12.君のなかで生きること

 その日がやってくる。北星秀写真集『エゴイスト』の発売日だった。



『フレンチ十和田』は営業中。今日も観光客を含めた予約でランチも満席。爽やかな緑の森と湖が見えるホールで、ゆったりと湖畔での食事を楽しむ空気で和んでいる。


 そんな日なのに、そんな日だからなのか、今日は神戸から矢嶋社長がやってきた。ランチタイムが終了し、次のディナータイム開店までの準備時間中に訪ねてきた。


 お客様がいなくなったホールで、父が準備した軽食をランチにして、矢嶋社長がテーブルでくつろいでいる。

 ディナータイムに向けて、各テーブルのセッティングとコーディネイトを整えるナパージュを葉子がしていると、社長のテーブルへと、蒼がおかわりのコーヒーを運んできた。


「社長、お行儀悪いですよ。まさかのスマホを見ながらのお食事ですか」


 あの社長に気軽にそう言える蒼は凄いなと、葉子はいつも思っている。

 しかし十年ほど勤めたレストランの上司であって社長だったのだから、蒼にとっても、もう父親に等しい人なのだろう。

 それは矢嶋社長も同じようで、人なつこい蒼のことは『篠田、篠田』と気軽に呼んで、息子のように慕っているのも、葉子から見ても伝わってくる。


「なんだ。いつも社長室でもそうしているではないか」

「お客様がいらっしゃらないからって、ホールでそんな、フレンチレストランの経営者さんが……」

「気になるじゃないか。コメントとか感想とか、どう言われるのか受け取るのかと――。もう書店では秀星の写真集が並んでいるわけだろ。あー、函館の書店でそれを確認してから大沼に来ればよかったなあ。はあ――」

「はあ……って。そんな社長が緊張しなくても」

「篠田はしていないのか?」

「僕がいまさら緊張してもどうにもなりませんし、今日もサービスをきちんとしないと、それこそ秀星先輩のこわーいあの目を思い出しちゃうので、よけいに気をつけていますよ」

「さすがだ、さすがだな! それでこそ秀星が跡継ぎとして認めた篠田だ」

「一生、先輩を超えられませんけれどね」


『ま、それもそうだな』と、おかわりのコーヒーをさっそく飲む社長のひとことに、蒼が『そう言われるとがっかりしちゃう』と拗ねている。それを、遠くから眺めつつ葉子はひっそりと笑いを堪えていた。


 テーブルを整えるナパージュを終えたので『休憩に入ります』と葉子はホールを出て行く。


 厨房で作られたクラブハウスサンドイッチを包んで、葉子はギターを担いでレストランの外へと出かける。


 森はうららかな春の午後。白樺木立の散策道には、新緑の梢から木漏れ日が降り注ぐ。

 細い散策道は、土の匂い、水辺の風の匂い、緑の匂い、小鳥のさえずりに包まれている。


 コートを羽織ってギターを担いで葉子が辿り着いたのは、あの東屋だった。


 いつも秀星と座っていたそこに腰をかけ、ひとりでひっそりと食事をとる。

 葉子もそこでスマートフォンを取り出す。いつもの画面を開こうとして、やっぱり開けずにいる。


 矢嶋社長と一緒だった。あの人の集大成を世間がなんと評しているのか、気になって仕方がない。仕事中は集中しているので気にしないで済んでいたが、休憩時間になったらそわそわして仕方がないから外に出てきてしまった。


 蒼は矢嶋社長のお相手をしているので、なにも報せずに出てきてしまった。



 さあ、どうしよう。

 発売を告知した時に巻き起こった賛否両論の大嵐が蘇ってくる。

 あの時はまだ、気強くどんなことでも跳ね返そうという気構えがあった。


 この写真集の発売を迎えたら、動画配信のペースを落としてゆったり過ごそう――。そう決めた時に『ハコ』は力を抜いてしまったのだ。

 いま、嫌な言葉を目にしたら、しばらく立ち直れないかもしれない……。そう思うと開けない。


 やっぱり仕事が終わって、蒼がそばにいるときにしよう。

 そう思ってスマートフォンはベンチの片隅に放って、葉子はクラブハウスサンドイッチを頬張った。


 風が吹く度に、森から木々のさざめきが聞こえてくる。

 海や湖のさざ波のような、森の音。春の小鳥たちの声――。



『どうしたの』


 カメラを担いでいる『あの人』の声がいつも散策道から聞こえてきて――。


「どうしたの、一人で」


 はっと、その声へと目線を向けると、そこには蒼が立っていた。

 給仕制服の黒ジャケットを脱いで、ネクタイも取って、いつもの黒いトレンチコートを羽織ってそこにいる。


「蒼君……」

「外で休憩なんて滅多にしないだろ。出て行っちゃったから気になってさ。いい加減、いつまでも落ち着きがないアルパチさんを置いてきた」


 もうこの人なんだなと、葉子はほっとして微笑んでいた。

 なのに蒼のほうは、らしくなく、遠慮するようにそこにいる。


「もしかして、一人がよかったのかな。……我慢できずに追いかけてきちゃったけど……」


 ここが秀星と毎朝語らっていた場所だと、彼にもよく話していた。そして、ふたりでここに来ることは滅多になかった。散策して近くを通っても、なんとなく避けてきたところはある。あの水辺のポイントよりも、奥まった場所にあるから、余計に『ふたりだけの思い出の場所』になっていたのかもしれない。


「だって、蒼君、矢嶋社長の相手していたから。でも、あそこにいられなかったの。わかるの。お父さんも、みんなも、今日は落ち着かない日だって。だから……」

「そこ、そばに行ってもいいかな」

「え、うん。いいよ」


 いつも、蒼から葉子に密着してくっついて離れないほどに積極的なのに、今日はいつまでもそこで気後れした顔でいる。

 葉子の『いいよ』を聞いたからなのか、やっと東屋の屋根の下へと入ってきた。

 なのに彼が座ったのは、葉子の隣ではなくて、向かい側のベンチ。長い足を組んで、ひといきついている。


「なんでそっちなの。隣じゃないんだ」

「いやー、だってさ。そこに秀星さんが見えるんだもんな。『僕の膝に座らないでくれるかな、篠田君、重いっ!!』って、声が聞こえちゃうんだもん」


 ほら、また! 思わぬことをかーるく、自然に差し込んでくるので、また葉子は頬張っていたサンドを噴き出しそうになっていた。


「もう~、また! やだあ、秀星さんの膝の上に蒼君が座っているなんて!!」


 確かに、いま葉子が座っている隣には、いつもその人がいた。

 その人とその場所に、いなくても気遣ってくれるそんなダラシーノを葉子も愛している。


 だから葉子から立ち上がって、サンドイッチ片手に向かいのベンチへと向かう。


「じゃあ、今度からここに座ろう」


 蒼の隣にすとんと座り込む。それも彼の肩にぴったりくっつくようにだった。

 なのに、なんの言葉も聞こえてこない。いつもなら『きゃー、葉子ちゃんったら!』とはしゃぐところなのになと、不思議に思った葉子は彼へと見上げる。

 小鳥のさえずりだけが聞こえる柔らかな陽射しの中でも、蒼が切なそうな眼差しで、ただ葉子を見下ろしている。

 それも、あの年相応の枯れた顔つきをしていた。だからって、すごい老けて見えるとかではない。非常に真剣になっている状態で、絶対に茶化してはいけない顔だと葉子には見えた。


「蒼くん?」

「葉子のことばかり考えている」


 やっと彼が、でも何故か寂しそうに微笑んでいる。

 ダラシーノなんて言えない、落ち着いた男の顔だった。


「だから、俺の隣を選んでくれて嬉しいよ」

「だいぶ前から一緒にいるじゃない」

「何度も、毎日、毎晩、そう思っている。人がいなくなるって簡単で突然で、そばにいてくれることが当たり前ってわけじゃない」


 どうしちゃったの。葉子のほうが泣きたくなってくる。

 でも、いつもダラシーノという名のおどけた男で賑やかにしてくれるのは仮の姿で、ほんとうは……こんな……。


 もっていたサンドを傍らに置く。

 今日は葉子から、その隣にいる男にそっと抱きついた。

 大きな男をまるで自分へと動かして寄せるような気持ちで、細腕で蒼の腰を囲ってひっぱった。


「やだ。蒼君まで、どこかにいっちゃうのが当たり前って聞こえたよ。やだよ、せっかく出会えてわかり合えて一緒にいるのに」

「だよね~。最初のハコちゃん、俺を見る目がすごーく『こんな人、イヤ』って目だったもん。俺、やかましい男だから、わかっていたけどねーんっ」


 初対面当時の心境を掘り返され、身に覚えがある葉子はギョッとする。

 しかも、いつもと違う蒼を目の前にして、泣きたい気持ちで彼に抱きついて『こっちよ蒼君、愛しているから、そんなこと言わないで』とばかりに、葉子が愛情を見せた途端に、いつものこれ!


「もうっ、なんなの!」

「いやいや、ごめんね。葉子ちゃんが抱きついて抱き寄せてくれたもんで、元気注入が終わっちゃったみたいで、わー、俺ってば、もう元気!!」

「ばっかみたいっ、もう知らないっ」


 つんとそっぽを向いて、抱きついていた蒼から葉子はさっと離れる。


「っていう俺を、葉子にはいつも思い出してほしいと思っている。俺が生きていても生きていなくても――」


 また蒼の様子が変わって、葉子は彼をそっと見上げた。


「やっぱり、今日の蒼くん、変だよ。私以上に、なんか違うよ」

「いるからだよ。そこに、秀星先輩が。……いや、そこにではなくて、今日はみんなのそばにいる。十和田シェフのそばにカメラを持った先輩が、矢嶋社長のそばにコーヒーを持ってくる先輩が、葉子のそばに座って『これ今日の写真だよ』と笑顔でカメラを一緒に眺める先輩が、俺の隣にもいま……『篠田君、本日のお客様について、きちんと頭に入っていますか』という、仕事を始める前の第一声、『ちゃんとランチを取った? いつまでも若さ任せはよくないよ』って、口うるさい兄ちゃんになってる先輩とか」


 また神妙に語り出した蒼を見て、葉子はやっと気がつく。

 今日、いちばん、心にたくさんのものが飛び込んできて、なんとか必死に受け止めて耐えているのは、蒼だったということだ。


 その蒼が、いつも秀星が座っていたベンチを見つめ、緑の枝先に囲まれている水面へと遠く視線を馳せる。


「人って死んでも生きるんだなと、先輩が突然いなくなってから、よく思っている。だから葉子の中に俺はずっと生きていたいなと思っている。俺も、死ぬまで葉子を心の中で生かして一緒に生きて、一緒に逝くよ。だから、笑って、葉子ちゃん。唄ってハコちゃん。怖いときは、俺に泣きついて、葉子――」


 この男は――。

 どんだけ私を泣かすんだ。

 また葉子が重圧に押しつぶされそうになっているのを悟って、ずっと目を離さずに心配してくれいてた。一人で怖いなら、俺に泣きついてなんていいながら、いちばん背負ってくれているのは彼なのではないかと葉子は初めて思う。

 そう思って、やっぱり葉子はまた蒼に抱きついて、抱きしめて、重い彼の身体を必死に抱き寄せよる。


「わかった。私も心の中で、ずっと蒼君を生かすよ」


 秀星さんのように。彼は片隅にいるけど、貴方は私の心のど真ん中、とっても広い場所で、いつも、おおらかに笑っているよ――。


「あ、葉子ちゃん。食べかけだったな。ごめんな、俺、いつも邪魔しているな」

「蒼くんは? 食べたの?」

「それが……、ま、あとでいっかと思って、まずは葉子ちゃんを追いかけたくてですね……」

「もうひとつ持ってきたよ。それ食べなよ」


 向かいのベンチにギターもスマホも、サンドを包んできたレジ袋もそのままだった。

 蒼のそばから立ち上がって、それを取りに行こうとしたら、腕を掴まれる。今度は蒼が葉子をひっぱって、こちらは男の力で軽々と隣へ連れ戻していく。


 今度は蒼が覆い被さるようにして、葉子をきつく抱きしめていた。


「え、あおい、くん……」


 外だから? 仕事中の休憩中でも、決して葉子に男として触れなかった蒼が、葉子のくちびるへと迫ってきた。なのに寸前でハッとした顔になって、一度離れていく。


「いけね。先輩に見えないようにしておこうな。すんません、先輩、ちゅっちゅタイム突入でーす」


 コートの身頃でさっと二人の姿を隠してから、ちゅっとキスをされていた。それどころか本気のようで、濃厚な深いキスを彼から続けてくるので、葉子は思わず『んーんーんーっ』と唸ってしまう。


 やっと離してくれたころには、葉子の頬はとっても熱くほてっていた。


「し、篠田給仕長のかっこうで、こんなことされるとは思わなかった」

「んー、なんていうか、うっかりタイミング?」

「っていうか、秀星さんをいちいち意識しないで、もう~。ちゅっちゅタイムってなに!」

「だから、不安そうな葉子ちゃんと、不安な空気がどうにも耐えられないダラシーノの、元気わけあいの儀式です」

「儀式!?」


 でも葉子はもう笑っていた。ほんとうにもう……。ほんとうに……、この人といると、ずっと笑っていけると葉子は思う。


 秀星が信念を持って生きることを遺してくれたのなら、蒼は笑顔で生きていくことを遺してくれるんだろうな。そう思えた。


 肩の力がお互いに抜けたところで、一緒にクラブハウスサンドイッチを頬張りながら、やっといつもの二人で笑い合っていた。


「では。ハコちゃん、行きますよ」

「はい、ダラシーノさん」


 ついに、視聴者からのコメントが見える動画チャンネルへとアクセスする。

 蒼のスマートフォンにそれが表示され、昨日の朝、『日暮山展望台』で告知した動画のコメント欄を確認する。


 蒼の長い指先が画面をスクロールしていき、やっと、秀星の写真集についてのコメント第一声を見つける。


*ダラシーノって、本名が篠田だから、ダラシーノってわけ!?


 え、それが一番到着のコメント!?

 二人揃って目が点になっている。


「はい!? 俺のこと!?」

「あはは! 秀星さんも笑ってるよ! 僕の写真より、君が目立っているねって!!」


*写真集に本名掲載されていてびっくりした! ハコちゃんも、葉子だから、ハコ。しかも北星さんが教育のうえでわざと間違えたふりをして呼んだって……、そんな由来に、なぜか涙が……。


 そこから続々とコメントが並んでいた。


 でも、蒼と肩を寄せ合って、笑いながら眺めていた。

 緑の薫りがする湖畔の東屋で、風の中、小鳥のさえずりが届くここで。いまは彼と――。

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