第9話 燐風

 相徳鎮しょうとくちんの外には林があった。

 水晶すいしょうはそこで潘紅玉はんこうぎょく烈火れっかから下ろしてもらった。いい加減1人で馬から下りられるようにならなければならない。そもそも馬を1人で乗りこなせるようにならなければいつまでも潘紅玉に迷惑を掛けることになる。そうは思っているが、如何せん馬は簡単に手に入らないし、馬が手に入っても乗馬の練習をする暇はないだろう。


「ありがとうございます。それじゃあ潘さん、ここで待っていてくださいね」


「え? ここで? すぐ戻る?」


 潘紅玉は不満そうに口を尖らせて訊ねる。


「私の所持金ではローブは買えないと思うので……とりあえず街の様子を見て来ます。古着とかで安いローブが売ってたら買って来ますね。すぐ戻りますよ」


「ふーん。買えなかったらどうする? このまま村に入っていいの?」


「その時は私のローブをあげますよ。私より潘さんを隠さないとですから」


 水晶が苦笑しながら自分のボロボロの茶色いローブの裾を掴んで言うと潘紅玉は納得したのか軽く頷き木の根元に座り込んで1つ大きな欠伸をした。


「じゃあ任せたよ。早く帰って来てねー」


「分かってますよ。いなくならないでくださいね」


「はいはい」


 潘紅玉は木の幹に寄り掛かると気のない返事をしてヒラヒラと手を振った。

 あまり宜しい態度ではないが、水晶には潘紅玉が1人置き去りにされる事に対して拗ねているのだと言う事が分かっていた。この人はそういう人だというのはここ数日一緒にいただけなのに早くも分かるようになっていた。

 水晶は、拗ねてふて寝し始めた潘紅玉の方を見ている烈火の首を撫でてやるとフードを深く被り、相徳鎮へと向かった。


 ♢


 相徳鎮の街中は活気があった。

 通りでは街の男達が露店を開いて客を呼び込み野菜や魚、肉などを売っている。

 一方向こうの通りでは腕自慢が拳法の演舞を披露し客を集め投げ銭を得ている。

 ローブを来た者もチラホラ見受けられる。この村でも崔霞村さいかそんと同じように女もローブを着れば外を出歩けるようだ。

 これまで水晶が点々として来た村や街の中には、例えローブを着て肌を隠しても、女が外を歩こうものなら罵声を浴びせられたり、乱暴されたりと治安の良くないところもあった。

 いつかは女が堂々と外を歩き、男と同じように生活が出来たら……と、今までも水晶は密かに願っていた。

 だが、潘紅玉という女と出会った今、その願いは現実になるかも知れないという希望をもたらした。それは水晶にとっては堪らなく嬉しい事だった。


「ローブ買えなかったら潘さんに美味しいもの買って行ってあげよう」


 子供っぽくて生活力ゼロの女だが、水晶はいつも潘紅玉の事ばかり考えるようになっていた。今も自然に笑みが零れる。


 水晶は男達が露店を開いている辺りを覗き込む。

 食べ物は潤沢に売っているようだ。

 布も色々な種類がある。


「すみません。ローブはありますか?」


 水晶は布を売っている初老の男に訊ねる。

 すると店主の男は水晶の顔を覗き込み「ほぉ」と感嘆の声を漏らす。


「あんた旅の人? この街であんたみたいな若い女が外を出歩いてるのは見た事がないからさ」


「あっ……」


 水晶は慌てて顔を下に向けた。


「ああ、隠れなくていいよ。俺は別に男だろうが女だろうが構わないよ。客は客だからね。ローブを探してるんだっけ? 今のじゃ駄目なのかい?」


「……えっと、連れの分を……買いたくて」


 予想外の店主の態度に水晶は目をしばたかせる。


「そうかい。一番安いので200文」


 店主が裏から出してきたのは水晶の来ているローブよりも上等そうな灰色のローブだった。しかし、水晶は小銭の入った粗末な巾着の口を広げ中から銅銭を5枚手に落とすと店主に差し出す。


「5文しかないんですけど……古着でもボロボロでも構わないので売って頂けませんか?」


 すると店主は眉間に皺を寄せ、鼻の頭をポリポリと掻いて水晶を見る。


「んー、俺は男でも女でも客であれば差別はしないが、金の払えない奴は客じゃないからな。よくそんな端金はしたがねしかないのにここへ来たな。帰った帰った」


 店主は人が変わったように水晶を手を振って追い払った。

 その態度にムッとしていた水晶だったが、突然、隣から割り込んで来たガタイのいい男の尻に突き飛ばされて、道の真ん中に停めてあった壺を積んだ荷車の車輪に額をぶつけながら盛大に倒れた。手に持っていた銅銭は宙を舞い、チャリンという音を立てて何処かへと転がっていった。


「あっぶない!!」


 その時、近くで女の声が聞こえた。同時に一陣の風が水晶の頭上を通り過ぎる。

 打ち付けた額の痛みを堪えながら、水晶はゆっくりと苦痛に歪む顔を上げる。


「大丈夫?」


 声を掛けて来たのは黒っぽいローブを纏い四角い大きな箱を背負った暗緑の髪の若い女だった。

 手には饅頭まんとうを持っており、それを器用にも手の上でポンポンと弾ませている。


「大丈夫……です」


 大丈夫ではないが水晶はそう答えた。

 すると女は饅頭をかじって人差し指を自分の額に指を当てる。


「血、出てるよ」


「あ……」


 言われて水晶が額に手を当てると、生暖かいヌルッとした真っ赤な血が手の平にべっとりと付いた。だが、見た目ほど痛みは感じない。


「ごめんね。今あたし急いでるから……あー……1本向こうの通りにまあまあデカい飛脚屋があるんだけど、そこの楊譲ようじょうって言う爺さんを訪ねて手当てしてもらいな」


「え? 飛脚屋?」


「そう。行けばわかるよ。燐風りんぷうに言われて来たって言えば勝手に手当してくれるよ。じゃ。またね」


「あ、ちょっと……」


 一方的に話を進めていった女は信じられない程の速さで道を走り、道沿いの塀を飛び越え、しまいには屋根の上を走って姿を消した。後に残ったのは巻き上げられた砂煙だけだ。


「……誰? りんぷう?」


 水晶は不思議な女との遭遇に茫然としていたが、手の中から銅銭が消えている事に気付き慌てて辺りを探す。

 しかし、銅銭は1枚も見付からなかった。


「もう……最悪……」


 水晶は涙目で呟く。


 往来の真ん中でしゃがみ込む水晶に、周りの人々の視線が集まる。

 それでようやくフードが外れ茶色のポニーテールが露になっている事に気が付いた。

 水晶は急いでフードを被って長い髪を隠すと立ち上がり、その場から逃げるように路地裏へと走った。

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