夕焼けのアトリエ

桜川ちょち

もういちど

「……ひな?」


 名前を呼ばれて日菜子が振り向くと、夕焼けに染まった金髪の若い女性がコンビニの袋を下げて佇んでいた。逆光で顔はよく見えないし髪型も見覚えがないが、シルエットですぐにわかる。

「ゆりちゃん……?」

「やっぱり日菜子だ! 私のこと覚えててくれたの?」

 5年前に別れた彼女だった。

 そう、彼女。かつてふたりは同棲していた。同居ではなく同棲。つまりは女性どうしで恋愛関係……いや、今のところはまだ法律上認められないとは言え正式にプロポーズされて同居してたので、いわば夫婦同然の関係だった。事実婚というやつだ。

 百合絵は売れない画家で、日がな1日、一円にもならない絵ばかり描いていた。家賃も二人ぶんの生活費も、揚げ句は百合絵の使う画材まで日菜子がアルバイトで工面していたのだが、いつしかそんな生活に日菜子の方が根をあげてしまい、顔を合わせれば喧嘩ばかりするようになってしまった。

 百合絵のことも彼女の絵も大好きだったからこそ、嫌いになりたくなくて。だから、そうなる前に日菜子の就職を期に円満に別れたのだ。

 そう……いつかどこかで会ったら、笑って「久しぶり」と言おうねと約束して。

「久しぶり」

 約束通りのことばを口にして、日菜子は微笑んだ。ちゃんと笑えてるかな、と頭の中で自問しながら。

「久し振り! 今どうしてんの?」

「どうって、相変わらずだよ。あの時ひろってもらった会社に今も勤めてる」

 日菜子は小さな出版社で編集の仕事をしていた。

「今もちょうど新しく担当する作家さんのとこに打ち合わせに来た帰りなんだ」

「そっか。この近所なんだね」

 懐かしいなあ、と百合絵は何度も繰り返し、別れた恋人というよりは旧友に会ったかの様に嬉しそうに笑った。

「あ、ごめん忙しいのに呼び止めて。元気そうで良かった」

「ううん」

 夕日に目を細めながら日菜子は首を振った。

「それにしても随分綺麗な色の髪になったねえ」

「ああこれ?」

 別れたあとで染めてみたんだ、と百合絵が屈託なく笑う。少しピンクががった金髪は夕日によく映えた。

「ひなはこういう派手なの好きじゃなかったでしょ」

「私に合わせて我慢してくれてたんだ」

「うーん……我慢ってわけじゃないかなあ、確かに私は派手好きだけど、あの頃の私はそうすることが幸せだったから」

 日菜子は古風な女だったが、一緒に暮らしていた頃それを強要したわけではない。それでもピアス穴を増やした時にあまり反応がよくなかったのを察してか、以来百合絵は地味なスタイルになった。もっとも売れない絵を描き続けるのにおしゃれなどしている場合ではなかったのもあるが。

「今日は直帰だから……良かったらお茶でも飲む?」

 愛想笑いを浮かべて日菜子がそう言うと、百合絵は慌てた様子でじゃあうちに来なよ、と誘った。

「あ、あの、散らかってるけど、お茶くらい出せるし」

「ほんと? じゃあちょっとだけ」

 百合絵の家は本当にそのすぐ近くで、アパートというよりは貸し倉庫の様な、コンクリート打ちっぱなしの小さな部屋だった。部屋というよりはアトリエといった風情だ。生活臭が全くしない。

「今製作に入っちゃってたから……ホントに散らかってるけど、ごめん」

「ううん」

 百合絵らしいといえば実に百合絵らしい。昔から絵のことになると、他の事が一切目に入らなかった。そういう所が好きだった。

 それにしても足の踏み場もないとはこのことかというほどの散らかり様に、さすがに苦笑する。どうやら片付けてくれる人間はまだいないらしい。

「生活とかどうしてるの」

「日菜子と結婚する前と一緒だよー。派遣の短期バイトの会社にいくつか登録してて、お金が無くなったらバイトして絵描いての繰り返し」

 元々ヒモのような生活をしたくて一緒になったわけではない。むしろ百合絵がわたしもちゃんと働くと言うのを、ともに生活していた間は日菜子が甘えさせていたのだ。だから別れるようなことになってしまったのは日菜子にも原因がある。百合絵は最後まで自分を責めていたけれど。

「絵は? 少しは売れるようになった?」

「いやあ、全然」

 そう言ってボリボリと頭を掻きながらも、百合絵は付き合い始めたあの頃の様に楽しそうだった。

 あの頃はお金は無かったが夢があった。とにかく貧乏で、ひとつのパンをふたりで分け合う様な生活だったが、若い二人はそれなりに幸せだった。

 懐かしい笑顔に、日菜子は少し泣きそうになった。百合絵と別れてからがむしゃらに働いて、人よりスタートの遅かった日菜子も不景気の最中それなりに社会的地位を得た。それはそれで幸せなはずなのに、自分は百合絵と別れて以来こんな風に笑ったことはない。

「元気そうで良かった」

 噛み締めるようにぽつりと呟く。

「コーヒーでいい?」

「あ、うん」

 いかにも作業中らしく繁雑とした部屋で、だが出されたコーヒーはちゃんとミルつきのメーカーで豆から抽出したものだ。どんなに煮詰まっていてもこういう部分にマメなところは昔と変わらない。

 絵画道具とパイプのベッドがなければ実に殺風景であろう部屋は、小さな窓がひとつあるだけだ。窓の外には、まだ消えぬ夕焼け。郊外の住宅街であるこのあたりは遠くに山並みが見える。そして窓際に立てられたイーゼルのスケッチブックには今しがた水彩で描かれたであろう青空。足下にはその小さな窓の四季が、地面いっぱいに散らばっていた。

「いいでしょ、ここ」

 足下のスケッチの一枚を拾いあげた日菜子に、百合絵が得意そうに言った。

「この窓、小さいけど。これ見てこのアトリエ決めたんだ。東京でこんな景色ってそうないでしょ」

「うん……」

 小さな窓は、風景を四角く切り取ってそれ自体が一枚の絵のようだ。

「ただ夏場は熱いんだけどね」

 肩を竦めて百合絵は笑った。コンクリートの打ちっぱなしだから暑いのは当たり前だ。

「生活感ないって思ってるでしょ」

「ん?」

「でも、ちゃんとココに住んでるんだよ」

 初めて会った時もこんな感じだったじゃんと言って日菜子も笑った。

 百合絵は地面から小さな紙切れを拾いあげ、それにボールペンで何か書き加えた。

 こくりと日菜子が喉を鳴らす。忙しさに疲れた体に染み入る様に温かいカフェオレが喉を通ってゆく。コーヒーでいい?と言ってもちゃんとミルクが入っている、好みを覚えてくれていることが何気に嬉しかった。

「これ」

 窓から見える夕焼け色のうろこ雲を描いた小さな水彩スケッチに、サインのように携帯の番号が書き込まれていた。

「よかったらまたおいでよ。今度はもうちょっと、片付いてるハズだから」

 それを手渡しながら、百合絵は慌てたように付け足した。

「あ、変な意味じゃないんだけど。今の彼氏とか彼女とかが気にしたりするんなら無理にとは言わないけど、もし気がむいたら」

「いないよ、彼氏も彼女も。今ひとり」

「え……、あ、そうなんだ」

 百合絵は曖昧に笑った。

「やっぱり好きだな、百合絵の絵」

 百合絵に手渡されたメモ書きのスケッチを見ながら日菜子が笑って言う。

「ありがと。でも好きな人ひとり養えないような絵、なんの価値もないよね」

 そんなことないよ、と日菜子が小さく呟く。

 百合絵の絵が、絵を描いている時の百合絵の横顔が日菜子は大好きだった。その価値を失わせたのは自分自身だ。百合絵は絵だけ描いててね。きっと売れるから、いつか売れるから。それまで私が支えるからと言ったのは日菜子だったのに、絵が売れない事に先に苛立ってしまったのも日菜子だった。

 そんな自分が何より嫌で、いつか百合絵に絵を辞めさせてしまいそうなのが嫌で、別れを切り出した。

 小さな窓の外は日が落ちて、ちらほらと星が見え始めている。空になったマグカップをコトリとテーブルに置いて日菜子が微笑んだ。

「ありがと、また来るね」

 ドアに手をかけた日菜子が、足下の大きな包みに気付いた。

「これ何?」

「あ、それは今度のコンクールに出すやつなんだ」

「へえ! 入賞するといいね」

「うん……実はね」

 百合絵は頭を掻いて苦笑いを浮かべた。

「それで最後にするつもりなんだ」

「……最後って?」

 日菜子の表情が強張る。

「その絵が全く認められなかったら、絵描きになるの諦めようと思って」

「そんな……」

 日菜子が泣きそうな顔でうなだれた。日菜子に百合絵の決断を非難する資格はない。だが無性に悲しかった。

 百合絵も、あれだけ迷惑をかけたのに最後までいつまでも夢を追いかける百合絵が好きだと言ってくれた日菜子には、申し訳なく感じている。だが、あの時日菜子が言ったことは正しかったと今になって実感していた。

 夢だけでは決してお腹をふくらませることはできないのだ。

「明日、水曜〆切だから。今からいっしょに出て駅前のクロネコに持ち込むね」

 丁寧に梱包されたキャンバスを担ぎあげた百合絵の言葉に日菜子は引っ掛かった。

「今なんて」

「え? クロネコ……」

「違う! 水曜って」

 何故か青ざめた様子の日菜子に百合絵は首を傾げた。何か大事な用でも思い出したのだろうか。

「そうだよ、15日水曜〆切り。必着だから宅急便で」

「ばか!!」

 頭ごなしに怒鳴りつけられて、さっぱりわけのわからない百合絵は唇を尖らせた。

「なんだよぉ」

 そういえば昔からよくこんな感じで怒られたな、などと呑気に考えていると、日菜子が見覚えのある皮カバーの手帳を百合絵の鼻先に突き付けた。このカバーは百合絵が誕生日になけなしの貯金をはたいて買ってあげたやつだ。まだ使ってくれているんだぁと呑気に考えていると、日菜子が目を吊り上げて怒鳴った。

「今日が水曜だよ! 15日!!」

 一瞬意味がわからずぽかんと口を開けていた百合絵は、焦って思わず壁のカレンダーを見た。しかし当たり前だが紙製のカレンダーには今日が何日かなどと書いていない。慌ててポケットのスマートフォンを取り出す。ディスプレイにははっきり「15日(水)」と表示されていた。

「ほんとだ」

「ほんとだじゃないよ!」

「どうしよ……」

 呆然と立ちすくむ百合絵にもう一度キャンバスを持たせ、日菜子はスマートフォンを取り出した。

「場所は!」

「えっ……」

「もう!」

 百合絵が抱えている荷物に貼り付けられた伝票を見ると、宛先欄には主催美術館の名前が書かれている。確か水曜は休みではなかったはずだ。

「タクシー呼ぶ!すぐに出られる?」

「う、うん」

「戸締まりしてきなさいよ!」

 アプリを弄りながらバタバタとビルの表に出て行く日菜子の後を、百合絵は慌てて追いかけた。5分ほどしてやってきたタクシーに乗り込み、行き先を告げる。日菜子がスマホを見た。

「今6時半だ。美術館が何時まであいてるかわかんないけど、7時ごろつけばまだ誰かいるんじゃないかな」

「私、電話してみる」

 ようやく落ち着いた百合絵が美術館に電話して、閉館が7時であること、8時には人が帰ることを確認した。なんとしても8時までに着き、直接持ち込む。一か八かだったが、他に方法がない。

 だが、間もなく美術館というところになって、突然ものすごい渋滞に巻き込まれてしまった。

「工事してるみたいですねえ」

 運転手が申し訳なさそうにつぶやく。

 車はぴくりとも動かない。美術館まではもう直線で道なりに10分ほど走れば着くのだが、今更どこかで引き返して反対側から行くには時間がない。

「とめて」

 突然日菜子が運転手に告げた。

「え?あ、はい、止めるんですか」

「私が走って行く。たぶんその方が早い」

 日菜子の提案に、百合絵がびっくりして腰を浮かせた。

「えっそんなの、私が行くよ」

「あんたより私の方が早いでしょ!!」

 日菜子は元陸上部なので、そこそこ足が速いし体力もある。

「そうだけど、でも」

「いいから、あんたはこのままタクシー乗って来なさい。私が届けてくる」

 そう言って日菜子はひらりとタクシーから降りると、大きな油絵をかかえたままで走り出した。

 腕時計を見る。あと15分で8時だ。なんとか間に合わせたい。まるで何かに突き動かされるように、日菜子は走った。若かった時のように、何も考えずがむしゃらに走った。

 彼女の夢を、ずっと守りたかった。そう決意してプロポーズを受けたはずだったのに、結局若い日菜子はそれに疲れてしまった。ねえでもゆりちゃん、ゆりちゃんの夢が私の夢でもあったこと、それだけはずっとほんとだったの。それは大人になった今でも。

「あっ!」

 窓から身を乗り出して見送っていた百合絵が叫んだ。日菜子が転んだのだ。

 慌てて日菜子は絵を調べた。大丈夫、どこも破れていない。ストッキングが破れて膝に血がにじんだが、そんな事はいっこうに気にならなかった。いっそ気持ちよくすらあった。

 渋滞の原因になっていた工事現場の横を通り過ぎるころ、ようやく美術館が見えた。ほとんどもう電気が消えていたが、事務所らしき一カ所だけまだ明かりがついている。

 良かった、間に合う!

 そう思った瞬間、その明かりがパッと消えた。

「あ…………!」

 遠くに黒い人影が見える。

「待って!! 待ってください!!」

 力の限り叫んだが、人影は道路を渡り地下鉄の駅に消えていった。

「…………!」

 美術館に着いて、どこか開いてないか、人がいないかと夢中で入り口を探した。

 ようやく追いついた百合絵が走ってくる。

「日菜子!!」

「ゆりちゃん……」

「大丈夫? さっき転……」

 その瞬間、日菜子が子供のように大声を上げて泣き出した。

「ひな!?」

 真っ暗な中かろうじて街灯がついているだけの美術館前の広場に、日菜子の鳴き声が響く。

「わたし……ど……しても、ゆりちゃに…………っ」

「いいの、もういいんだよ」

 泣きじゃくる日菜子を抱きしめて、百合絵は何度も髪を撫でた。

「だって……」

「だってそもそも日菜子に今日会わなかったら最初から間に合ってないものだしさ。何より日菜子がこんなに一生懸命になってくれたんだもの、だから本当にもういいんだ。ねえ泣かないで……あー、ほらやっぱり擦りむいてる……」

 絵が間に合ったかどうかより、日菜子が怪我していないかの方がずっと心配だった。夢も大切だけれど、その為に本当に大切なものを見失っては意味がない。夢と現実に折り合いをつけている人なんて、世の中山ほどいるのに。

「好きなの、今でも。一緒に暮らしてくれっていわないから、ひなが自分でどう言おうと絶対もうひなに無理はさせないから……もう一度やり直せないかな」

 日菜子が百合絵の胸を優しく押し返し、顔を上げた。

「ゆりちゃん」

「女々しいって思われるかもしれないけど、今でも好きだから……」

 日菜子が涙でべとべとの顔をくしゃっと崩して微笑んだ。

「実は、わたしも」

「うん」

「ほんとはね、ゆりちゃんのこと、友達としても大好きだった。だから別れる時、いつかこんな風に再開したらきっと友達にもどれるかなって思ったの。でもだめなんだよ、ゆりちゃんじゃなきゃだめなの」

「うん……」

 百合絵は、夢よりも大切なものをもう一度強く抱きしめた。




 数日後、若い頃よく二人で行きつけていたカフェで百合絵があのね、と切り出した。

「私、絵の仕事するかもしれない」

「え? 何があったの?」

「よくわかんないんだけど、なんか私の絵を拾ったとかいう人がいて、携帯に電話かかってきて……うちの会社で、絵ハガキとかイラストの仕事しないかって言われて。明日実際にお会いするんだけど、おかしい人でもなさそうだったから……少し夢の形は変わっちゃうけど画家よりずっと現実的だし、好きなことを仕事に出来るのは同じだから前向きに考えてる」

「絵を拾ったって……」

「最近の話らしくて。ラクガキでも描いた絵を発送以外の用で持ち出すことなんてそうそうないんだけどなあ……?」

 そういえば思い出した。百合絵にもらった夕焼けの絵、家に帰ったら鞄の中のどこを探してもなくて百合絵に聞こうと思っていたのだった。

 その事を話すと、百合絵もあっと声を上げた。

「あーもしかしてあの日タクシーの中に落としたんじゃない? あれ、私の携帯番号書いてた……!」

「あっ、そうかも!」

 百合絵の家に忘れたのではなく、あの騒ぎの中で思わずポケットか何かにしまい込んだ絵をタクシーの中に落としてしまっていたのだ。それをたまたま見る目のある人間が拾って、捨て置けずとりあえず書いてある番号に電話してみたとかそういう所だろう。

「ご縁ってあるのねえ。大事にしなよ」

「うん、ほんとそう思う。……だからね、やっぱり私には日菜子が必要なんだよ」

「いや急に何? そんな話してないよ」

「してるよ。あの日日菜子と再開したから、日菜子が私のためにがんばってくれようとしたからこの不思議なご縁がつながったんだもの。

きっと、私にとって絵より何より手放しちゃだめなものだったんだ」

 おおげさねえ、と笑う日菜子に、百合絵が急にまじめな声で言った。

「大事な話があるの。今晩もう一度会える?」

 少し考えて、日菜子はゆっくりと噛み締めるように答える。

「うん。このあと会社戻るから、退勤したら電話するね」


 大事な話が何かは、日菜子にはもうわかっていた。

 聞くのも答えるのも2度目だけれど、きっと今度はうまくいく気がする。

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夕焼けのアトリエ 桜川ちょち @chochikuro

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