星空とBGファミリア '91
仕事帰り、浩史は、市民プールでひと泳ぎした。
このところ、ぽっこりと腹が出てきて……食事の量も運動の量も、若い頃から変わっていないが、五〇がらみとなれば、それではだめらしい。
基礎代謝が落ちているから、食事の量を減らすか運動量を増やすかしないと、体重は増える一方なのである。
それでも、水泳でほぐれた体は軽やかだった。
あとは帰宅して、簡単な夕食をとって寝るだけなのだ。
浩史は、市民体育館の駐車場に来た。
そこで、ふと足を止めた。
――おや?
浩史の目は、次第に輝いてきた。
「へえ、懐かしい」
浩史の目の前にあるのは、BGファミリアと呼ばれる、七代目マツダ・ファミリアだった。もう三〇年も昔の型式で……なかなか見かけない車なのである。
浩史は、しばらくそのファミリアに見惚れていた。
というのも、浩史が運転免許を取り、貯めた金で最初に買ったのが中古のBGファミリアだったのだ。
浩史はいま、ファミリアを側面から眺めているのだが……角張ったセダンの、低く構えたフォルムはひどく懐かしかった。浩史のファミリアもセダンだったのだ。
「どこの人?」
浩史は、ファミリアのリアに回った。ナンバープレートを見ようとしたのだ。
「……」
浩史は、目を丸くした。
そのファミリアのナンバーは、若いころ浩史が乗っていたファミリアのナンバーと同じだったのだ。
浩史がそのナンバーを覚えていたのは、たまたま、その四桁の数字が、浩史の誕生日と一日違いだったためだ。
「おいおいおい」
のみならず、陸運支局も同じだった。
平仮名の分類番号は、さすがに記憶はない。このファミリアは「ほ」だが、浩史のファミリアはどうだったろう。「ほ」だったような気もするし、「は」だったような気もしはじめた。
キュルルル。
ブワー。
ファミリアのエンジンが掛かった。
浩史は、慌ててファミリアから離れた。
人が乗っていたのか。
じろじろ眺めたりなんかして、ばつが悪い。
浩史は、ファミリアから離れたものの、どんなドライバーが乗っているのかだけ、遠巻きに確かめようとした。
だが、不可解なことに気がついた。
――誰も乗っていないのだ。
前も後ろも、無人なのである。
「どういうことだ?」
古い車だから、キーを鍵穴に差し込んでエンジンを掛けるはずである。今どきの車のように、遠隔でエンジンスタートができるなんてことはない。当然、浩史のファミリアも、鍵穴にキーを差し込んで、それを右に回してエンジンを掛けた。その感触が、かすかに浩史の手に残っていた。
と。
パカッと音がした。
運転席のドアが開いたのだ。
しかし、中には誰もいないのである。
浩史は、はじめは躊躇したが、またじりじりと、ファミリアに近づいていった。
車内はがらんとしている。ティッシュボックスとか、CDのケースが載っているなどということもない。余計なものは、何一つとしてなかった。
浩史には、さらにわけのわからないことがあった。
運転席の鍵穴には、キーなど差し込まれていないのだ。
「どうなってんだ、ほんと」
そう呟いて、浩史はアッと声を立てた。
ファミリアのダッシュボードの……
運転席と助手席の、ちょうど間くらいの場所に、小さな、四角形の、シールの剥がしあとがあったのだ。
「これは……」
剥がしあとは、横に三つ並んでいた。
「……どうして?」
浩史は、自身のファミリアの同じ場所に、プリクラを三つ、横並びで貼っていた。昔の、「プリント倶楽部」とかいうスピード写真機で撮ったものである。
一枚には、そのころに実家で飼っていた猫が写っていたはずだ。そして、もう二枚は、現在の妻と自分とのツーショットだったはずだ。
陽に焼けて、次第にプリクラの色は褪せていった。
ファミリアを下取りに出すころには、すっかり、ただの真っ白なシールになっていた。たしか、下取りの日に、浩史がそれをべリッと剥がしたのだ。こんなのがあると査定額が下がると言ったかもしれない。そして妻は、かえって剥がしあとのせいで額が下がると怒ったかもしれない。浩史には、もう詳らかな記憶は残っていなかった。だが、このシールの剥がしあとが、この車が昔の愛車であることを浩史に確信させた。
「よく走ったなァ」
いつしか、浩史は運転席に座っていた。
ボボボボボというアイドリング音が、市民体育館の駐車場で小さく鳴っている。
「こんなに走ったのかよ、なァ」
走行距離のメーターは、はじめ二〇万キロだったのに、それからメーターがクルクルと回りはじめて……どんどん距離が伸びていった。
「二五万キロ……、三〇万キロ……。ハハ、三八万キロ!」
浩史は、長い間会わなかった友人から、長い一人語りを聞く思いだった。
「一〇〇万キロ……、二〇〇万キロ……」
フロントガラスから、夜空が見えた。
夏の、よく晴れた夜だった。
「お前を下取りに出して、ミニバンを買ったんだよ。ただでかいだけが取り柄のミニバンだよ。あの頃は仕方がなかったんだ。子どもができたし……」
メーターは回りつづけた。
三〇〇万キロ、四〇〇万キロ、五〇〇万キロと、ぐんぐん距離は伸びていった。
「八〇〇万キロ! ハハ、よく走るなァ」
それでもメーターは回りつづける。一〇〇〇万キロを超えてもなお、止まることを知らぬようだった。
「おうおう、どんどん走れ!」
藍色の海に散りばめられた星々は、ちらちらと輝きながら、ファミリアと浩史を見下ろしていた。
了
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