第2話
「ころりん」は店舗を取り壊し、新しくフランチャイズチェーンのコインランドリーに生まれ変わると言われた。
枕に顔を埋めて泣き続けた翌日、目が開かないほど泣き腫らした顔を見て、土木仕事に向かう前の父親は笑った。
「そんなに好きだったんならお前が継げばよかったじゃねぇか」
「はあ?無理に決まってるじゃない。社長は息子さんに継がせたかったんだよ。私がやりますとか、言えるはずないよ。」
「いやいや、店そのものじゃねぇよ。なんだよ、お前が好きだったのは店舗なのかよ。」
ゲラゲラ笑いながら玄関を開けた父親の向こう側で、太陽の光が煌々と差し込んだ。
「………」
未だに心が塞ぎ込む菊には、父親の言葉の意味はよく理解できてはいなかった。しかし、何故かこの瞬間、あれだけ見るに堪えないと思っていた「ころりん」店舗解体の現場に立ち会わなければ、と、強い焦燥感に駈られた。
踵を返し、「ころりん」の面接の時に着た7年前のスーツを取り出し袖を通す。当時流行ったフレッシャーズの濃い灰色のスーツは、タンスに放置しすぎて若干古めかしい匂いがするが、気にする暇もなかった。
慌てて鏡の前に立つと、腫れぼったい目蓋に黒いアイライナーを強めに引き、キツイ赤めのリップを塗った。
スニーカーばかり履いていたため、足を入れたハイヒールの不安定さに一瞬戸惑ったが、菊はよろめく勢いのまま玄関を飛び出した。
※ ※ ※
2台の重機が「ころりん」の外壁に冷たい鉄の爪を立てる。コンクリートの瓦礫が店内だった場所に、うず高く積まれていた。
機械音と破壊音のみが谺した。
菊は溢れる涙を何度も袖で拭う。アイライナーで袖が黒く汚れる。だが気にする余裕などなかった。
ポケットから取り出したスマホで、壊されていく「ころりん」の最後の姿を残そうと横向きに構えてみるが、指が震えて照準が合わない。
「あ!」
苛立った指がスマホの画面を強めに弾いてしまい、スマホがカシャンと軽い音を響かせ落っこちた。
慌てて菊はそれを拾おうと屈んだ時、黒い影が菊に覆い被さった。影はぬっと腕を伸ばして、菊より早くスマホを拾った。
見上げると、スーツを着た30代くらいの男が太陽を背に立っていた。
菊は急いで立ち上がり、頭を下げた。
「拾ってくださってありがとうございます。」
「ころりん」での販売に従事していたときに培われた笑顔で手を伸ばす。しかし涙を拭いすぎて目の回りを黒くする菊の笑顔はあまり綺麗なものではなかった。
それでも、男は柔和に微笑み、
「仕事において大事なのは意欲です。意欲のある人はどんな業種においても必要とされます。頑張ってください。」
低く、耳障りのよい声で菊に言った。
そして指が長く爪の綺麗な手で、菊の、画面の割れたスマホを差し出した。
「……っ」
急に恥ずかしくなった菊は視線を落とし、俯き加減にそれを受け取ると、照れ笑いを溢した。既に涙は消えている。
「………」
「自分もころりんさんのおにぎり、好きでしたよ。」
そう言われて、菊ははっと顔を上げた。
「……えっと、」
菊の前に立つその男に、菊は見覚えがない。
「…あ、」
しかし、60代の橋本に聞いたことがある。
水曜日の閉店間際、たまに来るお客さんに、上等なスーツを着た目元の涼しげな男性がいる。目の保養になるよと水曜日の出勤を勧められていた。だが、水曜日は入荷もなく比較的客足も少ないため、初代社長に水曜公休を固定されていた菊は苦笑を漏らすしかなかった。
更に、ここ2年は日々の業務に忙殺されて、水曜日に勤務していても客の顔さえ覚えられなくなっていた。その事実に菊は今、気がついた。
(……この人だったんだ、きっと。)
そんな男を前にして、菊はおずおずと後退りをする。今の自分は控えめに言っても清潔感がない。「ころりん」の従業員だったとバレることにさえ羞恥心を抱く。
菊は一度会釈を返すだけで、男から逃げるように踵を返してその場を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます