言葉を聞き取った松原は、「いえ、」とだけ答えた。


「………うぅ、」


 その松原のぶっきらぼうさに、再び菊の瞳からは涙が溢れる。優しくされない優しさが、今は染みた。


 どれ程の時が流れた頃か。


「その、…瀬戸さん、ああ、あなたのお父さんの瀬戸さんから聞きました。その、…キッチンカーが、夢だって、」


 不意に松原がポツリと言った。


 菊はしゃくり上げながら顔をもたげる。


 一瞬目が合い、先に反らしたのは菊だった。


「………」


 松原はそんな菊を見るのをやめ、手元の缶コーヒーを眺めながら語を連ねた。


「自分、仕事柄色んな車の整備をしますが、キッチンカーを修理に持ってこられるお客さんは、結構好きです。」

「…え、」

「たぶん、その人にとって城?ていうかパートナー?みたいなもんだから、オーナーさんたちの思い入れが強くて、営業に使われるから確かにキズは多いけど、車への愛が半端ない。」

「…愛?」


 その言葉に松原は照れたのか、ははっと笑い、


「修理を終えたキッチンカーを俺たちが納車するのって結構稀なんです。大体がオーナーさんがすぐ取りに来られるから。しかも大体、その時車を労いますよ。『おかえり』とか『また頑張ろうな』とか。」


 そして松原は、既に涙が止まり、いつの間にか、じっとこちらを見据えている菊を、真っ直ぐ見返して凛とした声で言った。


「あのキッチンカー、あなたに似合ってましたよ。」


 その言葉に、菊は何度も頷き、枯れたと思った涙を再び溢れさせた。


     ※ ※ ※


「えー!買ってくれたとかじゃないの!!」


 しかし現実は厳しい。


 一頻り泣いて、さすがに松原も仕事に戻った頃、代わるように事務所に入ってきた父親に、


「ああ、でも俺が頼んだから、あのキッチンカーは200万までなら値切れるらしいぞ」


 と言われた。


「買ってくれたのかと思ったのに!」

「はあ?俺が買うわけねぇだろ!どこにそんな金があるんだよ!」

「流れ的にそうだったじゃん!」

「お前を元気付けるためにキッチンカー見せてやろうと思っただけだろ!勝手に勘違いしたお前が悪い!」

「はあ!?」


 結局、親子はこの日から2日、口を利いていない。


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