第5話 緋色の剣士

 ――さて。


 左手は鞘に、右手は脇へ垂らしたまま。魔王は眼前に立つ候補生を眺めた。緋色の髪と深紅の瞳をした、可憐な少女。この容姿だけで、ルナ・クリンゲル=バウムと名乗った彼女の正体は想像に難くない。


「サキュバスか。純血ではないな」


「父は人間でした」


 短く応じる、ルナ。つまり魔王の推察は当たっていた。


 女性ならばサキュバス、男性ならばインキュバス。もしくは総称として夢魔と呼ばれる種族は、魔族の中でも特異かつ極少数の存在だ。彼等は生まれ持ったこの深紅の瞳によって、人間の心を操れる。相手を恐怖に陥れることも、はたまた魅了し傀儡と成すことさえ自由自在。


「手段は選ばない。そういう顔をしているな。私は構わんぞ。魔法でもスキルでも、好きなものを使え。ただし頼りすぎないことだ。私に幻惑魔法は通じない」


 深紅の瞳を初めとする魔法の総称だ。


 オークが戦線をこじ開けるための尖兵であるなら、サキュバスは破壊工作のため生み出されたのだという。敵軍へと潜入、攪乱し混乱を引き起こすための夢魔。人心を掌握して情報を盗み、幻を見せて同士討ちを誘う。


 つまりはサキュバスにとって最大の武器。紅の虹彩を宿すほど、母親の血が濃い少女なのだ。仕掛けてくるとすれば、ルナはそこに勝算があると考えるのが妥当。


 魔王でさえ、そう予想した。


「……生憎、あたしは魔法なんて使わない。幻惑魔法の類は特にね」


「ほう? なぜだ?」


「答える義務が?」


「いいや、ない」


 魔王があっさりとかぶりを振ると、ルナは刀を構えた。


 ――素人ではないな。


 刀は、そもそもがマイナーな武器だ。魔族帝国でも青羽の王国でも、剣として主流なのは両刃のロングソード。扱いやすさがどうというより、製造方法やコストの問題による。この辺りは鉄資源に恵まれているため、わざわざ製法の複雑な刀を大量生産する理由がない。


 そうすると必然的に遣い手もいなくなる。実際、刀を用いた戦い方は、この軍士官学校でも教えていないのだ。


 所有者ならば、幾人かいるかもしれない。酔狂なコレクターが。ただし普段から刀を用いる剣士となると、魔族帝国ではおそらくたった一人だけ。これが今までの魔王の見解であり、だからこそルナの佇まいには目を見張るものがある。


 右足を手前に、左足を半歩退き。左手を軸として下にやり、右手は添える形で鍔の真下へやった形。切っ先はまっすぐ、こちらを向いている。


 一瞥してわかるほど、少女の構えは堂に入っていた。


 ――正眼?


 おそろしく古い記憶が、ルナが取った構えの呼称を胸の奥底に囁かせる。


 ――これは一刀流……小野派に似てはいるが、どうだったか。


 それは声に出していたとして、誰にも理解できない独り言だ。もう思い出すのも難しいほど、ずっとずっと古い色褪せた記憶である。刀を扱う上で基本となるよく似た構えを、魔王だけが知っていた。


 ただ、やはり似ているというだけで微妙に違う。気迫とでも言うだろうか。その構えから如何なる手段で斬るのか。相対して初めてわかる気配が、記憶の中の流派と噛み合わない。


 いや、わかっている。噛み合う方がおかしいのだ。しかし、それにしては……。


「あたしは剣で戦うと誓った。剣で、あんたを斬ると心に決めた。この目を使うのは、あたしの生き方に似合わない」


 小細工は無用。ただ斬り伏せる。ルナは断言した。律儀な娘だ、などと茶化せない。彼女の言葉を借りるなら、まさしくこの生き方が似合うからだろう。


「抜け、魔王」


「いいや」


 魔王は言う。左足を僅かに退いた、半身の姿勢で。やはり刀を抜こうとはせず、だがきっぱりと告げた。


「私は、もう構えているぞ」


「……」


 ひょっとすれば当人たちより、観衆こそが緊張していたに違いない。魔王が太刀を抜く。魔物ならばともかく、人間相手に。それも若輩の小娘に対して。


 これは脅しでなかった。納刀したままの佇む姿に、一点の迷いもない。いざルナが斬り込んできた瞬間、それより速く両断するという意志があった。これが別の候補生であれば、いや並みの剣士であれば物怖じしたに違いない。


 ルナ・クリンゲル=バウムは数少ない例外だった。


 ――そろそろか。


 流れておきながら張り詰める空気の、微妙な差異を魔王が読み取る。攻めてくる。斬り込んで来る。


 あの正眼から繰り出すならば、おそらく刺突。狙うは喉、胸、あるいは刀身を傾けて肋骨の間を貫くか。ともかく少女は向かってくると確信し――その瞬間が訪れる。


 地を蹴る左足。華奢な体躯からは想像できない、一息に間合いを詰める踏み込みによって、ルナは太刀の範囲に魔王を収めた。急制動をかけるのは右足。生じた運動エネルギーが、肩甲骨を介し少女の両腕めがけて流れ込む。


 ――来る!


 放たれるは、やはり突き。魔王の中で対応はすでに決していた。渾身の一撃ならば相応の隙が生じる。そこにつけ込む。ルナが繰り出した刹那、身を躱して懐へと潜り込み、鳩尾めがけて柄頭を叩き込む。


 抜刀の必要すらない。そもそも、こうまで手の内が読めてしまうならば、ルナの実力はやはり年相応であると考えた。戦い方こそ心得てはいるものの、熟練の遣い手ではないと。


 そして喉元を狙って迫る切っ先に、魔王は瞬時に半歩を動いて回避し――否!


「――!」


 避けた先で抱く、刹那の驚嘆。動揺。同時に魔王の指が鯉口を切り、反射的に伸ばした右手が、収められたままだった太刀を引き抜く。


 弾く、斬り上げた一閃。風切り音は、刀身の軌跡より遅れて鳴った。そして間髪入れず、大上段より切り返しの二撃が、無防備となったルナにめがけて放たれた。


「ふうっ――!」


 少女が腹腔を絞る。弾かれたままの体勢。崩れかけたはずの姿勢のまま、斬りかかってくる太刀の、側面を叩くようにして同じく上段から放って魔王の軌道を書き換えた。そしてどうやら、この受け流しは離脱も含むらしい。捌くと同時に跳び退がったルナは、仕掛ける前と寸分違わぬ間合いで再び正眼の構えを取った。


 一連の攻防は一秒弱。すなわち瞬きする間に繰り広げられた。魔王の剣技も当然として、ヘルマンや王国から来た来賓を始め、観衆はルナにこそ息を呑む。


 魔王は見誤っていた。ルナは尋常ならざる練達。言い訳のしようが、あるにはある。魔族帝国軍が軍の名に恥じない規模となって以来、対人戦の機会は久しく薄れていたから。もうずっと、領内で魔物の相手しかしていない。人と獣の相手はまるで違う。


 むろん、魔王自身はこんな事実を使わないだろう。こと剣に関して、彼女は何より誠実さを貫くさらに付け加えるなら、ルナの技量も実際に飛び抜けていた。どう考えても士官候補生の腕ではない。想定を狂わされながら、瞬時に反撃へ転じた魔王も魔王だが。年端もいかない小娘が、そこまで追い込んだということになる。


 しかし下段の形を取った魔王の胸裏には、自身の不甲斐なさを嘆くより先に、より大きな困惑が満ちていた。


 ――なんだ、今のは……?


 踏み込みから繰り出された、最初の一撃。魔王は、あれを刺突だと思った。ルナも、あれを刺突として放ってきた。こちらに向かってくる切っ先を、魔王の目は確かに見切っていたはずだった。


 されど少女の剣は突きでなく、真一文字の斬撃。薙ぐような太刀筋でこちらの首を追ってきた。


 ――突いた後で切り替えた? いいや、突いたままで変化した?


 ざわめく心中にロジックを反芻する。ルナの初太刀は魔王を向いているようで、実際には右へと逸れた。間髪入れず、間合いに入ると同時に左手で無理やり斬撃のベクトルを変え、喉首を裂く一閃と変えたのだ。


 そういう技であるのだろう。あえて手の内を悟らせ、あえて反撃を誘った上で、予想のことごとくを裏切る太刀。


 小手先の騙し討ち? いいや、見抜けなかった者の未熟。乗せられた者の稚拙だ。――魔王は、分析の傍らでこう戒めた。そして自戒と共に、よもやと疑う。


「もう一度、名を教えてくれ」


 構えを解きながら、少女へ言った。


「忘れたとでも?」


「覚えている。だが改めて、直接聞いておきたい」


 真摯な響き。単に剣士というだけではない。同じ得物で、異なる戦い方をする存在としての、敬意のような感情が魔王の言葉には秘められていた。


 少女もこれを感じ取り、だから正眼のままで静かに告げる。


「……ルナ・クリンゲル=バウム」


「出身はザイツか?」


「ええ」


 首都パッヘルベルから遥か南西の山岳部にある、小さな集落。夢魔の大半はその村で生まれ、俗世に関わらず生活している。


「師は誰だ?」


 淡々と訊く。ルナの戦い方には、明らかにひとつの流派特有の法則があった。もしも彼女が戦闘の天才だとして、今しがたのような立ち回りは出来ない。我流には不可能。長年かけて編纂された、武術の理論がそこにはある。


 これが魔王には気になった。この少女を鍛えたのは何者で、その存在が何処から来たのかを。


「……私の父」


 至極ありふれたように聞こえる返答。だが、


「人間だな?」


「ええ。人間だった」


 微妙な表現。魔王は片眉をひそめる。過去形で語られた理由は、ひとつしかない。


「戦が原因か?」


「……病死よ。去年の中頃、静かに逝った。五〇の半ばだったわ」


 魔族帝国における人間の平均寿命は、およそ四〇年から五〇年だと言われる。魔力によって突如として現れる流行り病は珍しくなく、そうした突然変異の病原体は首都の医療機関でさえ把握しきれていない。


 それでもパッヘルベルや、いくつかある主要都市の周辺であれば、もう幾ばくかの余命を与えられただろう。辺境の集落ではそうもいかない。陸路であれ空路であれ、魔物の脅威によってかろうじて道がある程度の村は少なくなかった。


 ザイツは、まさにそうした集落のひとつだ。医療の知識も人手も足りていない村。そこで五〇代まで生きたのなら、むしろ長寿と呼べただろう。


 だが、それでも……。


「残念だ」


 顔を合わせたこともない、ルナの父親であり師であった男の逝去を、魔王は心の底から悔やむ。彼女が生きてきた時間からすれば、一日に等しい五〇余年。もう少し早く、こういう剣を扱う者に出会いたかったと思わずにはいられない。


「……感謝します、陛下。その点だけは」


「ならば教えてほしい。ルナ・クリンゲル=バウム、お前はなぜ私を斬りたい? なんのために、その刀を私に向ける?」


「あんたがしたことのためよ」


 父の死は不完全なインフラに原因があり、ひいては王としての在り方が殺したとでも言うのか。いいや、そんな逆恨みな理屈を論ずる雰囲気ではないし、そうであれば哀悼に対して礼節で返しはしなかっただろう。


 とすれば、やはりわからない。


「悪いが思い当たる節はない。別段、私は夢魔を虐げた覚えもなければ、恨みを抱いたこともないのだ。第一、私を斬るとは言うが、私は私自身にすら殺せないのだぞ」


 構えを解き、魔王は率直に述べた。終わる気配のない生涯。一時期は何度も幕を引こうと試みた。あらゆる手段の自害を行ない、全てが無意味だったのは言わずもがな。


 どうやっても死は訪れない。


 だから極端な話、この立ち合いも律儀に行なう必要はなかった。首を刎ねられたところで、どうせ死なない。今これを良しとしないのは剣士の矜持。こうだと規定する自分まで捨ててしまったら、彼女は歩く屍に等しい有り様となっただろう。


 すると、


「ふざけるな……!」


 ただならない怒気が少女を満たす。


「あんたのせいで、私たち夢魔がどうなったか……! 知るつもりすらなかったんでしょ!?」


「……お前」


 一瞬、魔王の脳裏にある法がよぎった。事の始まりは一千年前、建国から間もない頃。二度目の衰退戦争を引き起こさないため、諸外国にも誓わせた盟約がある。青羽の王国のような友好国だけではない。これに関してだけは、神聖帝国のような敵国ですらも賛同し、未だに守り続けていた。


 そしてくだんの法は、確かに夢魔も関わっている。だが、だからといって現代のサキュバスが影響を受けるとは思えない。


 もしくは、このルナ・クリンゲル=バウムという少女は……。


「やめておけ。封を解くつもりならば――」


「言論と表現の自由!」


「――え?」


 人知れず魔王の内側に燃えた殺意が、しかし言い終わる前に消失する。意表を突かれた間抜けの顔。目をパチクリさせる魔王へ、少女は再び切っ先を向けて声高に叫ぶ。


「言論ならびに、その他一切の表現形式の自由を保証する! この国が出来た時、あんたが最初に定めた法のひとつよ!」


「あ、ああ、うん……そうだな」


 懸念は外れていたらしい。だが、そうするといよいよ話が見えなくなる。


 ルナの言う法は、確かに魔王が作ったものだ。正確には建国当初でなく、評議会設立を決めた頃。人民が自らの統治者を選び出す、いわゆる民主主義を求めるのならこれは欠かせない。誰もが自由に政治というものを精査し、時には支持して時には批判するための法。これなくて民主国家は語れまい。


 いったいルナは何が不満だというのか。困惑してヘルマンたちを一瞥するも、彼等でさえ首を傾げる。唯一、ジェレミーだけはいつも通りの微笑だが。


「覚えてるのね……! だったら、もう何が言いたいかわかるでしょ!」


「い、いや、わからな――」


「わかれよ! あたしたちサキュバスはね、あんたが作ったこのふざけた法律のせいで――年中発情期のエロ魔族だって思われてんのよッ!」


 怒号が晴天に響き渡った。魔王の鼓膜にも、延々とこだまする。そして誰もが言葉を失った。


 ヘルマンも、フレスベルグも。タウンゼントやジェレミー、集まった士官学校の若者や教官まで。誰も何も言えなくなる。


 ようやく、このまま三分ほども経った頃。


「……そ、そうなの?」


 魔王がなんとか絞り出した。


「そうよ! あたしたちの、この紅い目! 幻惑魔法に特化した、この目とあんたの法のおかげでね! 他の種族の男と話せば、淫乱だとかなんとか言われて! 迷子の子供を助ければ、性癖が歪むだなんだって難癖つけられてッ! 極めつけは、あんたの法が後ろ盾になってる、自由文学会議とかいう馬鹿騒ぎよ!」


 年に一度。パッヘルベルを含む要塞都市のどれかで開催される、大規模な文芸発表会。事前の申請さえ通れば誰もが作者として出展できる、文学者たちの憩いの場。――と言えば堅苦しそうだが、実態はお祭りだ。


 偏屈な研究者が長年かけて仕上げた論文があれば、アマチュア作家の娯楽小説まで。これを目当てに周辺諸国から数百万人が毎年訪れ、そうなれば当然、即席の宿や出店も無数に立ち並ぶ。そんな一大観光事業である。


「あ、あれは単なるフリーマーケットでは――」


「ええ、そうよ! そうですとも! あれが始まってすぐ、どこぞの官能作家が! あたしたちを題材にしたエロ小説を、百万部も売らなければねッ! おかげでどいつもこいつも、夢魔はみんな色情魔だとか! 緋色の髪の魔族はエロいとか! 言いたい放題書いてやがるのよッ! 今じゃ老若男女問わず、あたしたちは漏れなくエロ一族扱いなんだから!」


 悲痛な訴え。と、


「あ。僕も持ってますね、そういえば」


「ジェレミー!?」


「お黙りください、殿下!」


 しれっと言い放った王子に、タウンゼントの一喝が魔王の驚愕と重なった。


 この子、そういうの読むんだ。知らなかった。というか、出来れば知りたくなかった。なんで平然とカミングアウトして来れるんだろう。――幼少期から知っている隣国の王太子の、新たな一面には見なかったふりで魔王は言う。


「だ、だが、いくらなんでも盛りすぎだろう……? 全員が全員、夢魔をそう思っているとは限らないではないか! ――なあ、皆! そうだろ!?」


 候補生たちの賛同が返る。――かと思いきや、


「え……? おい、どうした……? お前たち、なんでそんな目を逸らして……」


 気まずい顔に一人の例外もない。すでに暴露したジェレミーは別だが。


「ヘ、ヘルマン!? なぜお前まで黙るのだ!?」


「は!? え、いや、陛下! じ、自分はこうした問題には疎く……!」


 しどろもどろになって口ごもる。猛将の名が泣いていた。


「わかったでしょ。これが世間一般から見た、あたしたち夢魔のイメージよ。でも、それも今日で終わらせる……! 魔王ッ!」


「!」


 信念を秘める声が、戦いの空気を蘇らせた。


「あたしはあんたを斬る! あんたが死んでも死ななくても、そんなのはどっちでもいい! あんたから剣で勝ちをもぎ取って、このふざけた風評被害を終わらせること! それが母さんの願いだった! 今日この場で、父さんの技で! あたしがその願いを実現させるッ!」


「……」


 魔法は絶対に使わない。最初にルナの告げた言葉の意味が、やっとわかった。これはルナにとって、いわば両親の弔い合戦なのだ。若くして魔王と渡り合うほどの剣技。ここで深紅の瞳に頼ったら、どれほど積み重ねたかも知れない修練を裏切ることになる。


 この少女もまた、己を剣士であると規定していた。


「なるほど。まあその……些か戸惑いはしたが、わかった。ルナ・クリンゲル=バウム、お前は種族の誇りのため、私に挑むのだな。ならば私に敗れたその時、お前はどうする?」


「好きにすればいい。首都に来たのも、軍に入ったのも全部このためなんだから。戻れるとは思わない。あんたに剣を向けたのが許せないなら、あたしの首を刎ねればいいわ。こっちの覚悟はもう出来てる……!」


「そうか。では命を賭して挑むがいい。私にしてみれば、私もお前も一介の剣士に過ぎんのだ」


 どちらからともなく刀を構える。互いに上段、なれど異なる。


 魔王は顔の右側、水平に太刀を置いた姿勢。僅かに前へ出た右足が屈折しているものの、一見すると直立に映る。


 一方、ルナのそれは頭上で斜めに振りかぶった大上段。重心を低く、腰の据わった状態。この体勢からの一太刀ならば、骨ごと容易に首を落とせるに違いない。


 両者共に間合いにはまだ遠い。踏み込むべき好機を窺って、眼差しばかりが静寂にぶつかる。


 刹那――!


 鬼気をまとってルナが斬り込む。一歩、二歩。猛然と地を蹴って進み、次の三歩目で魔王の身体を間合いに収める。狙いは首か、それとも胴か。


「ッ!」


 迫るルナの足が、僅かに手前で急制動をかけたのを魔王は見逃さない。振り落とされる一太刀。狙うのは急所でなく左腕。


 手首を落としにきた。


 確信と共にこちらも振るう。硬質の音色。刀身の厚みを利用し、ルナの初太刀を狂わす。だが少女は逸らされた剣を巻き込むようにして巧みに引き寄せ、次の一瞬には刺突の姿勢を取っていた。


 ――二撃か!


 一撃必殺の太刀ではない。防がれようと避けられようと、元より本命は刺突にあったらしい。


 紙一重。魔王が下方へと逃れ、そのままルナの後方に抜ける。肩甲骨のうねりを利用し、瞬時に腰を落とす体捌き。反転して向き直るや否や、再度の上段を取って少女に斬りかかった。


 だが、


「はぁ……!」


 直後に相対したルナは、上方からの白刃に合わせ大きく右半身を退く。鋭い風切り音。間一髪で逃れた少女の、左足は伸ばしきり、それでもなお身体の軸にブレがない。


 いやそれどころか、またしても引き寄せられた切っ先が反撃の準備を整えている。


「っ――ぜいッ!」


 腹の底から放たれる気合い。短く鋭い呼気が、少女の太刀筋に等しい。放たれた突きを、魔王は切り返したひと振りで弾いたはずだった。


 ――まだ来る!


 渾身の力を乗せた突き。いいや違う。弾かれもなおルナは魔王へと向かい、今度は左半身へと太刀を引いている。


 二段突き。違う!


 ――三段突き……!?


 第二の突きを間際で防いだ矢先、今度は中央で構えている少女の姿に魔王も悟った。初撃で体勢を崩し、二撃目で防御を崩し、第三撃で身体を貫く。


「おぉッ!」


 逃れられない最後の刺突に、魔王が同じ技によって迎え討つ。すなわち突き。両者の刃が交錯し、しかしそれでも一瞬早く魔王の方が貫かれるかに見えた。


「!?」


 驚愕はルナから。その時すでに、彼女の手は愛刀を失っている。風鳴すら遅れる第三の必殺剣。一方で魔王が放ったものは、斬り伏せるための太刀でなかった。


 少女の剣へと絡ませるように合流し、一息に巻き込んで弾き飛ばす不殺の剣技。宙を舞ったルナの刀が、甲高く響いて大地に突き立った頃、得物を失った喉元へと魔王は刃先をあてがった。


 勝敗は決した。人の身を外れた幾年月により磨かれた剣技に、ルナの剣は届かない。


「っ……斬れッ!」


「否! だが問う! ルナ・クリンゲル=バウム、お前の志願は!?」


 有無を言わせぬ口調。死を望んだ少女は、今更になって反論の余地なく、苦渋の中で問いに応じた。


「第一……猟兵旅団……ッ!」


 士官学校へ入った際、心に決めておく卒業後の配属先。研鑽を積みながら標的を待つ場として、ここは最適の環境だったに違いない。ならば魔王を斬るためだけと告げた少女は、その実、次のステージも目指しているはずだと。彼女の本心でなく技量が語った。


 そしてやはりルナが口にした名は、ヘルマンが最精鋭として語った部隊である。


「見果てぬ海の向こうを見るか、竜を斬るのが本望か」


 魔族帝国軍、第一猟兵旅団。れっきとした軍の部隊でありながら、特殊な任務内容を抱えている。別名を第一遠征旅団。すなわち魔族帝国領内でなく友好国の要請によって各地に赴き、治安維持のため怪物相手の戦いを行なう、魔物狩りのエリートたち。


 現在、彼等は北に広がる海を越え、竜の討伐を行なっている。航空戦力として飼い慣らされている、ワイバーンのような小型種ではない。一体で小国を滅ぼしかねない、超弩級のドラゴンである。


「どちらもだ……! それがどうした、魔王!?」


「その将来は諦めろ」


 魔王が刃を振るった。鋭い風切り音。斬られる、と。思わず目を閉じたルナの前で、しかし処断の太刀は血を求めることなく鞘へと回帰した。


「なっ……! 魔王、どういう――」


「竜へ食わすには惜しい!」


 踵を返した魔王の背が、黒衣をはためかせて言い放つ。


「荷物をまとめろ、ルナ・クリンゲル=バウム! 今この時より、お前は近衛連隊に配属された!」


 断言した魔王の背後で、ルナはただ愕然と呆気に取られた。


 いや少女のみならず、居合わせた全員だ。彼女を斬ろうとした者が、彼女の直属たる精鋭部隊に配属されるなど、命じた本人以外の誰に予想できるわけがない。


「へ、陛下!? いくら陛下と言えども、その命令は――」


「望む部隊に入れると断言したのは、お前だろう、ヘルマン将軍」


「ですが、そ、それは勝った場合の話で――」


「私が勝った! 私はあの剣士が欲しい! 以上だ! 後の処置は任す!」


 ぴしゃりと言ってのける。この姿をシュナーベル教授が見たら、どう評したか想像は容易い。統治者の才能は無いと言いながら、決断力と行動力、何より反論を許さない語調は王の姿そのものだ。


「さすがですね、陛下は。ご満足されましたか?」


 問いかけるのはジェレミー。


「見事だった!」


「それはなにより」


 隣国の王太子は楽しげに微笑み、観衆へと一礼を残すと魔王の後を追う。ややしてもう二人、大使と青羽の猛将が続くと、残されたヘルマンは呆然と周囲を見回して――取り残された少女と目が合った。


 どうすりゃいいの? ――問いかけてくる候補生、いや元候補生に対して、百戦錬磨のオークはわからんと首を振る以外の返答を持っていない。

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