旅の終わりの記憶、あるいは始まりの景色

サトウ・レン

第1話

 どうやってここまで来たのかはあまり覚えていない。


 ふいに眼前に広がる故郷の村リエンは、長い長い旅路を終えてきたぼくにとって、久しく見ていない懐かしい景色だったはずなのに、郷愁を感じることもなく、最初は先ごろまで毎日のように見てきた日常の光景にさえ感じてしまったものの、踏み入れるとそこは明らかにぼくが知っていたかつてのリエンとは違っていて、人々が住み家にしていた時期が確かにあった、ということを忘れてしまったのか、その村は醒めない眠りにつくように、しんと静けさを保っていた。


 立ち並ぶ木造りの家々の戸はどこも閉まっていて、試しに適当な家屋をひとつ選び、呼び鈴を鳴らして、扉の中央のあたりを、二度、三度、強く叩いてみる。想像していた通り、反応はない。留守にしているのではなく、誰も住んでいないのだ。取っ手を引っ張ってみるが、施錠されているのだろう、その扉が動くことはない。


 ぼくはひとつ息を吐いた。


 何をやっているんだろう……。誰もいないことなんて、ぼくが一番よく分かっているはずじゃないか。あれからどのくらいの月日が経った、と思っているんだ。


 ……どれくらい経ったんだろう。もう刻まれる時の流れを正確に掴むことをやめてしまって、長く、その感覚は曖昧になっていた。


 それでもぼくは村の中を歩き回りながら、誰かの名残りを探していた。


 死にゆく村に、まだかすかに残る生の気配はぼくの勘違いではない。自信などひとつもなく、ただ信じることがこの村を訪れたぼくにできる唯一のことだった。


 駄目か……。


 村を一周回ってみたが、音を外へと放つのは、弧を描くように跳ねるルカエの鳴き声や、低空から高い位置に向かって飛行するラスカのさえずり、といった、ひと以外の生きとし生けるものばかりで、彼らは姿を消したひとたちの分まで、やたらと元気だった。といっても、彼らはぼくたち人間のことなど何も考えていないだろう。それはぼくたちが彼らのために生を充実させようと思わないのと同じことだ。


 ぼくの住んでいた家がある。


 その家は他の家屋の一般的な大きさに比べて、ひと回りほど小さく、壁の損傷も激しい。貧しさを、その環境をときに憎みながらも、それでもぼくにとって両親とともに暮らした大切な場所だった。


 取っ手を引くと、他とは違って、ぼくの家の扉だけはすんなりと開く。まるでぼくを誘い込もうとしているかのように。


 部屋に染み付いたにおい、というものがある。それはどれだけ似ていてもまったく同じになることはない。生活感が醸し出すものだ。この家にはまだその残り香が漂っている。


「お前は?」


 背後からの問い掛けは、ひとの存在を求めながら、諦めにも似た気持ちでひとの不在を受け入れようとしていたぼくを容赦なく驚かせた。


 振り返るとその人物は、薄汚れた浅黄色の外套を纏って、頭巾の部分をまぶかに被っていた。素顔の隠れていない部分は、陽に焼けて濃くなった肌と鋭く尖った鼻先、髭も特に生えてはいなさそうだが、全体的に中性的な印象を受けて、性別の判断が付かなかった。


「昔、ここに住んでいたことがある」


「今は、ただの廃屋となってしまっているが……哀しいか?」


「いや、実感がわかない」


「お前はいま何をしている」


 その言い方はまるでぼくが誰かを知っているかのようだった。


「旅人だよ。長く、長い旅をしている。当てもなく」


「放浪の旅、というやつか。良かったら、泊まっていくか」


「ここはいま、あなたが?」


「この村にあるものは、もう誰の物でもないさ。村としての機能を失ってしまってるからな。俺は、そうだな……、野盗のような連中とさほど変わらないな」


 野盗、という言葉が喚起されるような悪辣さとは無縁の雰囲気と口調で、その人物が言った。


「仲間が隠れていて、夜に襲うつもりだとしたら、残念だけど殺して奪うほどの価値があるものなんて何も持っていない、とだけ先に言っておくよ」


「仲間なんていないし、誰かを殺してまで得たいものはたったひとつしかないよ。それを持っていない限りは、安心していい」


 そのひとは目と髪を覆っていた頭巾部を上げると、その顔は昔馴染みにとてもよく似ていたが、ぼくは心の中で小さく首を横に振った。いるはずがない。それに、あの頃と変わらぬ姿で、ぼくよりもずっと年若いままなんて考えられない。


「あなたの親は、この村の人間なのかい?」


 にも関わらず、私は思わず、そんなことを口にしてしまっていた。


「さぁ、どうだったかな」


 と、そのひとはちいさく笑った。

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