第7話



 翌々日、未だ腫れぼったい目蓋のまま仕事へ向かうと、何やら作業場に不穏な空気が流れていて、菊は息を飲んだ。

 

 何があったのか聞こうと思い、一之瀬を探してきょろきょろしていると、


「瀬戸さん、ちょっと、」


 小太りで背は低いが威圧的な五十嵐に、裏へ行くよう目配せされた。


「は、…はい。」


 えもいわれぬ緊張感に額が冷え上がり、心臓が口から飛び出そうになる。

 震えそうな足を拳で叩きながら、菊は先を行く五十嵐の後に付いていった。


「………!」


 裏へと繋がる重い鉄の扉を五十嵐が開け放ち、しかし菊が通る前に五十嵐はその手を離す。慌てて菊が扉を開けて裏に出て、刹那菊はひどく泣きそうな顔をした。そしてその足は震えながら止まる。


 光の差し込まないスーパーの裏には、二ノ宮が微笑みながら腕を組み、立って菊を待ち構えていたのだ。


 おののく菊を尻目に、ずかずか歩いて五十嵐は二ノ宮の横に並ぶと、菊と向かい合い、きつい視線を投げつけた。


「あ、あの、」


 菊はおずおずと口を開きかけたが、


「木曜日、最後の値引きを行ったのは、あなただったのよね。」


 高圧的な五十嵐のしゃがれた声に二の句を継げなかった。ただ菊は俯き、「はい。」とだけ答える。


「あなた、値引きシールはきちんと片付けたの?」


 五十嵐の問いに、菊ははっと顔をあげた。


 あの日、紀子の死を告げられ、菊はうっかり値引きシールを落としてしまった。すべて拾いきったと思っていたが、そもそも拾った記憶も片付けた記憶もうまく辿れない。


(片付けて、なかったんだ。)


 業務中に話しかけられたことなど、何の言い訳にもならない。

 菊の顔が一気に青ざめた。


「お客の一人が値引きシールを不正使用して、万引きGメンに捕まったのよ。うちの、値引きシールを使ってね。」


 一瞬、目の前が真っ暗になる。

 菊は慌てて口を開いた。 


「あの、私が落としたんです!すみませんでした!」

「謝って済む問題ではないのよ、瀬戸さん。」


 表面的には穏やかそうに、二ノ宮が言った。


「一昨日、お店のお客様と親しそうに話していた時に落としたのでしょ?見ていた従業員さんがいらっしゃるのよ?」


 人のいい微笑みを浮かべたまま、二ノ宮は続けた。


「まだ入って間もないのに、業務中におしゃべりをして値引きシールを無くすなんて、私も長くここで働いているけど、聞いたことがないわ。ねえ、五十嵐さん。」

「ホントね。私もないわね。」

「………っ」


 菊は二人を直視できずに俯き、それでも泣くまいと歯を食い縛った。爪が掌に食い込むほど強く、拳を握りしめる。

 しかしそれでも視界は見る見る歪んでいって、大きな涙がいくつもボロボロ溢れて床を汚した。


「若いといいわね。泣けば許されるから。」

「人が見たら、私たちが苛めているように見えるんだもの。若いってホント得ね。」


 二人は顔を見合せ、そしてわざとらしく困ったように笑った。


     ※ ※ ※


 そのあとのことを、菊は覚えていない。

 ただ気がつくと、子供のように踞って泣いていた。


 慰めてくれる人はどこにもいない。


 それでも立ち上がって仕事に戻らないと、プロとは言えない。


「………うぅ、」


 スーパーの仕事を嘗めて疎かにしていたつもりは毛頭ない。目的のための金稼ぎの手段と思っていたわけではない。


 ただ、「ころりん」ほどの思い入れがなかったのは事実だった。それが、注意力散漫を生んだ。


(私のせいだ。)


 ならば、同じミスをしないように気を付けるしかない。謝ってもう一度頑張るしかない。


「………っ」


 わかっていても、菊は、しばらくここから立ち上がることができなかった。

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