虫の知らせ
インターネットの通販で購入した商品が、なかなか配達されないことが続いた。
ふつう、注文から二、三日で届くはずなのに、発送の遅延だとか、在庫が実はなかっただとか、これは私の過失だが、発注したつもりが購入手続が完了していなかったとか、事情はさまざまだった。
といって、品物としては、書籍とか、洋服とか、飲料水とかで、困るようなものではない。
いやだなと思うのは、今週の日曜に、登山の計画を立てていることだ。
こうも「来るべきものが来ない」事象が重なると、やはりなんとなく気持ちのいいものではない。
「やめといたら?」
妻がそう言ったのは、木曜日だった。
「いくらなんでも縁起が悪いわ」
「大丈夫だよ。そんなに難所はない山だから」
「難所がなくたって、高いところから落ちたら怪我するでしょう」
「そりゃそうだが」
「やめといたら? いくらなんだって縁起が悪いわ」
妻が繰り返すのには、わけがある。
きょう届く予定だったセントポーリヤの鉢植えが、配送の途中に横倒しになり、鉢は割れ、土はこぼれ、花も半ば枯れた状態で届いたのである。運送会社に連絡をとり、補償はしてもらえることになったが、そんなことは重要ではない。生きものがほうほうのていで家に届いたということが、このところの配送不振に気を揉んでいた妻にとって、決定打になったらしかった。
「やめたほうがいいわよ、ほんと」
「大丈夫だよ。もう何回も登った山だから」
「そんなこと関係ないわ」
「関係あるさ」
「とにかくやめてちょうだい。きっとこのセントポーリヤだって、虫が知らせてるのよ」
「虫が知らせてる? まさか」
私としては、夏山の高山植物を見るのが目的であり、したがってピークを目指すつもりはさらさらなかった。岩肌の露出したピークに至る急登が、花がないくせにいちばん危険なのだから、手前の花畑だけ見て引き返せばいいと思っていた。
「とにかく、あたしは反対します」
「はあ」
「はあじゃないわよ。あなたはもう家庭をもったんですからね。あたしと宇一郎の命を預かってるのよ。そこのところ、よく考えてもらわないと」
「…………」
そう言って、わざとらしく、ベビー・ベッドに寝かされた赤ん坊の寝顔をなでるのだった。
なんとなく宙ぶらりんの数日を過ごしていると、あっという間に土曜日になった。
日曜の支度は、とうに済んでいる。食糧や飲料の準備も万全だ。
ただ、登山に踏み切るかどうかという大事な一点だけを、まだ決めかねていた。
「あなた」
自室でこっそり登山ルートを練っていた私のもとに、妻がやって来た。
「明日ほんとにどうするの」
慌てて地図をリュックサックにしまいこみ、
「どうするかねえ」
「どうするかねえって、登る気満々じゃないの、地図なんか広げて」
「あれ、宇一郎寝たのか」
「宇一郎寝たのかじゃないわよ」
妻は私の隣に座りこんで、
「赤ん坊のお守りもしないで、山、山、山ばっかり。ねえ、ほんとにどうするつもりなの。セントポーリヤも枯れちゃったし、あたし、ほんとに怖いのよ」
木曜日に瀕死で家にやって来たセントポーリヤは、しばらく日陰で養生していたが、結局枯死してしまった。
「ねえ、やめてちょうだい」
「そうだなあ」
「そうだなあって、考えるまでもないでしょう。やめなさいよ」
「うん。まあ、どうするかなあ」
――そのときだった。
玄関のポストが、カタン、と鳴った。
時計を見ると、正午少し前だ。
ちょうど、町内に郵便配達がくるころなのだ。
妻は、ハーア、とため息をひとつ吐くと、話はまだ終わっていないといいたげに私を睨みつけてから、階下へ降りていった。
ところが。
じきに、妻の短い悲鳴が聞こえた。
「む」
私は慌てて立ち上がり、玄関へ降りていった。
「どうした」
「あなた、これが」
妻が手にしていたのは、衣類だった。
「ポストにあったのよ」
それは、赤いナイロン製のもので……
山歩きに使うような、ウインドブレーカーだった。
ウインドブレーカーは、乾いた泥土に汚れ、さらに細かな擦り傷がついていた。まるで、滑落したか、ぬかるみで転倒したような汚れようなのだ。
「ねえ、このウインドブレーカー、あなたのものと同じよ」
妻はそう言って、たたんであったウインドブレーカーを広げる。
息をのんだ。
そうだ。
このウインドブレーカーは、私が明日着るつもりのウインドブレーカーと、まるで同じ意匠なのだ。そんなものが、どうしてポストの中に? しかも薄汚れて……。
「たしかに、ぼくのと同じだ」
「そうでしょう。きれいにたたんで入れてあったわ。誰がこんなことしたのかしら」
私は、急いで二階へ上がった。
もちろんリュックサックの中を改めるためだ。
――だが。
なかった。
明日着るつもりで、リュックサックの一番上に入れておいた赤いウインドブレーカーが、ぽっかり消え失せているのだ。
「やっぱりないのね」
妻が、汚れたウインドブレーカーを手に提げて、部屋の前に立っていた。
「きっと、このウインドブレーカー、あなたのものなのよ。いいえ、絶対にそうだわ。虫が知らせているんだわ」
あまりの出来ごとに、妻の顔は紅潮し、今にも泣きだしそうである。
「そんなばかなことが」
「やめるわね?」
妻は有無を言わせず、私を覗きこみながら訊いた。
「やめるわね?」
「……ああ」
そう頷いたとき、階下から、宇一郎の甲高い笑い声が聴こえてきた。
了
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