旅に出たい
帰宅すると、妻が旅行案内を読んでいた。
またか。
ぼくはうんざりした。
妻は、モルディブに行きたいというのだ。
インド洋に浮かぶ、小さな島々。
ヤシの並木。宝石のようにきらめく海。
真っ白な砂浜に、潮風がここちよく吹きぬける。
世界中のお金持ちがバカンスに訪れる、あこがれのリゾートなのよ。あたしたち、結婚して一〇年になるでしょう。子どももいないんだから、一週間くらい休みをとって、出掛けましょうよ。
行きたいわァ。
行きたいわァ。
はじめはしきりに訴えていたが、ここ数日は、なにも言わなくなった。
言わない代わりに、これみよがしな態度をとっているのだ。
「あら」
旅行案内から目を離さずに、
「帰ったの」
「帰ったさ」
ぼくは、冷蔵庫から、冷えた焼き鮭を取り出した。
「またモルディブか」
「またモルディブよ」
ぼくは、鮭の皿を電子レンジに放りこんだ。
「寝てもさめてもモルディブよ」
「いい加減にしたらどうだい。一週間なんて、休めるわけないじゃないか。ぼくだって、この春から係長になったのだし……うちは、少ない人員で、なんとか切り盛りしている部署なんだぞ」
「そんなの知らないわよ」
「なに」
「おかしな会社ね。一週間ぐらいなによ。たった一週間じゃないの。そのくらいなんなの? あなたもあなたよ。休みます、あとは頼みます。段取りはきちんとつけておきますから。これでいいじゃないの!」
「そんなに簡単にいくものか」
フリーのイラストレーターの妻には、どうしてもわかってもらえない。
「そもそも、会社というものは――」
「ねえ」
妻が顔を上げた。
「チン、鳴ったわよ」
こんなことでは、夫婦仲も険悪になるばかりだ。
今日はひとつ、妻にケーキでも買って帰るか。
ぼくは、退勤の途中、商店街に寄り道した。
そのときだった。
一軒の雑貨屋の前で、ぼくの足はとまった。アンティークや輸入もののインテリアの店なのだ。
道から、中がちょっと見える。
あれは――
ぼくは、遠くに、Maldives という字をみとめた。
モルディブのことだ。
それは、車のナンバープレートくらいの、小さなプレートだった。
大きくMaldivesと書かれ、となりに、おそらくモルディブ国のものだろう、赤と緑の国旗がデザインされているのである。
中に入って、検分してみた。
ああ。
こういうの、あるよな。
たまに、しゃれたカフェなんかにある、インテリアのプレートらしい。壁に掛けて、異国情緒を出すのだ。
値段を見る。
ふうん。
ラーメン一杯くらいの値段だ。
思ったより、だいぶ安いのだ。
ぼくは、プレートを買って帰ることにした。
こんなものを買って帰って、かえって妻を刺激しないかな。
帰路、そうも考えたが、ケーキと一緒に渡せば、いいプレゼントとして受け取ってくれるのではないか。
いまはこんなプレートだが、いつか、ちゃんと段取りをつけて、きっと現地へ旅行しようなどと言えば、完璧ではないか? ぼくの株も上がるというものだ。
よし、それでいこう。
「まあ!」
期待どおり、妻は喜んだ。
「なによこれ! すごいわァ」
大喜びなのだ。
「うれしいわァ、うれしいわァ」
しきりにそう言い、ケーキもうまそうに食べたのである。
こんなプレート、別に持っていたってどうなるものでもないが、一時的にモルディブ熱にうかされている妻にとっては、いいプレゼントだったらしい。
「これ、きっとモルディブ土産なのよ」
「そうかなあ」
「きっとそうよ」
妻は、プレートを手に持って、部屋中をうろうろしだした。
「どこに飾ろうかしら」
妻は、こちらに振り向き、
「ねえ、どこに飾ろうかしら? あなたどう思う?」
有頂天なのであった。
翌朝。
その日は、土曜だった。
いつもより少し遅い時間に、ぼくは目がさめた。
となりに、妻はいなかった。
もう起きたのだろうか?
しかし、狭いアパートだから、すぐにわかった。
妻がいない。
トイレにも、風呂にもいないのだ。
玄関を見る。
妻の靴がない。
どこかに出掛けたのか?
しかし、なにも言わずに出ていくなんて――
そのとき。
ザア、ザアという、波の音が聴こえた。
アパートのどこかから聴こえてくる。
どこだ?
ぼくは、耳をそばだてた。
トイレだ。
トイレの中から聴こえてくるのだ。
トイレの戸は、開いていて……その中は、当たり前だが、トイレそのものである。
おや。
ハタと気がついた。
トイレの、ドアの上。
壁の部分に、あの、Maldivesのプレートが鋲どめされている。あたかも、トイレのドアを開けば、そこはモルディブだとでもいうように。
妻がやったのか?
そうだろう。
妻しかいない。
ぼくは目を疑った。
一瞬だけ、ドアの向こうに、遠い南洋の、オーシャンブルーが見えた気がしたのだ。透明な水に、サンゴ礁が透きとおっていて……
やがて、波音はやんだ。
そこは、ただのトイレであった。
いまもって妻は帰らない。
いまごろどこにいるのだろう?
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