第22話
ヒースクリフさんによって案内されたのは応接室ではなく、侯爵の執務室だった。
「えっと、こちらでいいんですか?侯爵様はどちらに?」
まさか、応接室ではなく、侯爵の執務室に通されるとは思わなかったので、困惑してしまう。ロザリーも困惑しているようで、目をパシパシと瞬かせている。
「旦那様はいらっしゃいません。私が、こちらで仕事をしなければなりませんので、アンジェリカお嬢様にはこちらにいていただきます。私の目が届かないとクリス様がなにをするかわかりませんので。」
ヒースクリフさんはクリスをジッと見つめながら、そう答えた。
私の頭の中は疑問符でいっぱいである。ヒースクリフさんの言葉には疑問に思うところが多々ある。
一つ目は、侯爵がいないということだ。確か侯爵は女性を見ると襲い掛かってしまうような呪いにかけられていたはずだ。このような昼間にどこに行ったというのか。まさか、昼間はお屋敷で働いている女性の使用人が多いから、万が一のことを考えてどこかに避難しているのだろうか。
でも、どこに?
もう一つの疑問は、ヒースクリフさんが侯爵の執務室で仕事をするという点だ。ヒースクリフさんの仕事というのはなんなのだろうか。もし、侯爵の補佐だというのならば、侯爵と一緒にいた方がいいと思われる。もしかして、侯爵の仕事を肩代わりしているのだろうか。
もしそうだとするならば、侯爵は仕事をしていないということだろうか?
最後の疑問は、クリスが何をするかわからないので、ヒースクリフさんの目の届くところにいないといけないという点だ。
今まで散々クリスは私の家に遊びに来ていたはずだ。その時には周りに人の気配はなかった。つまり、クリスのお目付け役はいなかったわけだ。それなのに、なぜ今、急にそのようなことを言うのだろうか?
それに、クリスはとても賢いのでヒースクリフさんの迷惑になるようなことはしないと思うんだけどな。
「えっと、侯爵様はどちらに?私、ご挨拶に伺った方がよろしいかと思いますの。」
「その必要はございません。旦那様は……お忙しいお方ですので。」
ヒースクリフさんのにこやかな笑みが、消えた。そして、なぜだかクリスを見ながら、そんなことを言った。っていうか、忙しいっていうのに若干の間があった気がするのは何故だろうか。なにか、言いにくいことでもあるのだろうか。
もしかして、侯爵は初恋の人の元に通っている、とか?だから、私には言い辛いのだろうか。
でも、ちょっとそれはないか。
侯爵は女性を見ると襲ってしまうということだから、初恋の人にも気軽に会いに行くこともないだろう。とすると、本当に仕事が忙しいということなんだろうか。でも、執務室以外で仕事?王城にでも行っているのかしら?
「私、ヒースクリフさんのお邪魔ではないかしら?クリスならとても賢い子だから、私が目を離さないように見ているわ。だから、ヒースクリフさんが心配するようなことにはならないと思いますの。それに、侯爵様の執務室に私が入って怒られないかしら。余計なものに触ったり、汚したりしてしまいそうで、怖いわ。」
本音と少しだけ侯爵の情報を引き出せないかと思い、ヒースクリフさんに探りを入れる。
「邪魔になんてなりませんよ。それに、アンジェリカお嬢様が余計なことをなさるとは思っておりません。むしろ、余計なことをするのは確実にクリス様です。アンジェリカお嬢様にクリス様がご迷惑をおかけする姿が目に浮かんで仕方がありません。心配をしながら仕事をするのは、仕事の効率が悪くなりますので、アンジェリカお嬢様とクリス様には目の届くところにいていただきたいのです。」
ヒースクリフさんはそうにこやかに説明してくれたが、その目はなぜだか笑ってはいなかった。内心、余計な仕事を増やしやがって。とでも思っているんだろうか。
特にクリスを見るヒースクリフさんの目が冷たいような気がする。
もしかして、ヒースクリフさんはクリスのことが嫌いなのだろうか。
「さて、私は仕事をしておりますが、アンジェリカお嬢様はこの室内でしたら好きにしていていただいて構いませんよ。もし、部屋を出たい場合は私に一声かけてくださいね。」
「え、ええ。わかったわ。精一杯ヒースクリフさんの邪魔をしないように気をつけるわ。ね、クリス?」
「にゃー。」
クリスは私の問いかけに鳴いて答えた。
ほんと、クリスは賢い子なのに、どうしてヒースクリフさんはそこまで心配しているというのだろうか。
でも、執務室からまったく出れないわけではなくてよかった。ヒースクリフさんに声をかければ執務室から出てもいいってことだから、他の使用人に話を聞くぐらいはできるよね?
でも、あれだけヒースクリフさんがクリスのことを心配しているから、クリスとは一緒に屋敷内を散策することはできないのかもしれない。
すぐに執務室から出て行きたいと言ったら、不審に思われるだろうからしばらくは執務室でクリスと遊んで過ごそうかな。調査に入るのはその後だ。
「クリス。クリスはいつも、夜は侯爵様と一緒にいるの?」
執務室のソファに深く座りながら、私の膝の上でくつろいでいるクリスに話しかける。
そう言えば、クリスはいつも私の膝の上で眠っていたっけ。昼間ずっと一緒にいてもクリスはほとんど夢の中。クリスの寝顔を見ているのも幸せだけど、もっとクリスと一緒に話したり遊んだりしたかったことを思いだす。
「にゃにゃー。」
今日もクリスは眠いのか、膝の上でまどろみだしてしまい、会話がまるっきり成立しない。何を話しかけても、「にゃー。」と間延びしたような声しか出さないのだ。
仕方がないので、私はクリスの頭をそっと撫でる。
「眠かったら寝ていいよ。ゆっくりお休みクリス。」
「にゃ。」
クリスの額にそっとキスを落とすと、クリスは頷きながら夢の世界へと旅立って行ってしまった。
クリスの寝顔もとっても可愛いけど、もっとクリスとお話をしていたかったな。
膝の上で眠ってしまったクリスを起こさないために、私はソファーから動けなくなってしまった。少しでも身じろぎをしてしまうとクリスが目を覚ましてしまうからだ。こうなってしまったら、侯爵家の使用人に話を聞きに行くのも難しいだろう。
「おや。クリス様は寝てしまわれたんですか?」
「ええ。ぐっすりですわ。よほど眠かったのでしょうね。」
話し声が聞こえてこなくなったからか、ヒースクリフさんが小声で声をかけてきた。私もクリスを起こさないように小声で返答する。
「もしかして、私がいるから寝たふりでしょうか。」
「いいえ。クリスは日中はいつも私の膝の上で寝てしまうのよ。夕方までぐっすり眠っていることが多いわ。」
「そうでしたか。いつも夜は寝ずにお仕事をされているみたいですし、疲れているのでしょう。この調子では、クリス様はアンジェリカお嬢様にいたずらは出来そうにないですね。」
クリスさんはそう言いながら私の方に近づいてきた。
というか、クリスさんは何を言っているのだろうか。クリスの夜のお仕事ってなに?侯爵と一緒に寝ているだけじゃないの?猫なのに、こんなに可愛らしい猫なのにクリスは侯爵家で寝ずの仕事をしているというのだろうか。
「あの。クリスは夜寝ないんですか?」
「ええ。そうですね。寝るように言っても、昼間は仕事ができないからと仕事をなさっておりますよ。それで昼間はずっとアンジェリカお嬢様の家に行っていたようですから、いつ寝ているんだろうとは思っておりましたが。まさか、アンジェリカお嬢様のお膝の上で寝ていただなんて……。」
そう言ってヒースクリフさんは苦笑いを浮かべた。
「クリスはそんなに大事なお仕事をしているのですか?もしかして、昼間は仕事ができないというのは私のところに来ているからでしょうか?私は、クリスの邪魔をしているのでしょうか。」
不安になって思わず大きな声が出てしまう。私の声にクリスが反応して、クリスの耳がピクリッと動いた。でも、目を開ける様子はないのでホッと息を吐きだした。
「それは、クリス様から直接伺ってください。ですが、アンジェリカお嬢様のところに行っているから仕事ができないわけではないですよ。まったく別の理由からですのでご安心ください。」
クリスから直接聞けって言われても、私はクリスの言っていることがよくわからないのにな。言葉が通じればいいのに。それでも、クリスの表情や仕草からある程度のことはわかっているつもりだが、流石にクリスの仕事内容を聞いてもボディランゲージじゃ伝わってこないような気がするし。
「そう?クリスの負担になっていなければいいのだけれども……。」
「負担だなんてそんなことはありませんよ。むしろ、クリス様はアンジェリカお嬢様と一緒にいるからこうやって無防備にぐっすり眠れるのでしょう。アンジェリカ様の膝の上がとっても心地よいのですね。」
そう言ってヒースクリフさんはクリスの頬を人差し指でつついた。けれども、クリスはぐっすりと眠り込んでしまっており、まったく反応をしなかった。
「それにしても、クリス様が寝てしまったらアンジェリカお嬢様も暇でしょう?どうでしょうか?当屋敷にも、アンジェリカお嬢様と同い年くらいの使用人がおります。話し相手として連れて参りましょうか。アンジェリカお嬢様が使用人と会話をするのが嫌ではなければ、ですが。」
ヒースクリフさんが提案してくれた内容はまさに棚から牡丹餅だった。
だって、クリスを膝に乗せたままで侯爵について使用人に聞き取り調査ができそうなのだ。これに頷かないわけがない。
「ええ。よかったら紹介していただけますか?」
「かしこまりました。今、呼んでまいりますね。彼女は一応男爵家の令嬢で、当屋敷に行儀見習いとして来ているのですよ。」
「まあ。そうなのね。」
「ええ。少々お待ちください。」
そう言ってヒースクリフさんは執務室を出て行った。
しばらくして、ヒースクリフさんは金髪の魅惑的な美女と一緒に執務室の中へと入ってきた。
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