後日談2 トロワ・メートル

1.『フレンチ十和田』は満席です

 青い鏡のようにきらめく大沼の湖面に、今年も宝飾品をちりばめたように、色とりどりの睡蓮が咲き誇っている。

 ゆらゆらと水面に揺れる可憐な花を楽しむ観光客で、今日も大沼国定公園は賑わっている。


 やがて、夏の遅い夕暮れが始まり、睡蓮たちもひっそりと眠るように花を閉じる。

 それでも、優しい黄金に染まる湖面に揺れている姿は、モネの絵画のような優雅さだった。


 今夜も『フレンチ十和田』は予約でいっぱいだった。

 夏の観光シーズンとあって、ツアー会社の函館旅行プランのひとつとして来店する観光客、函館近郊で記念日を迎える地元のゲストに、あとは動画配信を見て予約をしたというゲストも一ヶ月に何回か入るようになっていた。



 まだ茜が差し始めたばかりの遅い夕暮れ。『フレンチ十和田』のディナータイム開始、夜の営業で開店となる。

 ゲストを迎えるために、この日は蒼と葉子が玄関でお出迎えの準備をしていた。


「そろそろだな。今日は千葉から来られる岩崎様が、『視聴者』経由のご予約なので、そのつもりで」

「はい。給仕長」


 もう葉子の夫となった男の顔ではなくなっていた。

 楽しくて優しくて賑やかな『蒼くん』ではない。きりっと凜々しい『篠田給仕長』になっている。



 篠田給仕長は、サービス中は『メートル・ドテル』の顔を完璧に保つ。

 例外がひとつ。



 時間どおり。ひとりの中年男性客が、ご両親を伴ってご来店。

 タクシーで到着したその姿が見え、葉子から先に出向いて、フレンチ十和田の玄関扉を開けた。

 開いたドアのそこに、メートル・ドテルの蒼が立つ。葉子もドアを開けた状態にして、蒼の隣に並んで一緒に一礼をする。


「いらっしゃいませ」

「いらっしゃいませ」


 共に出迎えて、チェックカウンターへとご案内をする。

 お名前を伺うと、蒼が予測していたとおり『岩崎様』だった。


「いらっしゃいませ。本日は遠いところからのご来店、ありがとうございます」


 彼が持っていた鞄から『エゴイスト』というタイトルが見える書籍を取り出した。この店にその写真集を持ち込むゲストはほぼ『ハコチャンネルの視聴者』だった。



「こちら、北星秀さんの写真集です。今日もここに来るまでに飛行機の中、眺めながら来ました。こちらに到着したら、写真とおなじ風景が見られて感激です。お店に来る前に、父と母と大沼をタクシーでくるっと回って散策道も歩いてきました。オススメの睡蓮がとっても綺麗でした。えっと……あなたが、ダラシーノさん……ですよね?」


 そう声をかけられたら、蒼の表情がころっと変わる。


「さようでございます! 私がダラシーノでっす!!」


 片手を高く挙手して胸を張って大声で叫ぶ。

 視聴者の彼も、お連れのお客様もその一声でびっくりしてのけぞり、しばし呆然としている。でもそのあとすぐに笑顔になる。


 篠田は『ダラシーノ』とご存じのお客様にのみ、メートル・ドテルの姿を崩す。これが『例外』だった。


「そうそう! いつものひび割れちゃう声! 生声でもこんなに大きかったんですね。納得!! わー、ダラシーノさんだ!」


 握手を求められて、蒼もにこにこ笑顔で応じる。

 でもお客様はそこでもう一度、蒼をじっと凝視するのも、ほとんど皆おなじ。黒いジャケットとスラックス、ベストに白いシャツ、そして黒い蝶ネクタイをしているすらっとした男を見て、今度は首を傾げているのだ。


「えっと、動画からも素敵な男性とわかっていましたけど、メートル・ドテルのお姿はますますかっこいいですね! その、あの元気なお声からは……。そこは予想外でした」

「よく言われます。そこの十和田も毎日そう感じているようですから。あ、ハコさん。こちらの方のお荷物をお願いします」


 今度、お客様の視線は葉子へと一直線。またお客様の笑顔がこのうえなく輝く。


「あなたが、ハコちゃん!」

「いらっしゃいませ。おまちしておりました。北星の写真集をお持ちくださいまして、ありがとうございます。十和田と申します。そして、ハコです」


 葉子もセルヴーズの制服姿で笑顔を見せる。


「わ、わ、ほんとうにハコちゃんの声だ。北星さんのことがSNSで流れてきてからの視聴者なんですけれど、いまはレストランの配信も含めて楽しみに待っています。北星さんの作品の中でも、ハコちゃんの『笑顔よくなった』の写真が好きなんです。唄のハコちゃんではなくて、セルヴーズのハコちゃんに会えて嬉しいな」


 こちらも握手を求めてきたので、葉子も快く応じる。


「ありがとうございます。更新回数は減りましたけれど、ここまで来てくださったこと嬉しいです。北星の写真集を刊行できたのも、チャンネルを支えてくださった視聴者の皆様のおかげなんです。本日は、どうぞ、ごゆっくり、くつろいでくださいませ」

「ハコパパシェフのお料理、いつも視聴していて食べてみたかったからほんとうに楽しみです。あ、お仕事をされているので、お邪魔にならないよう楽しませていただきますね」


 今日のお客さまは、お母様とお父様を連れた親孝行旅行とのことで、函館で一泊した後は、登別温泉で一泊、洞爺湖を巡って最後は札幌泊で小樽へ向かう旅程だと教えてくれた。


 そのお母様も葉子に声をかけてくれる。


「あなたがハコさんなのね。あなたのおかげで、息子が今回の旅行を計画してくれて。そうでなければ、北海道に行こうなんて言ってくれなかったと思うの。ほんとうに感謝」

「はあ、なにいってんの母さん。ハコちゃんがきっかけであって、いつかこうして連れてきてあげたいとちゃんと思ってたよ」

「結婚もしないで仕事ばっかりの子なの。でもこうして旅行をプレゼントしてくれるなら、息子がずっとそばにいて独身でも悪くもないわね~って思いながらきたの。ほんとうに、睡蓮がいっぱいの散策道、素敵でした。私も北星さんの写真集を、息子をキッカケに……」


 そこでお母様が葉子の目の前でうつむいた。


「少し納得がいかない結末でしたけれど……。北星さんもご両親がご健在であれば、もしかして……と、この旅行で思いました。家族がいる有り難み、息子にはいつまでも健やかでいてほしいと改めて思うものでした。生前のお写真が優しい分、余計に――」


 以前ならこの言葉で、葉子はいちいち傷ついていただろう。

 血縁の家族がいれば北星は危険な撮影の決行はしなかったはず。血縁ではない仕事仲間の十和田シェフに葉子では引き留められなかったと言われているようで、落ち込んでいただろう。


 いまはもう、そうは思わない。

 秀星の写真は、ただそれだけで世の中に存在しているし、たくさんの人の目に触れて、たくさんの気持ちが生まれている。彼は『僕のエゴはシャッターを押したときに完結している』と言うだろうが、それでも、彼もきっと、『僕の写真を見て、なにかを少しでも感じてくれれば。それが写真だ』と言いそうだ。


 あの水辺でずっと唄っていたからわかる。

 自分しかわからない『エゴ』のような表現でも、人の心を動かすことがある。ほら、今夜のように――。


 こちらのご家族は、秀星の写真集をキッカケに旅行をしている。

 今日は父の『料理』という表現を感じて、幸せな夜を過ごしてくれたのなら、それだけでもう『私たち表現者』も幸せなのだ。


「ありがとうございます。北星の写真をご覧くださって、ご家族のことを思う。北星はその想いのキッカケになったことを喜ぶと思います。たのしい夜となりますよう、私もお手伝いいたします」


 散策ついでに、大沼公園駅にあるお店でお土産でも買ったのだろう。その荷物を預かる。



 息子さんとお母様が、葉子を挟んでいつまでも話しているので、穏やかな微笑みだけの無口そうなお父様が手持ち無沙汰な様子で佇んでいる。

 だがそこはさすが給仕長、さっと動いた。蒼がビジター用の待合テーブルへとご案内をして、一休みするように勧めている。


 そちらでは、話し上手な蒼が、静かにそっとお父様へと話しかけ、今日はどこを訪ねたのかとうまく引き出して、退屈しない配慮もおてのもの。やっぱり、サービスのプロだなあと葉子は感嘆する。


 そんな時の篠田給仕長の姿も、葉子は誇らしく思っている。




 お出迎えを終え、蒼がホールへと案内していく。

 その間に受付のチェックカウンターで、本日の予約表を再度確認しておく。


「あと二十分後に、長野様、6名。本日はお姑様のお誕生日。バースデーケーキを忘れずに。19時には、ツアー経由で名古屋から吉村様の2名、ご夫妻。同じくツアー経由、名古屋から戸田様、ご友人同士のご旅行で5名、それから……」


 計七組、の来店だった。これは今夜もホールに厨房はフル回転になるのだろう。

 葉子もゲストをおもてなしする心積もりを整えていく。


 蒼がホールへと岩崎様のご案内を終えて、カウンターに戻って来た。


「今夜も満席、忙しくなりそうだね」


 カウンターで予約表を確認している葉子のそばへと、蒼も黒いジャケット制服姿で並んで一緒に覗き込んだ。

 エントランスの受付カウンターの中で、二人並んで予約表を眺めていたが、蒼が再度、腕時計を見た。


「えーっと、ちょっとだけ、蒼くんにもどりまーす」


 篠田給仕長としてキリッとしていたスタイルから、ふわんと柔らかくニンマリした『蒼くん』の顔に戻った。


「先ほどのお客様、お母様とお話ししていたこと、大丈夫かな」

「うん。大丈夫だよ」


 蒼がそっと、葉子の耳元へと身をかがめてきて、密やかな声で話し出す。

 

「ごく一般的な感じ方だよ。あのお母様は、母親目線で見てくれたんだ。両親が、家族がいれば、北星はあの撮影は決行しなかったはず。死ぬことはなかったはず。またあのような写真に取り憑かれることもなかったのでは――。そう言いたいんだ」

「わかってるよ。蒼くん。いいの。それがエゴイストという写真集だから。その人の立場で見てもらって、岩崎様のように息子さんが元気でつつがなくご家族でいられることを改めて幸せに思っていける。それだけでも、秀星さんの写真の意味が持たれるの」


「へえ、葉子ちゃん。なんか大きくなったな。ダラシーノ、ちょっと寂し……」


 結局、彼はこうして、人の心に対してとてもきめ細やかに感じ取ってくれているんだなと、葉子はこんな時に心が温かになる。


「蒼くんがいつも私のことを見てくれていて、嬉しいよ。大きくなってもどこにも行かないし、ずっとそばにいる」

「きゃっ、葉子ちゃんったら、こんなところでそんな嬉しいことをっ」


 途端にいつもの蒼くんの言い方になったから、葉子もすっかり気を抜いて笑い声を漏らしてしまった。

 すぐに二人揃って、ハッと我に返った。こんなところも、既にお仕事モードの夫と妻に戻ってしまう。


「いけね。えー、では、十和田さん。行きましょうかね」

「はい。篠田給仕長」


 チェックカウンターから離れ、二人揃ってホールへと戻ろうとした時だった。

 ガラスドアのむこう、玄関前に、またタクシーが停車したのが見えた。


 蒼と顔を見合わせる。一緒にそれぞれの腕時計を眺める。先ほど、揃って予約表を確認した時は、次は二十分後。お客様、早めについちゃったのかな? 葉子がそう思った時にはもう、蒼は給仕長のクールな面差しに戻って、さっと動き出していた。


 蒼が玄関を開けようとしていたが、きちんとしたご挨拶の姿勢を給仕長に整えてほしいので、慌てて葉子から玄関のガラス戸を引く把手ハンドルを握る。それを見た蒼が、お客様と対面になる姿勢を整えた。


 ドアが開き、お年を召した白髪のご老人が来店する。

 お顔を見る前に、篠田給仕長は深々と頭を下げてお出迎えのお辞儀を見せる。


「いらっしゃいませ」

「あの、予約以外でも、よろしいでしょうか」


 当日、飛び込みのお客様だ。これはお断りのパターンだな……と、葉子は申し訳なくなってくる。

 今日は満席、ホールも厨房もフル稼働で余裕がない。ただし『例外』を除いては――。


 蒼が頭を上げる。少し眼差しを伏せた表情に整えているのを見て、葉子にも『あ、断る』というのがわかった。


「申し訳ありません……」

 という表情を見せてから、お客様と目線を合わせる。そこでほのかな微笑みを浮かべて、お断りを示す。

「本日はご予約のみとなっておりまして――」

 蒼とご老人の目が合った。


 そこで、何故か蒼の言葉が止まった。

 いつもの流暢りゅうちょうな接客トークが出てこない彼を見て、葉子も訝しむ。

 それに、蒼の表情が強ばり、驚きの目をしているのがわかった。この方は、いったい?


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