第2話
地下迷宮の奥。ギリー少年は大きな鎧の魔物を前にして腰を抜かしてしまい、その場でへたり込んでいた。
「く、来るな、来るな……」
「ぐぉぉおおお!!」
咆哮とともに魔物は鋼鉄製の太い腕を振り下ろす。少年は恐怖で防御姿勢すら取れず、鉄塊が自分めがけて近づいてくるのをただ見ているしかできなかった。
「ふんっ!」
「ごっ……」
何者かの掛け声が聞こえると、少年の眼前で拳が止まった。見ればどこからともなく現れたいくつもの土塊が魔物の体にのしかかっており、なおも積み重なっていく。
「ごあああぁぁぁ!」
やがて重みに耐えきれなくなった魔物は頽れ、メキメキと音を立てながら潰れていく。ついにぺしゃんこになってしまうと、圧していた土塊はすぐさま消えてしまった。
呆気にとられている少年の傍らに、目深にフードをかぶったローブ姿の人物が立った。
「おい、怪我はないか?」
「う、うん……」
「フフフ、それはなによりだ。死なれでもしたら敵わんからな」
少年はまだすくんで覚束ない足腰をどうにか奮い立たせた。
「なあ、そろそろ教えてくれないか? 一体どこまで行こうというのだ?」
「も、もっと奥……、かな」
「財宝でも隠してあるのか?」
「違う……。ねぇ僕、泣いてないよね?」
「んん? 涙が流れてないからなんだというのだ?」
「そっか……」
「おい子供。ここへ入れてやった上、魔物から守ってやったのは誰だ? まさか恩人の質問ひとつまともに答えられんのではあるまいな?」
「ぼ、僕ね! おばあちゃんのお葬式で、全然涙が出なかったの。それで、おかしくなっちゃったと思って、色々試してみたんだ。苦手な野菜食べたり、わざと転んだり。けど、やっぱり泣けなくて……。だから考えたんだ、僕は人間じゃないのかな、って」
「ふむ……。なるほど、そういうことか! ヒャッハッハ!」
「へ、変だよね……、やっぱり」
「おっとすまないな、子供よ。ちょっとした発見があったものでな。つまり貴様は、自分が魔物ではないかと疑ったわけだな」
「うん。でも」
「だが子供! 涙が出ぬなどおかしなことではないぞ」
「え? だって、世界一大好きなおばあちゃんだったんだよ? 枯れるぐらい涙が出て止まらなくなるのが普通でしょ?」
「ふん。オーガ族は何があろうと泣いたりはせん」
「おーがぞく?」
「いにしえの時代に世界を支配していた種族だ。どんな生き物よりも強靭で、涙など流すことはない。そうだな、お前には鬼と言ったほうがわかりやすいか」
「でも僕、オーガ族じゃないよ。だって」
「いいや! お前はオーガだ。そうでないなら、なぜ涙が流れなかったのだ? 間違いない。お前の中にはオーガの魂が眠っているはずだ」
「ほ、本当に?」
「そう考えれば、泣けなかったことの説明がつくだろう?」
「うん……」
「そして喜べ。私は、お前を本来の姿に戻す薬を持っている」
「本来の姿?」
「ああ、正真正銘のオーガになれる薬だ。どうだ? そうなれば、泣けないことで悩む必要など一切なくなるぞ?」
「……オーガは、絶対泣かないの?」
「誓ってもいい。絶対に泣かん」
「オーガは、人を傷つけない?」
「フフフ。大抵のオーガは暴れることしか頭にない低脳ばかりだが……、ヒャッハッハ! お前は運がいい。なんとワタシならば、知性を残してやれる! 自ら考え、行動することができるぞ!」
少年は俯くと、自分に言い聞かせるように小さく呟いた。
「……二度と、泣いたりしない」
「さあ、どうする?」
ローブの男が少年に手を差し出した。
少年は男に近づき、おずおずとその手に触れようとする。
「僕……、オーガに――」
二人の手が触れ合う寸前だった、地下迷宮の薄暗い闇の中から一つの影が躍りだし、怒涛の勢いでローブの男に斬りかかった。
斬撃の空を裂く音が通路の先へと消えていく。
「ちっ! いきなり斬りかかるとは、礼儀を知らぬのか!」
ローブの男は既のところで飛び退いて刀を躱していた。しかしフードの一部が裂け、表情が垣間見えている。口元は怒りに歪んでいるようだが、鼻から上は仮面のようなものを被っているらしい。
「拐かしに礼儀など不要でござる」
少年を背に、カエルの姿をした剣士が男に向かって刀を構えなおす。
「ふん、人聞きの悪い。ワタシは善意でその子供を救ってやろうとしているのだぞ」
「聞いていたでござるよ。オーガなど、ただ危険なだけの存在でござる」
「はて。お前にオーガの何がわかるというんだ? カエルの怪物よ」
「せ、拙者は怪物ではござらん! 正真正銘の人間でござる!」
ちらりと少年に目をやると、明らかに動揺しているのが見て取れた。自分の姿のことで驚いているのだろうと考えたサイラスは、どうにか安心させようと試みる。
「ギリー殿でござるな? 拙者はサイラス。こう見えて、元は人間でござる。ご両親の元へ一緒に帰るでござるよ」
「父ちゃん、母ちゃん……」
ギリーは今にも泣き出しそうな顔をしている。
「子供よ、賢いオーガになるのだろう? 今を逃せばもう次はないぞ?」
「ギリー殿。経験上、頭の回るオーガはいても、人を傷つけないオーガなど一匹たりとも存在しなかったでござるよ」
「ね、ねぇ。カエルのおじさんは、大切な人が死んじゃったら、泣く?」
「む。拙者は……、泣かなかったでござる。自分の弱さに打ち克つため、決して人前で涙は見せない。それがサムライの生き方でござる」
「じゃあ、僕もサムライになれる?」
「もちろん。日々の鍛錬で己を鍛え上げれば、なれるでござる」
「たんれん……」
「おいおい子供よ。そんな口車に乗ってはいかん」
「口車とは、聞き捨てならん!」
「泣かないとは言っておらんではないか。人前では泣かんと言っている。貴様とて、泣くときは泣く。そうだろう?」
「そうなの……?」
「な、泣かない人間などおらん!」
「ほう? ではやはりコイツは人間でないと?」
「違う! きっと心が事態を受け止めるのに、時間が掛かっているだけでござる!」
「馬鹿め。泣くべきときに泣けない、それが問題なのだろうが。泣かないことと、泣けないことは同じではない。いいか子供よ、サムライだからの一言で、お前の心はお前を許しはしないぞ?」
「ギリー殿、耳を貸してはならんでござる!」
「僕は……」
「お前は繰り返す。大事なものを失う度、涙を流せずに苦しむ!」
「そうと決まっているわけではござらん!」
「さあ、ワタシの手を取れ。悲しみなどという無駄な感情は捨ててしまおう」
少年がローブの男の下へとぼとぼと歩き始めてしまう。
「なっ!? ギリー殿!」サイラスは咄嗟に少年の腕を掴んだ。「涙の量と悲しみは、決して――」
「僕はもう泣いたりしない!」
少年は力いっぱいにサイラスの手を振りほどいて言い放ち、そして走り出した。
「ギリー殿!」
「しつこいぞ!」
「ぐあっ!」
少年に追いすがろうとしたサイラスの動きが急に止まった。ローブの男が魔法を使ったようだ。宙に浮いたサイラスの全身を、鎖のようになった魔力が這って締め上げていく。
「か、カエルのおじさん……」
振り返った少年が心配そうな表情を浮かべている。
サイラスはどうにか振りほどこうともがくが、まるで体の自由が利かない。声すらまともに出ない状態だ。
「ぐぅ……、ぎ、りぃ……、ど……」
「さて」
ローブの男が片腕を掲げた。
「煩わせた代償は払ってもらおう」
男の手の先で石粒がいくつも出現し、みるみる凝集していく。そして次第に鋭利な先端を形作り、槍のようになっていく。
ただならぬ気配を感じたのか、少年は男を止めようとローブを掴んで縋った。
「やめて、やめてよ! 酷いことしないで!」
「ふむ……。ならば交換条件だ。オーガになるための薬は不味い。文句を言わずに飲み干すと約束しろ」
一瞬きょとんとした少年は、嬉しそうに顔を輝かせた。
「うん、わかった! そんなことなら簡単だよ」
「よろしい。ワタシは忙しいのだ。面倒事はごめんだからな」
そう言って男は手を振り下ろした。石の槍がサイラス目掛けて飛んでいく。
「えっ!?」
少年の目が槍の行方を追う。
サイラス目掛けて一直線に飛んでいった槍は、しかしすぐ脇を通り抜け、向こうから剣を持って走ってきていた何者かに向かっていく。
「くっ!」
硬質な金属音が地下迷宮に響いた。その剣士が石の槍を叩き落としたようだ。
駆け込んできたのはアルドたちであった。
「そこで止まってもらおう。面倒事ども!」
ローブの男は再び石の槍を出現させ牽制する。
サイラスに石槍の狙いを定められ、アルドたちは手前で立ち止まらざるを得なかった。
「無事かサイラス!」
「あ、る……」
「君がギリーだな! 二人とも今助ける!」
「まったく。どうしてこう邪魔ばかり……」
ローブの男が石槍をみるみる増やしていく。
「いいか聞け! ワタシはこの子供と約束を交わした。なので出来ればそこのカエルを殺したくはない。黙って帰ってはくれないか?」
「そんなこと、出来るわけないだろ!」
「これだから愚物は……。いいだろう。この子供にカエルの串刺しを見せたいというのなら、掛かってくると良い」
互いに無言でにらみ合う。
アルドとしても策があるわけではない。
「エイミ、サイラスを守れるか?」
「……きっと間に合ってみせる。だからリィカと二人でアイツを」
「よし、やるしかない」
アルドたちが重心を落とし、一斉に飛びかかる気配を見せたときだった。
「こ、来ないで!」
「ギリー?」
突然、少年がローブの男を守るように、両手を広げて立ちはだかった。
「魔法のおじさんは約束を守った。だから次は僕が約束を守る番だ!」
「約束? なんのことだ!?」
「不味くても我慢して薬を飲む! それで僕は優しいオーガになるんだ!」
「オーガだって?」
「だから来ないで……、邪魔をしないで!」
『――オマエサエ、コナケレバ――』
「なっ!?」
不意に耳ではないどこかで声が聞こえたような気がして、アルドは一瞬、前後不覚に陥った。
「ちょっとアルド!?」
「あ、す、すまない。大丈夫だ」
「ヒャッハッハ! そういう事だ。悪いが失礼させてもらおう」
すると男はギリーの肩に片手を置き、振りまくようにして周囲に魔力を放った。次第に男と少年を取り囲むように黒い靄が集まりだす。
「おじさん、なにこれ!?」
「動くな。魔法で外へ出るだけだ」
どんどんと靄は濃くなり、二人を球状に覆っていく。
「ギリー、行っちゃダメだ!」
「か、カエルのおじさんたち!! 父ちゃんと母ちゃんに伝えて! 僕、ふたりの子供で――」
ギリーが言い切らないうちに暗闇は完全に二人を飲み込んでしまった。
「戻ってこい、ギリー!」
真っ黒な球体にアルドが駆け寄る。しかし触れようとした途端に靄へと戻り、周囲に霧散してしまった。もう二人の姿はない。
ローブの男が出現させていた石槍が消え、同時にサイラスの縛めも解けた。
がくりと地面に膝をついたサイラスの元へ全員が駆け寄る。
「はあ、はあ。皆、助かったでござる」
「無事でよかったわ」
「干しブドウのお陰ですノデ」
サイラスは迷宮を進みながら、持っていた干しブドウを目印代わりに落としていた。お陰でアルドたちは迷わずにたどり着くことができたのだった。
「アルド?」
エイミが浮かない顔のアルドに声を掛けた。
「え? あ、ああ。ほんと無事で良かったよ。あと問題はギリーだな」
「ええ。どういうことかしら、オーガになるって?」
「皆、あまり時間はないでござる。ここを出る道すがら話すでござるよ」
井戸から出た場所で、一行は話し合いを始めていた。
「ということは、葬式で泣けなかった事を正当化したくてオーガになろうとしてるってことか?」
「なんだか、ややこしい考え方ね」
「拙者が不甲斐なかったのでござる。せめて初撃で斬り伏せていれば……」
「大丈夫だってサイラス。おかしなことになる前に取り戻そう」
「かたじけない」
「それにしても、どうやって探したらいいのかしら?」
「うーん、時間はないけど、地道に聞き込みをするしか」
「ご心配ナク!」
嬉々としてリィカが歩み出て胸を張る。
「立つオーガあとに濁り湯、ですノデ!」
「……エイミ、意味わかるか?」
「わかんないわよ。どうも言動が普段と違う気もするし、どっか故障してるのかも?」
「そんなことはありマセン! いつでもウィットに富んだジョークは、険悪な空気をクリーンにしますノデ」
「そ、そうか。リィカなりに気を使ってくれてるんだな」
「気遣いだけではありマセン!」
「なにか手があるの?」
「先程のポイントで、下剤の材料と同じ臭い成分が微量に検出されマシタ」
「どういうことだ?」
「生成過程で衣服に付着した可能性がありマス」
「下剤を作った奴とギリーを誘拐した奴は同一人物ってことね?」
「ハイ。新しい痕跡なら、近づけば特定可能ですノデ」
「偉いわリィカ。早速追いかけましょう!」
「ああ、急ごう!」
「皆、すまないでござる。拙者は一旦、ギリー殿のご両親に現状を伝えてから合流するでござるよ」
「サイラス……。わかった、オレも一緒に行くよ。悪いけど、二人で行き先を探しておいてくれないか?」
「了解。どのみちリィカだけが頼みなんだし、わかったら迎えに行くわ」
「恩に着るでござる」
「合成鬼竜に乗ったつもりでドウゾ」
「な!? 鬼竜はあやうく墜ちかけたではござらんか!」
サイラスの素直な驚き具合に一同の口元が緩む。面々は互いに目で合図をすると、一斉に走り出した。
「そんな、オーガだなんて……」
「ああ、ギリー……」
夫婦とも床に這いつくばりながら狼狽している。
「面目ないでござる」
「いえ、今思えば葬儀の時、泣かないアイツに言ってました。お前は強い子だって。あの子の気持ちも考えずに……」
「それを言うなら私のせい。葬儀のバタバタであの子の心にまで気が回らなかった……」
「いや、やはり拙者が不甲斐なかったせいでござる……」
「と、とにかく! もうすぐ仲間がギリーの居所を突き止めてくれるはずだからさ」
「アルドさん。ギリーは、戻ってくるでしょうか……?」
「何言ってるんだよ。今は変な入れ知恵されて混乱してるだけさ」
「ですが……、泣けなかった事を後悔しているなら、むしろ泣けるようになる方法を考えないでしょうか?」
「うーん。だとすると他に理由があるってことか?」
「どうでござろうな。悲しい出来事と向き合うのは大人であっても容易ではござらん。周囲に心配かけまいと一人で抱え込んでいる内、自分を見失ってしまっても、人の心として不思議はないでござる」
不意にアルドの脳裏にエデン少年の姿が浮ぶ。途端に少し息苦しいような感覚に襲われた。今朝の夢の細部はすでに薄れつつあるが、残された染みのような印象が気道にへばり付いているようだ。
(そうだ、エデンも一人で――)
アルドは大きくかぶりを振った。今はギリーを助け出さなくてはならない。
「きっと大丈夫。オレたちがなんとしても連れ戻すよ。二人はギリーを信じて待っててくれ」
「アルドさん……」
そこに、勢いよく玄関のドアを開けてエイミとリィカが駆け込んできた。
「アルド! ギリーはおそらくセレナ海岸の難破船にいるわ!」
「わかった、行こう!」
「皆さん、待ってください」
「どうした?」
「私も付いていきます」
ギリーの父親は歯を食いしばるようにして、動作の一つ一つに時間を掛けながら体を起こしていく。
「いや、気持ちはわかるけど、その体じゃ」
「な、んの、これ、しきぃぃいいいい!!」
「お、おい」
雄叫びとともに一気に立ち上がった男は、そのまま走り出して玄関を飛び出していってしまう。
家の中にまで聞こえてくるその叫びは、遠ざかったと思いきやまたすぐに近づいてくる。
「ぃぃぃいいいいいいい!!」
家の中に戻ってくると、脇目もふらずに広間の奥へ消えてしまった。
手洗所のドア越しでくぐもった、嗚咽混じりの号泣が聞こえてくる。
「すみません。夫も悪気があるわけでは……」
「ああ、わかってるよ。不安だろうけど、オレたちに任せてくれ」
「ああ……。どうか、よろしくお願いします」
母親が涙を必死に堪えながら言う。その姿に決意を新たにした一行はギリーの元へと急ぐのだった。
◇
「あんた達、ここでいいのか?」
「ハイ。この難破船から臭気成分を検出しましたノデ」
船頭が横倒しになった難破船の帆柱に小舟を係留すると、アルド一行は躊躇なく乗り移っていく。
(まさか、また干し肉が役立つとは……)
港町リンデで出会った船頭は、難破船に近づいて座礁でもすると危険だからと難色を示していたのだが、例の干し肉を見るや態度を翻し捜索に協力してくれた。
ユニガンから臭いを追っていった結果、セレナ海岸の海側の崖で痕跡は途切れていた。しかしその場所から再び魔法で移動したと推理したエイミは、薬を作れる研究室が近くにあるはずと考えたらしい。
海を一望できるその崖上から見渡す中にそれらしい場所があるとすれば、確かに難破船しかない。
船頭が周辺の難破船の数や状態にも詳しかったお陰で、難なくローブの男の根城を突き止めることが出来たのだった。
最後まで捜索の船に乗るのを拒み続けた一匹の不機嫌な黒猫を除けば、すんなりと事が運んだと言っていい。
「じゃあすまないけど、しばらくここで待っていてくれ」
「ああ。日が暮れてもあんたらが戻らなかったら、ユニガンの騎士団に報告だな?」
「悪いな」
「なぁに。その間じっくり幻の干し肉を堪能させてもらうよ」
「それではご一同、気を引き締めていくでござるよ」
「事情は知らんが、気をつけるんだぞ」
船頭が真顔になって心配してくれている。一から説明をする時間が惜しかったので、この男に詳しい話は伝えていない。それでもアルドたちの只事ではないという空気を気取ったようだ。
船頭の言葉を背に受けながら、一行は難破船の中へと入っていく。
船内はところどころ浸水しており、そのうえ横倒しになっているため捜索できる場所は限られていた。
船の破損箇所から侵入してきたと思われる魔物たちを蹴散らしながら奥へと進んでいく。
「しっ! ねぇ、見てあの穴」
エイミが先の方の壁を指し示す。もともとは床だったそこには、人為的に開けられたと思われる穴が空いていた。
「間違いなさそうでござるな」
「怪しいニオイが高濃度で放出されてマス」
「ああ。下剤男の目的はわからないけど、とにかく倒してギリーと一緒に帰ろう」
アルドたちはできる限り気配を消しながら穴へと近づいていった。漏れてくる音が、次第に会話として聞き取れるようになっていく。
「さあ、出来たぞ。一気に飲み干すといい」
「……うん。うっ、くさっ!」
「どうした。約束を忘れたか?」
「わ、わかってるよ。人間にとって最も大事なのは約束を守ることなんだ!」
「ならば早くしろ」
「こんなの、鼻をつばべば――」
「待つんだギリー!」
アルドたちが穴の向こうの空間へ躍り出ると、まさにギリーが口元のコップを傾けようとするところであった。
「だ、誰っ!?」
突然飛び出してきたアルドたちに驚いたギリーは思わずコップを遠ざける。
「貴様ら!」
「礼儀に煩い貴殿に名乗らせてもらうとするでござる。拙者はサイラス。魔女の呪いでカエルの姿となった、流浪のサムライにござる!」
なぜかサイラスが名乗りをあげたので、アルドもなんとなく続かなくてはと、急いで荷物を降ろしながら名乗りだす。
「お、オレはアルド! わ、訳あって旅を――」
「うるさい! 聞くまでもないわ、この厄介者ども!」
「ん? オレたちを知ってるのか?」
「知ってるも何も。アルドもサイラスも気づいてなかったの?」
「あんな知り合いいたか?」
「むう。偉そうな口ぶりの輩などごまんとおったでござるからな」
「そもそも、オーガって時点で予想ぐらいつくじゃない」
「ふん。まともなのはそこの小娘だけのようだな、このポンコツども。そうとも、ワタシこそ由緒正しきハウザーガルスト家、七代目当主にして永代貴族――」
「オーガなんちゃらよ」
「ああ、いたな。オーガババンだっけ?」
「いやいやアルド、オーガニャオンでござる」
「どちらも違う! ワタシは――」
「皆さん、しっかりしてくだサイ。検出された魔力スペクトラムのパターンによると、この方の名称はオーガダヨーンですノデ!」
「バロンだ! オーガ、バロン!」
口角泡を飛ばしながら、男はローブを脱ぎ捨てた。仮面を付け杖を持った魔道士風のオーガの姿は、確かに度々アルドたちを煩わせたオーガバロンであった。
「貴様ら、わざとやってるだろ!」
「そのような事ハ、ありマセン」
「リィカのは流石にわざとでしょうに……」
そんなやり取りをキョロキョロしながら窺っていたギリーにアルドが呼びかける。
「ギリー! そんな薬は飲んじゃダメだ!」
「おっと子供、聞いただろう? ワタシ自身がオーガなのだ。その薬に間違いはないぞ?」
「ギリー殿、大事なのは涙が流れたかどうかではござらん。心がどれだけ悲しんだかでござる」
しかしギリーはコップを大事そうに抱え、液面を見つめたまま黙りこくっている。
「なぁギリー。本当に泣けなくて悩んでるのか?」
「え……?」
アルドの問いかけに、ギリーが驚いたような表情を見せた。どうやら図星だったらしい。
「本当の本当に、よく知りもしない怪物になりたいっていうのか?」
「それは……」
「悩んでいるなら、オレたちが力になる! だから――」
「そうかそうか! ならば子供、その薬をワタシに返すがいい」
「ちょっとバロン、どういうつもり?」
「どうもこうも。そっちのカエルに言ったはずだぞ。ワタシはあくまで善意だと。オーガになる気がないなら薬は必要ないだろう。勝手に苦しみ続けるがいい」
「丁度いいわ。ギリー、さっさと返しちゃいなさい」
「人間どももああ言っている。さあ返せ!」
バロンがギリーのコップに手を伸ばした次の瞬間、アルドたちは自らの目を疑った。ギリーが薬を飲み干してしまったのだ。
「ギリー!」
「う、ううう!」
手からコップを落としながら、胸を掻きむしるように苦しみだした。呻くように呼吸をする度、黒い靄が漏れ出している。
「なぜ……、なぜだギリー!」
「まったく、人間ってやつはわかりやすい!」
「なにをしたでござるか!」
「なにも。見ての通り、唯一の解決策を奪い取ろうとしただけさ。希望が奪われそうになると、貴様ら人間ときたら意地になって守ろうとするからな」
「四の五のうるさいのよっ!」
エイミがバロン目掛け、一気に間合いを詰め拳を打ち込む。手応えこそなかったものの、バロンを少年から引き離すことには成功した。
再び少年に近づけさせないよう、サイラスとアルドはすぐさま間に入って武器を構える。リィカはギリーの状態を確認し始めた。
「ギリー、しっかりしろ!」
「だい、じょ、……ぶ。これ、から、良いオーガぁぁぁあああ!!」
少年の全身から瘴気が湧き出し、纏わりついていく。その靄はみるみる皮膚を覆い尽くし、あっという間にギリーは黒く染まってしまった。
「バイタルが異常値を示していマス。生体識別シグナルに変化アリ。オーガとのゲノム一致率、70%、72%」
「バロン! ギリーを元に戻せ!」
「馬鹿を言うな。さんざん忍耐を重ねて、ようやく手にした手駒だぞ」
「手駒?」
「こう優雅に見えても忙しい身でな。我が計画の為には様々な実験を繰り返さねばならん。だが貴様らのせいで、まともなオーガはもはやワタシだけ。効率が悪すぎてな」
「それとギリーと何の関係があるんだ?」
「フフフ、それがワタシの非凡さだよ。オーガが馬鹿で使えないなら、頭のまともな奴をオーガに変えてしまえばいい」
「まさか、井戸に混ぜた下剤は――」
「ワタシの傑作を下剤呼ばわりするな!」
「街中にばらまいて、根こそぎオーガに変えるつもりでござったのか」
「ああそうとも。だが忌々しいことに、人間どもはどいつも腹を下すばかり」
「なにが傑作よ、失敗してるじゃない」
「違うわ! オーガに変身するには本人に強い負の感情が必要だっただけだ。その証拠に、小僧だけは腹をくださなかっただろう?」
「……ぼ、ぐは、……やざ、じぃ」
もはやギリーの声は、野獣のような野太く嗄れたものに変わってしまっている。
「ギリー、気を確かに持つんだ!」
「オーガとの一致率、88%、90%」
尚も噴き出し続ける黒い靄がギリーを完全に覆い尽くした。もはや黒い球体となっている。
「ヒャッハッハ! こいつを見つけたときの興奮といったら!」
「くっ、バロン。例えオーガになっても、ギリーはお前の言うことなんて聞かないぞ!」
「ふんっ。その程度、想定していないとでも? 第一、すっかりオーガに変われば、人間だった頃の記憶など綺麗サッパリだしな」
「ぞ……、ん゛な……」
突如、黒い塊がドクンと拍動した。急速に禍々しい雰囲気を強め、ギリーだったそれが宙に浮き出す。
「くそっ、何か止める手はないのか」
「さあ来い、ワタシの第一助手よ!」
心臓が鼓動を早めるように、空間を打ち揺らす波動の間隔が狭まっていく。破裂するかと思うほど激しく脈打ち、そして止まった。
「一致率、100%……」
にわかに訪れた静けさの中にリィカの悲しげな声が虚しく響く。
刹那、塊から黒いなにかが閃光のように放たれ室内に満ちた。やがて奪われた視界が再び戻ってくると、そこには巨躯のオーガが紛れもなく存在していた。
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