37家庭教師の正体

 季節は進み、今は12月の終わり。冬休み目前のある日のことだった。


「もう、いい頃合いでしょう。」


 いつものように、家庭教師である明石はヒナタに勉強を教えに家に来ていた。2階のヒナタの部屋で勉強をしていた。


「何か言いましたか」


 明石がぼそっとつぶやいた言葉が聞き取れずに聞き返したヒナタは、明石の顔を見て驚いた。いつも下品で生理的に受け付けない嫌な表情をしていたが、今日の表情は「無」だった。あまりにものっぺらな表情だった。


「いいええ。ただ、その飲み物の効果がそろそろ出てくる頃合いだということですよ。」


 家には、タイミング悪く、母親やミツキはいなかった。ミツキは明石に双子だとばれないためにバイトに行っているので、いないのは当然だ。母親はちょうど買い物に行くと言って家に居なかった。


「どういう、こ、と……。」


 ヒナタの意識が薄れていく。飲み物にと母親が持ってきてくれたお茶だったが、お茶の中に何か薬を仕込んだのだろうか。急に眠気が襲ってきて、ヒナタは持っていたシャープペンを床に落とす。シャープペンが床に落ちるカランという音が部屋に響き渡る。


 ヒナタは急な眠気に負け、机に頭を打ち付けて、意識を失った。



「ぐうっ。」


 首の圧迫感でヒナタは意識を取り戻す。


「おや、やっと目を覚ましましたか。」


 ヒナタの首を絞めていたのは、明石だった。いったいなぜ、と頭に疑問が浮かんだヒナタに、明石が説明をするために、一度手をはなす。


「ごほっごほっ。」


 急に身体に空気が入り、苦しくてせき込んでいるヒナタに向かって、衝撃の事実が告げられる。


「いい気味だわ。私の苦しみはこんなものではなかった。あんたの母親のせいで、私たちの家族は……。」


 話しながら、明石は自分の髪の毛に手を触れる。男性としては普通である短髪が床に投げ捨てられた。それはかつらだった。短髪だと思っていた髪型のその下にあったのは、一つに結いあげられた長髪だった。明石が結い上げられた髪の毛をほどく。すると、腰までの長さの黒髪が背中に流れ落ちる。




「私たちの家庭はお前の母親のせいで『崩壊』した。」


 明石の驚きの行動は止まらない。今度は着ていた服を脱ぎだした。今日の服装は、白いカッターシャツに紺色のカーディガン。下は黒のスラックス。カーディガンを脱いで、続いてカッターシャツを脱ぎだしたころで、ヒナタは彼、彼女が女性だったことにようやく気付いた。カッターシャツの下にはさらしが巻かれていた。


「とはいえ、あんたたちもあのくそ女に相当苦労しているみたいねエ。私ほどではないにしろ、少しは同情するわ。」


 許すかどうかは別として。そう言いながら、カッターシャツを脱ぎ終わる。さらしが巻かれた身体がヒナタの前にさらされる。


「なっ。」


 明石の身体には多数の傷跡が上半身のいたるところに散らばっていた。中にはすでに血は止まり、古傷だと思われるものもあった。ヒナタは衝撃で言葉を失ってしまう。


「ふふ。驚いているわね。これは、あんたの母親のせいで、気が狂った私の母親にやられた傷。煙草にナイフにいろいろだわ。」


「それで、ぼ、く、たちに復讐ですか。」


 自分の母親はつくづく他人に迷惑をかけていると実感した。この家庭教師だけではない。彰人も被害者の一人だった。父親が死んだ今、自分の息子にも被害が及んでいる。


「その顔は母親の悪行を知っているみたいねエ。知っていても、許すつもりはないけど。」


 明石はヒナタが気を失っている間に準備したであろう、赤いポリタンクをそばに置いていた。ツーンとガソリンのにおいが漏れている。


「何をするつもりですか。」


「そうねえ。壊れてしまった私たちの家庭はもう、元に戻ることはない。私の人生は狂ってしまった。だから、今日で終わらせようと思って。」


「それは、いったい……。」




 赤いポリタンクにガソリンのにおい。明石がこれから何をするのかわかった瞬間、ヒナタは明石が持っている赤いポリタンクめがけて走った。しかし、間に合わなかった。


「これはあいつに対する復讐だ。一緒に逝こう。双子の弟さんには申し訳ないけどね。」


 ポリタンクの中身を自分に浴びせて、明石は笑いながら、スラックスのポケットからライターを取り出した。


「終わりだ。」


 火をつけると同時に明石の身体が燃え始める。そして、部屋全体に火の気が広がる。ヒナタは反射的に、ベランダに飛び出した。なりふり構ってはいられなかった。そのまま、ベランダの柵を乗り越えて、一階へと飛び降りた。


 幸い、落ちた先は土になっていたので、足に衝撃はきたが、動けないほどではなかった。ヒナタの後ろでは、ごうごうと赤い炎が家を覆いつくすように燃えていた。




 ヒナタは振り向くことができなかった。しかし、このままでは自分も同じように火の海にのまれてしまう。這いつくばるようにして、家の敷地から出ると、やっと後ろを振り返る。


「……。」


 言葉が出なかった。いくら自分の家が嫌だと言っても、家が燃えるのを見たら悲しくなる。火の勢いで、近所の人が通報してくれたのだろう。サイレンとともに消防車と救急車が遠くから聞こえてきた。


 ヒナタの意識はそこで途絶えた。家庭教師の正体とその後の行動が衝撃的過ぎて、脳みそがパンクしてしまった。


 ヒナタは意識を失い、家の敷地の外で倒れているのを見つけたものがいた。彼女はヒナタを一瞥すると、家が燃えているにも関わらず、そこに向かっていく。家の前にはまだ、消防車や救急車が来ていなかった。


「私の最期はここで終わるということか。まあ、これで私もやっと『匠さん』に会えるということ。悪くはないわ。ヒナタとミツキにさよならを言えないことだけが心残りだけど。」


 彼女は燃え盛る家の中に入っていった。彼女が入って数分後、家は彼女がその家での目的を果たしたタイミングを見計らったかのように、屋根が崩れ、家屋が倒壊したのだった。

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