打算の分割払い
西野 夏葉
第1話
息をするだけで鼻毛まで凍りつくような寒さだった北見と違い、札幌はいくぶんか温さすら感じるほどの気温差があった。朝七時二十分に北見を出て、札幌に着くのは正午を少し回る頃なのだから、何度同じバスに乗っても、北海道の広さを嫌でも感じさせられる。
光輝は大学を出て、北海道内ではよほどの阿呆でない限り、その名前が知られている地方銀行に勤めている。メガバンクと違って全国転勤こそないものの、地方に根差した銀行として売っている自分の銀行では、こんなところで支店を開いて川を遡上してきた鮭にでも金を貸すのか、と言いたくなるような田舎に飛ばされることもあった。
それを思えば、まだ数年前の異動が北見のような地方の中核都市で済んだ自分は、幸運と思うべきなのかもしれない。
札幌に妻の
***
そこまでを思い返して、札幌に着いたことを連絡しようと、光輝はコートのポケットからスマートフォンを取り出した。理香はLINEなどのSNSアプリを嫌っていたから、連絡は今も付き合っていた時と同じく、メールだった。メニューを開いてみると、未送信トレイに「1」の表示が残っている。
開いてみると、昨晩に「明日朝イチのバスで帰る」と書いて送信したはずのメールが置き去りにされていた。三年半前に買ったiPhoneは、認知症の進んだ老人のように、その役割のひとつひとつを放棄するようになってきている。場合によっては、北見に帰る前に最新機種にしてやろうと決めた。
高速バスを降り、大通駅で地下鉄に乗り換える。バスの中で聴いていたラジオでは、今日は札幌ドームで日本ハムファイターズのファンフェスティバルが行われるはずだが、なんとか席に腰を下ろすことができた。終点まで電車に揺られなければならない光輝にとっては
時折、窓の外を過ぎていく蛍光灯の白い光を目で追いながら、突然に帰ってきた夫を迎えた時の、理香の表情を想像する。大学三年生でゼミに所属してから、それなりにうまく付き合って、最終的に同じ戸籍に収まることとなった彼女は、いつも素直で、可愛らしかった。ゼミ中にレジュメの文字を追う凛々しい眼差しも、二人で抱き合う時の
北見での単身赴任は、もう二年半を過ぎた。よほどのポカをやらかさなければ、地方での「修業」が終わると、一度は札幌に帰されるはずである。ポカどころか、ノルマをこなしてある程度の成績を挙げている自分なら、それなりに安牌だろうと踏んでいた。
突然に現れても、夕食にご馳走は出て来ないはずだ。久々に「トリトン」の回転寿司でも食いに行くか……と軽い妄想をしていたら、無機質な自動アナウンスが、駅での降り口を告げ始めた。
日本ハムのレプリカユニフォームを着た一団に混じり、光輝はキャリーバッグを引いた。札幌ドームへの最寄り出口を出て、イトーヨーカドーを過ぎたところで、右へ入る。その枝道の先にあるマンションの一室が、光輝の住まいだった。
地上へのエスカレーターを三回乗り換えた。初めの頃はこのコンコースの深さに辟易したものだが、今ではこれも家への帰りを待ち遠しくさせるアトラクションにも思える。
ようやく地上の光が見えてきた。もう幾度となく通り過ぎた景色だったが、エスカレーターを降りて三歩ほど歩いたところで、光輝の足は衝突回避ブレーキが作動した車のように、急に止まった。
イトーヨーカドーの中から、ネギが顔をのぞかせたマイバッグを右腕に提げて出てきたのは、間違いなく理香だったが、問題はその左腕が、見知らぬ男の右腕に絡みついていたことだった。理香も男も、前だけを見つめていて、薄暗い地下鉄の出口で立ち尽くす光輝のことには気づいていない。そのまま二人は右に折れ、一歩、また一歩と、光輝から遠くなっていく。
後ろから舌打ちが聞こえた。男が光輝の横をすり抜けるように、肩を怒らせて歩いていく。レプリカユニフォームの背中には大きく選手名と背番号が躍っていた。逆転サヨナラ満塁ホームラン、という間抜けなフレーズが頭に浮かんでから、人の波にかき消えてゆく。光輝はだまって踵を返し、地面の下に沈んだ。
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