不得手


 デイヴィッド・フレッチャーがどん詰まりのショートフライを打ち上げて凡退し、さていよいよ翔平大谷の第三打席というところで、玄関のチャイムが鳴った。居留守を使おうと思ったが、テロテロテロン、テロロロロンという聴き飽きたメロディがみたび続いた。ぼくは舌打ちして、居間を出て玄関へ向かった。

「はいはいはいなんです」

「今度の寄り合いの日取りですけど」

 同じ町内の、三村さんだった。町内会の役付きの人で、ぼくもある係を担当しているのだが、その係で集まって、打ち合わせをしたいそうなのだ。

「それで、いつが良いかお聞きしたいと思いまして」

「いつでもいいですよ」

 ぼくは自宅労働者だから、本当にいつでもいいのだ。

「いつでも結構なので、決まったら連絡をください」

 いまごろ、翔平大谷の名前がアナウンスされている。観客が大盛り上がりを見せている。「さあ初球に注目です」とアナウンサーが実況している。

「本当にいつでも結構ですから」

 そう言って、わざとそわそわすると、

「それなら、土曜日はいかがです」

「いつの土曜日ですか」

「いつだったかな。二三か。二四か。あれ、二五だったかな」

「つまり来週の土曜日ですか」

「そうですそうです。でも、来週の土曜日って何日だったかな」

「すぐにはわかりませんが、来週の土曜日ですね」

 だが、土曜日は妻も休日なので、予定が入っている場合もある。

「ちょっとお待ちください」

 ぼくは、急いで居間へ手帳を取りに戻った。

「翔平、大谷」

 アナウンサーの声が聴こえた。見ると、翔平大谷が、ちょうどバッターボックスに入るところだった。

「あったあった」

 手帳はすぐに出てこなかったが探り当て、玄関へ戻るころには、一球目のストライクが入ったところだった。

「やあやあ、すいません。来週の土曜日は二六日ですね。予定はなにもありませんので、七月二六日土曜日に打ち合わせですね、公会堂で」

「それで時間なんですけど」

「時間は、他の方に合わせていただいて構いません」

「では午前でも午後でもよろしいですか」

「結構です」

「そうすると、夜だと何時くらいまでよろしいんですか」

「何時でも結構ですよ」

「なら、場合によっては夕食どきになるかもしれませんけど」

「それで結構です」

「遅くてもいいですか」

「構いません」

「朝早くという場合もありますが」

「それで大丈夫です」

「お昼どきという可能性も」

「なんでも結構です」

「わかりました。まあ、他の方にも聞いてみないと、何時からってのはまだわかりませんけどね。いまそんな話をしてみても仕様がない」

 わめきそうになるのをぐっと堪え、

「ええ。では、決まりましたら、また連絡をください」

 それから慌てて、

「お電話で結構ですから。ご足労いただくには及びませんよ」

「しかし、ぼくは電話が不得手なんです」

「え」

「電話が不得手なんですよ。電話では、伝えたいことも伝えられないんです」

 意味不明である。

 そこのところ、むしろもう少し聞いてみたいと思ったが、翔平大谷の第三打席のほうが優先だ。三村さんは、最近の天候はどうだのワクチンの副反応が怖いだの今年はプランター菜園のトマトがなかなか赤くならないだのといったきわめて発展性のない話を二、三したあと、ようやく家を出ていった。

「待ってくれ待ってくれ待ってくれ」

 居間にかけこんだ。

 エンゼルス翔平大谷は、もうベンチに座っていた。バスタオル用ハンガーのごとき幅広の肩をいからせて、ドリンクを飲んでいるところだった。

 ほらみろ。もう打席が終わってしまったじゃないか。

「いやほんと、この人はどこまでいくんですかね。末恐ろしいというかなんというか」

 亡くなったはずの大島康徳が感嘆していた。

「もう解説者というより、いち野球ファンとして、今後も愉しみで仕方ないですね」

「ええ、そうですね。今日も放った大谷。手元の情報では、第三六号は、推定飛距離一五〇メートルとのことです。いやあ、ほんとに目の覚めるような当たりでした」

 ホームランを打ったのだ。

 あいつめ。

 貴重なホームランの瞬間を見逃してしまったではないか。

「ああ、真央?」

 表から、三村さんの声が聴こえた。

「いま、用事が済んだから。うん、うん。今から帰るからな」

 呆れた。

 ついさっき電話が不得手と言っておきながら、携帯電話で通話をしているではないか。

「うん、メンチカツはある。あとハムカツが冷蔵庫にまだあったかな。ネギ? ネギはどうだったかな」

 三村さんは、ぼくと一つ違いの娘と二人暮らしである。電話の相手は、娘さんではないか?

「ネギねえ。ネギはあったかな。わからない。そしたら、買わないほうがいい。なかったら、お父さんとまた買いに出ればいいから。え、ガソリン代。それもそうだな。それなら、ネギ買っておくか。え、無駄な出費。それもそうだな。じゃ、なければお父さんとまた買いに出るか。え、ガソリン代。ああ、それもそうだな。なら、やっぱし買っておいたほうがいいんじゃないかな」

 そんな会話を、人の家の庭先で、延々と続けているのである。

 翔平大谷の出番もしばらく回ってこないから、ぼくはチャンネルを変えた。

 すると、坂上忍のばかでかい顔が、画面いっぱいに現れた。

「これって、要はオリンピック委員会はやりますと。でも小池さんはやりたくないですよと。でもそれは言えませんよって話でしょ。それこそ、これバッハさんパワハラじゃないのって思うんだけど」

 坂上忍なんかこの際なにも悪くないが、ぼくはテレビを消し、リモコンをソファにたたきつけた。



 デイヴィッド・フレッチャーは、例によって、どん詰まりのサードゴロを打った。サードのドミンゴ・レイバが難なくボールを拾うと思いきや素人のようなお手玉をし、慌てて一塁へめちゃ投げした結果暴投となった。フレッチャーは一塁を回って二塁へ向かう。一塁手ライアン・マウントキャッスルのカバーに入った右翼手オースティン・ヘイズは、フレッチャーの刺殺を試みて二塁手パット・バレイカに速いボールを放ったが、これも明後日の方向へ飛んでいくというコメディが展開された。右翼手ライアン・マッケンナがなんとかこれをカバーして二塁へ送球したが、フレッチャーは既に塁上でガッツポーズをしていた。

 九回表、ツーアウト二塁の場面で、二番DH翔平大谷の出番である。

 スコアは一対二で、エンゼルスが負けている。ここで一発出れば逆転である。ヒットが出れば、同点に追いつく可能性もある。アウトになれば試合終了だ。

「さあさあさあ、きましたよ」

 ぼくは念のため、玄関へ向かい、ドアに鍵を掛けてきた。闖入者が現れても、応対するつもりはなかった。

「千両役者というかなあ。この場面で回ってくるというのが、いかにも大谷君らしいですな」

 これもなぜか、物故者の仰木彬だ。翔平大谷が一〇歳になる年に鬼籍に入ったはずである。

「これは大谷も気合入っとるでしょう」

 わっ。星野仙一。今日はNHKの解説席に物故者が集結しているらしい。それだけ翔平大谷の存在が野球人にとって大きいということか。「さあ注目の第四打席です」と言ったこのアナウンサーも、もしかしたら既に他界したアナウンサーなのかもしれない。

「一球目見ました、ストライク」

 かなり際どいボールだった。これは振れないだろう。

 外野は、かなりの前進守備だ。これを破られたら同点やむなしと割り切っているようだ。

「二球目はファウル」

 チェンジアップでタイミングを外されたところを、なんとか泳いでファールにした。これは技術がないとインフィールドに転がしてゲームセットにしてしまう。危ないところだった。

「次は一球外してきますかね」

「夏井さん」

「ええ、これワトキンズも投げづらいと思います。インコースに投げても、うまくたたむ技術が今の大谷君にはありますから。かと言ってアウトコースと言ってもね、パワーでホームランにできちゃうので、大谷君の場合」

「夏井さん」

「二塁ランナーのフレッチャーもリードを取ってはいますが、ワトキンズはひとつも牽制しません」

「投げませんねえ。打者集中ですね。この場面はね」

「夏井さん」

「大谷との勝負がこの試合最大の山場と、いう場面に、まさになっています。さあ、サインが決まって。第三球、投げた」

「夏井さんってば」

「やかましいわい!」

 しかし振り返った先に三村さんがいたのである。

「み、三村さん」

「玄関のチャイムを鳴らしたんだけど、聴こえなかったみたいでさ。勝手口からお邪魔しちゃいました」

 裏口には鍵など掛けていなかった。そんなところから闖入するなど、常識では考えられないからである。

「さっき、桐原さんと六川さんの家に行って来まして。二人とも、土曜日の朝九時からがいいというので、それでお願いできますか」

 聞けば、さっきぼくの家を出たあと、わざわざ桐原邸と六川邸へ出向き、都合を訊いてきたという。おまけに、六川邸に至っては、用事で隣町に出かけたと六川夫人から聞くやいなや隣町まで歩いて行き、そこで六川さんに土曜日の都合を訊いたという。

「大谷、ここも見ました。ツーエンドツー」

「ええ、わかりました。では土曜日の朝九時に公会堂に集合ということですね」

 この情報だけあれば足りるのに、わざわざノートと筆記用具を持って来いだの、都合が悪くなったら電話してくれだの、気をつけて来てくれだの、改めて言わんでもいいようなことを三村さんは滔々と話すのである。

「さあ、見ましたフルカウント」

「あ、大谷君だ。あれ、大谷君っていまバッターやってるの。ピッチャーじゃなかったっけ。バッターに転向したんだね」

 三村さんはテレビに目を向け、

「うちもさあ、この前テレビが壊れちゃってね。何も映らなくなったんだよ。それで闇田電器に行ったら、どこも悪くないって言うんだ。アンテナの問題じゃないかって言うからアンテナを見てもらったら、やっぱりアンテナの問題だったんだ。あのときテレビを買い替えなくて正解だったよ。買い替えていたら大損だったよ。アンテナを変えたらすぐに映ったからさ。でもアンテナが悪いかどうかなんて、素人にはわからないからねえ。やっぱりプロは違うねえ。闇田電器の従業員も、ぼくをだまそうと思って、テレビを買い替えさせるなんて朝飯前だったはずなのに、ちゃんとアンテナが悪いって教えてくれたんだからありがたいねえ」

「三村さん」

 ぼくは、これくらいは言ってもいいだろうと思い、

「同じ町内ですが、さすがに裏口から入ってくるのは遠慮してくださいますか」

「え、裏口ってどこ」

「さっき三村さんが入ってこられたところです」

「ああ、勝手口のこと」

 わめきたいのを堪えて、

「わたしもびっくりしますから。勝手口から急に人が入ってきたなんていうと」

「急にじゃなくて一応声は掛けたんだけどねえ」

「しかし応答がなければ入っちゃいかんでしょう」

「だけどテレビの音がしているから夏井さんが部屋にいると思ったんだよ」

「しかし三村さん、わたしだからいいが、これは刑法に抵触するんですよ」

「物騒な。同じ町内の人じゃない」

「物騒なのはあなたですよ」

「だけど同じ町内の人なんだし」

「しかし、刑法上、同じ町内であればその限りではないなんて断りはないんですから」

「だけど顔見知りじゃない」

「それなら、わたしが顔見知りの、例えば未亡人の大沢さんのお宅に勝手口から入ったらどうなります。警察を呼ばれますよ」

「え、夏井さん大沢さんと不倫してるの」

「違いますよ。そういう話じゃありませんよ」

「大沢さんきれいだよねえ。ぼくもやもめだから、気にはなってるんだ。だけど、ぼくにはコブがあるだろう、三〇のコブが。コブといっても、ばかでかいコブだよ。コブ山さ。大沢さん、そういうの気にすると思う?」

「見逃し三振!」

 アナウンサーが絶叫した。

 ワトキンスがガッツポーズをして、捕手のオースティン・ウィンズと抱き合った。

「天を仰いだ大谷。際どいボールに手が出ませんでした!」

「もう帰ってください!」

 ぼくは三村さんの背中を押して、無理やりに裏口へ連れていった。

「とにかく打ち合わせの件はわかりましたから」

「土曜日の朝九時に公会堂ですよ」

「土曜日の朝九時に公会堂ですよね。わかってますから」

 それから、今後二度とこのような過ちが起こらないようにとの祈念をこめ、

「三村さん、今度から連絡は電話で結構ですから。本当に、わざわざ来ていただくには及びませんから。三村さんも大変でしょう」

「でもぼくは電話が不得手でね。あがり症なんだ」

 あがり症の人間が、他人の家に裏口から闖入するものか。

「ええ、でも電話で用件だけお伝えいただければそれで済みますから」

「でも電話が不得手でね」

「大丈夫ですよ。やってみてごらんなさい」

 と倍ほど年長の人間をぼくは励まし、

「とにかく、電話でなにかご連絡くださいね。うちには留守電の機能もありますから。不在でしたらそこに吹き込んでいただければいいんですから」

「できるかなあ。だって、ぼくは電話が不得手なんだからなあ」



 その土曜日がやってきた。朝の九時から、公会堂で、三村さんにぼくに、桐原さん、六川さんが集まっての打ち合わせである。

 起床し、キッチンでコーヒーを飲みながら「旅キャベツ」という番組を観ていた。翔平大谷の試合は、今日は昼前に開始である。おそらく、ちょうど打ち合わせが終わって、帰宅したころに試合が始まる感じだろう。

 と、居間にいた妻がぱたぱたとこちらにやって来て、

「あんた電話や、電話」

「え、誰から」

「三村いう子やわ。あんた知ってる?」

「三村? 三村って、町内会の三村さんじゃないのか」

「子どもや子ども。まだ小さい子や。あんな子、あんた知ってるんか」

「子ども?」

 ぼくは首をかしげた。

「とにかく、待たせてるんだな」

 ぼくは立ち上がり、居間に向かった。

 受話器をとって、

「お待たせしました。夏井です」

「ああ、夏井さん。ぼく、三村」

 三村と言うが、小学校低学年くらいの、たどたどしい子どもの声なのである。三村さんの家に、こんな小さな子はいなかったはずだが。

「あのね、ぼく、ぽんぽん痛くなっちゃって、行けなくなっちゃったの」

「え」

「わかる? ぼく、三村」

「え、三村さんですか? 三村さんなの?」

 そんなはずはないと思ったが、

「そうなの。あのね、ぼく、電話が不得手なの。これでわかったでしょう。電話だと、こんなふうに、子どもみたいな声になっちゃうの。うわああん」

 と泣き声をあげた。

「そ、そんなばかな」

 二の句が継げないでいると、三村さんは、舌足らずの幼い声で、

「あんねえ、今日の打ち合わせねえ、中止にさしてもらいたいの。ごめんねえ。だって、ぽんぽんすっごく痛いんだから。それで、打ち合わせはまた別日にしようと思うんだ。その予定をまた聞きに行くから、今日は一日中家にいてね。どこにも行っちゃやだよ。ぼくはこれから、全員に中止の電話をするつもりなんだ。電話が不得手なのに、ぼくえらいでしょ。うふふ!」







 了



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