第16話 呪う(まじなう)

「この子がどんなに苦しみ、もがいても、決して声をかけたり手を出したりしてはいけないのよ」

 ごくりと固唾をのみ、ドーレマは頷く。

〈そんなことわかってるさ、おばちゃん。私だって呪術師の端くれなんだから〉

 夢を見ている人に外部から刺激を与えると、脳の波長が干渉を受けることくらい、呪術師じゃなくても知っている。

  

 部屋を暗くしてロウソクを一本灯し、デューンを寝かせ、ヘーメラさんは指を堅く組み、予言の夢見の呪文を唱え始める。

 まもなく呪文が効き始め、デューンは眠りに落ちた。

 デューンの顔からさーっと血の気が引き、このまま死んでしまうのではないかと怖くなる。場合によっては命の危険すら伴なう恐ろしい呪術、と聞いていた。ほんとにそうなのかもしれない。どうしよう・・・。ドーレマはさっそく後悔するが、もう引き返せない。


 長い呪文が止んだ。死人のような青白い顔で眠るデューンの、微かな胸の動きから、生きて呼吸していることを確かめる。

 やがて、デューンの眉間に苦悶のしるしが差し、呼吸が荒くなってきた。口が開き、何か言おうとしているのか、言葉にならない息だけが洩れる。もともと掠れ気味な声が、さらに掠れた息で喘ぎ続ける。

 額に汗がにじみ、閉じた目から涙が伝う。呼吸はますます不規則になり、叫びを噛み殺しながら拷問に耐える人のように悪夢に苦しむデューン・・・。


 耐えられないほど長い時間のように感じられた。

 ついにドーレマは気分が悪くなり、逃げ出したくなった。涙と鼻水が垂れてくるが、洟をすする音も立ててはならない。

 ヘーメラさんは同情の眼差しをドーレマに向けるが、退席が許される雰囲気ではない。『見ておきなさい』と、言葉で言う代わりに空気を呪縛している。


 これ以上悪夢が続いたら死ぬ、というギリギリのタイミングで、ヘーメラさんは最後の呪文を唱えて指でパチンとしるしを結び、魂を夢から引き戻した。

 ヘーメラさんから指示されてドーレマがデューンに酸素吸入器をあてがう。思いのほか時間がかかったけれど、呼吸が徐々に鎮まっていき、それから、デューンは事切れるように脱力した。夢からは戻ったが意識は戻っていない。気絶した状態だ。


 ヘーメラさんもふうーっと息を吐き、

「はいー、お疲れさまぁ」

 ケロリと微笑み、持参していたスポーツドリンクをぐびっと一口飲んだ。

「汗、拭いてあげてね」

 え? おばちゃん、切り替え早っ。一世一代のこのまじない、呪術師のほうにも少なからずダメージを与えるものだと思っていた。一万メートル走ったくらいぐったり疲れるのかと思いきや、トラック一周軽くジョグした程度の爽やかさだ。


「目が覚めたら、まず水を飲ませて、それから、なにか美味しいものでも食べさせてあげましょう。この子の好きなものを作ってあげてね」

 と、おばちゃん、いやヘーメラさんは言う。

〈なにを作ってあげようかな? 私だったら、疲れたらまず、甘いものかな? デューンの好きなもの、って・・・〉

 ・・・・・・・・・・なんだっけ?


 で、気がついた。

「デューン、マイルド・ブリザリアンだった・・・」

 ごはんは食べても食べなくてもどちらでもよい。生存に必要な最低限の食糧しか口にしない。あれが食いたい、これが食いたい、あれが美味うまかった・・・そういうものがない。なんてこった・・・

 デューンの歯が白くてきれいだなぁっていつも思ってたけど、それは食べ物を口に入れる回数の絶対値が低いからだ。いまごろ気づくなんて・・・。おとなしくて口数も少ないし、およそ〈くち〉を使う営みというものが圧倒的に少ない人だ。ってことは、歯ぐきの鍛え方も足りないんじゃないだろうか? 若くして総入れ歯になっちゃったら嫌だな・・・


 でも、ひとつだけ、デューンに『うまい』と言わせたものがあったぞ。毎年ユキちゃんがテッラから送ってくれる新茶。パッケージに書いてある説明どおりに淹れると、ほんとに美味しい。いちどその深蒸し煎茶を一緒に飲んだとき、デューンが『はぁーうまい』って、ぽつんと呟いたことをドーレマは思い出した。よく思い出した。えらい!

 デューンが目覚めたら、煎茶を淹れて飲ませてあげよう!


 ヘーメラさんは、報酬のバラの花束を大喜びで抱え、迎えに来たダンナさまのオープンカーにひょいと跳び乗って、

「じゃっ」

 と手を振り、帰って行かれた。ブライダルカーのカランコロンをくっつけてあげたい軽快さだ。あれ、どうやって結ぶんだろう?



 それから一時間あまり死んだように眠り、デューンは目を覚ました。

 だけど、虚ろな目つきで、口もきけなかった。デューンのほうが一万メートル走りきったみたいに疲れていた。

 ドーレマが丁寧に美味しく淹れた煎茶も、少しすすってさすがに美味しそうな表情がちらりと見えたけど、飲み込むのが辛そうだった。トイレへも這って行かなくてはならないほど、足腰も立たなかった。熱も出てきた。


 家へ帰せる状態ではなさそうだから、今日はこの部屋で休んでもらおう。

 ドーレマはグル・クリュソワに電話をかけ、デューンが疲れて足腰が立たなくなってるから今夜はうちにお泊りしてもらいます、と伝えると、グルは、

『それはそれはご苦労さま。こちらは大丈夫だから、楽しい夜を』

 と言った。なんか勘違いしてるかも?。


 その日は、消化の良いものですら食べられなかった。コップ一~二杯の水を、何回にも分けて飲み込むのがやっとだった。

 こんなに憔悴しきるくらい、怖い夢だったんだ。なんか可哀想だな。夢の内容は明日、もっと落ち着いてから聞こう。


 だがこのときふたりは、このまじないの本当の怖さがまだわかっていなかった。

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