美里さんちのばんごはん
久乃
第1話 パワーカップルも楽じゃありません
『……このように、いわゆるパワーカップルは、これからの消費の牽引役として……』
カタカタとキーボードを叩きながら、美里は内心で苦笑する。
新卒で中規模シンクタンクに就職して10年。学生時代の専門知識を活かして消費動向や経済分析を中心に仕事に邁進し、五年前に同僚だった牧野壮介と結婚。美里は職場では旧姓の「辻橋」を名乗っている。壮介は今は仲間と共に独立してスタートアップ企業の役員をしており、夫の収入も不安定故に、また美里の方でもキャリアを諦めて家に入る選択肢はなく、娘の
「辻橋、そろそろ落ち着いたか?自分のことでもあるし、やり易いんじゃないか、このテーマ。」
そんな上司の言葉に促されて論考を進めてはいるものの、文章の上ではキラキラして見えるそれに、美里にはどうもそれが自分事とは思えないのだった。
パワーカップルとは、人により定義が異なるが、要は共働きでどちらも扶養範囲外まで働く、購買力の高い夫婦をいう。世帯年収1000万と定義付ける人も1500万という人もいるが、まぁ、ママもパパもそれなりにバリバリと働いて責任ある仕事につき、経済的にそこそこ余裕がある人たちを表すワードだ。
一応、牧野家は定義としてはパワーカップルの端くれには入るだろう。経済的にスーパーを梯子して底値の食材を探す必要はないし、普段手が回らない家事を片付けるために、月二回家事代行も入れている。三種の神器と呼ばれる、食洗機、ロボット掃除機、洗濯乾燥機もフル装備だ。分析しているパワーカップルそのものである。
(そりゃそうなんだけど、こんなキラキラ生活、送ってないわあ。)
美里は、分析を進めながらもそんなツッコミを内心で入れざるを得ない。底値の食材を探さないのはそんな時間もなくばたばたと買い物を済ますからでもあり、家事代行を入れるのは少しでも子供と過ごす時間を捻出するため。食洗機や洗濯乾燥機、ロボット掃除機だって、手間を減らさないと家事が回らないからだ。正直なところ、どれもまだまだ手作業でやったほうが隅々まで手が届く。
同じようにフルタイムで働くカップルにしても、一昔前に流行ったDINKSなら、駅近のタワーマンションに住み、高級な服に身を包んでワイングラスだかシャンパングラスだかを片手にカッペリーニだかピンチョスだかをデリバリーで頼み、間接照明に高級家具に囲まれて華やかな生活ができていたのかもしれない。
でも、それは子供がいないから成せる技だ。花菜はイヤイヤが通らなくて大泣きしたあと、涙も鼻水もそのままに美里の胸に飛び込んできたりする。愛おしくもいじらしくもあるから文句はないが、親のほうは汚れてもいい、ガシガシ洗える服しか着られない。授乳は終わったからお酒は飲めるけれど、まだ一人ではまともに食べられない美里の面倒を見ながらの嵐のような食卓では、ワイングラスやシャンパングラスなんて華奢なものは使えない。それ以前に食洗機で洗えないものは普段使いできない。落書きや事故が怖くて、高級家具や間接照明は夢の世界でもある。
(なんかこう、持て囃すには華が足りないのよねぇ、ウチ。)
こんな仕事を押し付けた上司にちょっと恨めしい目を向けつつ、粛々と作業に勤しむ美里なのであった。
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会社全体の定時は六時だが、お迎えの関係で美里は週4回、勤務時間を一時間ほど前倒しして五時に退社する。月曜日である今日も、美里は仕事を切り上げてドアに向かう。
花菜の通う認証保育所は六時半までの預かりだが、一時間ほどの移動時間を挟んで、一旦帰宅して簡単に家事をこなして向かうとなるとばたばただ。宅配ロッカーから宅配物を取り、洗濯物を取り込み、作りおきの料理を温める。ご飯は冷凍庫から花菜のぶんを出してチン。今日のメニューは、薄味にした肉じゃがに豆腐とネギの味噌汁。副菜まで手が回らないから、惣菜の煮豆とひじき煮を冷蔵庫から出して予め食卓に置いておく。これは味付けが濃いから大人用だ。
一歳半を過ぎて離乳食はそろそろ卒業しているが、生野菜や炒め物は親専用。まだまだ咀嚼の力が弱い花菜のために、しっかり煮るか蒸した野菜や柔らかいたんぱく質は欠かせない。
(今日は豆腐をしっかり食べてもらおう。)
豆腐好きな花菜の喜ぶ顔を想像して、美里は少し頬笑む。肉じゃがは言わずと知れた定番メニュー。小皿に花菜のために野菜を中心に取り分けて大きめにキッチンばさみで切る。大人の一口サイズではまだ大きすぎるのだ。
そういえば、肉じゃがについては、結婚当時ひと悶着あったことを思い出す。
最初に肉じゃがを作って出したら、壮介は美味しいけれど味も色も違うという。美里も自炊をはじめてからレシピ本などで調べて作れるようになったメニューでもあるし、昔から食べてきたものとくらべてもそんなに違和感はない。これが全国標準なんだろうと思い込んで「本にはこうあった!」と主張、あわや大喧嘩になりかけたものだ。
そんな話を九州出身の同僚にしたところ、
「えー、豚肉で作るの?うちは牛だけど……」
と言われてひどくびっくりした。曰く、九州では関東に比べて牛肉の値段が安く、すき焼きや肉じゃがに割と気軽に使うらしい。
「そういえば、カレーもこっちではチキンカレーとかポークカレーが多いよね?」
「えっ、ビーフカレーだけなの?」
「うん、あまり豚肉を食べないかも……」
壮介のところもそうなんじゃない?と言われて次に牛肉で作ったら、だいぶ近づいたと言う。
「作ってもらってなんでそんな上から目線なの?」
「いや、違うよ。美味いんだよ、美味いんだけど、俺の知ってる肉じゃがじゃないんだよ。味はだいぶ近いんだけど、こんな茶色かった?」
「牛肉にしたんだから色は濃くなるでしょ?」
「うーん。……母親に聞いてみる?」
「マザコンか。」
「いや、だって答えがでないの嫌じゃない?」
そんな会話の挙げ句、わかったのは薄口醤油の存在。結局、牧野家の肉じゃがは豚ときどき牛、味付けは関東の濃口醤油ということに落ち着いた。豚のほうが回数が多いのは単に、どっちもそこそこ美味しいなら豚のほうが経済的じゃない?というだけの理由だ。
今日の肉は牛の切り落とし。定価で買えば豚の三倍はするが、やはり壮介はどちらかと言えばこちらを好むようで、そのほころぶ顔が見たい美里は、せっせと行きつけの肉屋の特売情報を確認しては安くなる時を狙って牛肉の肉じゃがを作るのだ。
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家から徒歩10分の保育所に向かう。行きはよいよい帰りは怖い、とはこのことで、そのくらいの距離でも幼児連れで歩いて帰っていたら20分では効かない。よほどの大雨でも、往復は電動アシスト付きの子乗せ自転車だ。
本当は、晴れた日に、道端の草花や虫たちを愛でながら、ゆっくり子供のペースで歩いてやればいいのかもしれない。そんなことも思うものの、寝かしつけから逆算すればこの往復時間は一秒でも短くしたい。お腹が空いた子を思い通りに歩かせるのも難しく、美里は「一緒にお散歩は、休日にしっかりやろう」と割り切ることにしていた。
危なくない程度に怒濤の勢いで自転車を漕ぎ、6時28分にドアのカードキーをタッチ。保育室に駆け込む。
「牧野さんお帰りなさーい。花菜ちゃんお利口に待ってましたよー。」
いつもにこやかな遅番の先生にホッとしつつ、最後の二人になった子供らに目を向ける。花菜と一緒に残っていたのは、やはりいつも六時半ギリギリのお迎えが定刻の祐希くん。他にもお友だちはいるらしいが、美里はいまいち顔と名前が一致していない。
「花菜、ただいま!」
声をかけて手を広げると、花菜が胸のなかに飛び込んでくる。顔を擦り付けてくる花菜をぎゅっと抱き締めて頭をぐりぐりと撫でると、母親スイッチがオンに切り替わる。
「ママ!」
ママ、パパ、イヤ!、あっぱっま!がとりあえずいまの花菜の語彙だ。それだけでも割と意思は通じるもので、じゃあその他の言葉は何なのかと面白く思う。ちなみにあっぱっま!はお子様に大人気のパンのキャラクター。アニメは見せていないのに、どこからか発見してきてはときめいている。どこもかしこも真ん丸の顔の何がそんなに子供の心を掴むのだろうか。
一通り再会の儀式が終わると、花菜を連れてロッカーや壁際のフックなどを歩き回り、今日使った汚れ物の回収。おむつは園で捨ててくれる。子供を産むまではそれが当然と思っていたら、育休中に回った園見学では「おむつは持ちかえり」というところが結構あって驚いた。親御さんにも排せつ物を見て健康状態を判断してほしい、等というが、元気に走り回っている子の排せつ物を毎日確認する親がどれだけ居るだろう。却って「当園で廃棄すると処理料として◯円上乗せになりますので」と言ってもらったほうがすっきりするように思う。
あちらこちらに寄り道する花菜をなんとかコントロールしながら汚れ物を回収し、バッグに詰め込んでやっと帰宅だ。花菜に上着を着せ、先生ばいばーいをさせ、美里も挨拶して自転車に向かう。前かごがあるべき位置にあるフロントシートに乗せてシートベルト、ヘルメットを被せるのもスムーズに行かない日のほうが多い。
「かーな、ヘルメットはするんだよ。」
「いやっ!」
「ヘルメットしないと危ないでしょう?」
「いやっ!」
なんとかなだめ透かして準備完了。保育園でいい子にしている反動か、親にはイヤイヤを爆発させるのはどうにかならないか。とはいえ、どこの子にも見られるどころか、花菜は多少落ち着けば聞き分けはいいほうだ。家についたらしばらくぎゅっと抱き締めてやろう。
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玄関先で鍵を閉めてから改めて花菜と「らぶらぶタイム」をすごし、少し落ち着いた花菜を調子よく乗せて手を洗わせる。花菜のごはんやおかずはすでに取り分けられて30分以上。少し冷めすぎている頃合いだ。熱々のほうが美味しいのに、と残念な気もするが、熱いものはまだ食べられないのだから仕方ない。帰宅してから温めて取り分けていたら、いただきますが更に10分遅れる。
壮介からは、20分後に帰る、と先ほど連絡があった。
「かなー、パパ帰ってこれるって。」
「ぱぱ?」
嬉しそうに繰り返す花菜。三人揃ってのごはんは花菜も大好きだ。大人ぶんの肉じゃがと味噌汁を再度温め、花菜が待ちきれなくなるまえに自分のぶんだけ取り分ける。
食べこぼし用のエプロンをつけてやり、椅子に座らせる。
「いただきます。」
「◯★※!」
小さな手を合わせ、それらしき何事かを唱えると、花菜は満面の笑みでスプーンを片手に握り締め、一目散に小さく切られたにんじんに取り組んだ。産直のにんじんはえぐみがなくて甘く、花菜の大好物だ。子供に合わせて薄味にするようになって、初めて美里はこれまでいかに甘味を殺して料理してきたかに気づいた。砂糖、みりんと甘い調味料を使う美味さもあるが、素材の持つ本来の味はそれにもひけをとらないものがあった。
味噌汁を一口すすり、美里はほうっとため息をつく。最近買っただしのパックでは美味しいだしが取れず、ちゃんとしたものを買うまでの繋ぎに、乾物棚に半ば放置されていた昆布と鰹節で丁寧に出汁を取ったものだ。丁寧にと言ってもいちいち濾すような手間はかけておらず、昆布と鰹の厚削りを小鍋の水に突っ込んでそのまま加熱、完全に沸騰するまえに引っ張り出しただけ。料理のプロから見れば失笑レベルの手抜きなのだろうと想像するのだが、それでもこれだけの旨味が引き出されることに驚嘆する。味噌は最小限。ミルキーな豆腐に、そっと香りを添える程度だ。
「あっ、花菜だめっ!」
油断も隙もない。ご飯茶碗を引き寄せようと手を伸ばしたついでに味噌汁椀を引き倒しそうになった花菜に大きな声が出る。なんとか倒れるまえに救出できた。
「……!」
ほっとしたのもつかの間。見ると花菜が顔を歪め、今にも涙がこぼれそうにしている。
「……ごめん花菜。大きい声出して。……怒ってないよ。ごめんって。」
しばしの沈黙。さっきまでにこにこと頬張っていた子に何てことを、と思うのと同時に、倒れなくて良かったじゃない、とも思う。子育ては矛盾した感情の連続だ。
しばらく後に、うん、と何事かを納得した花菜は、機嫌を直して、ん!とご飯茶碗を指差す。
「はいはい。」
言いつつ横目で見ると、肉じゃがの皿は見事ににんじんだけがなくなって、茶色と白の地味なワントーンになっている。
「花菜ちゃん、ご飯のまえにじゃがいもと玉ねぎも少し食べようか。」
途端に嫌な顔をする花菜。口を引き結び、ぱたぱたと音がしそうな勢いで首を横に振る。
「にんじんさんも栄養たっぷりだけど、他のお野菜も食べなきゃ大きくなれないよ?」
「んーん!」
「一個だけ、小さいじゃがいも食べようか。ね。」
「……。」
ほんの一口、小指の先ほどのじゃがいもを見て観念したのか、花菜は目をつぶってあーんと口を開く。入れてやると、目を閉じたまま咀嚼して飲み込んだ。
「すごいじゃん花菜!ちゃんとじゃがいもも食べれるじゃない!」
ここぞとばかりにべた褒めすると、途端にどや顔を披露する花菜。可愛い。
「じゃ、もうひとつ食べる?」
調子に乗って聞いてみたが、それにはイヤイヤが返ってきた。ごはんを指差してん!ん!と主張する。
がちゃり、と音がして、「ただいまー」と壮介の声がした。子煩悩な彼は花菜にベタ惚れで、花菜もそれを分かるのか、ママと二人だけのときに比べてにこにこ顔が増える。複雑な思いになったことも一度や二度ではないが、きっと花菜には「遊んでくれるパパ」と「安心できるママ」なのだろう、と気づいてからは、あまり気にしなくなった。
満面の笑みになった花菜のところに急いで手を洗ってやってきて、壮介は花菜の夕食の介助を始める。美里は介助をバトンタッチして台所に立ち、まだ暖かい肉じゃがと味噌汁に軽く火を入れ、大人ぶんのご飯をチンしてそれぞれ取り分け、カウンター越しに壮介に渡す。
「なんか飲む?」
壮介も美里も、一杯くらい飲んだところで酔わない体質だ。二人いればなんとか自分の食事を楽しむ余裕ができるため、平日もたまに晩酌している。
「んー、今日はいいかな。」
「じゃ、ノンアルコールビール出すね。」
お茶じゃ味気ないと、ノンアルコールビールで乾杯する。バタバタではあるが、今日も笑顔で無事一日が終わる。何でもないことのようで、珠玉のように大切な日々。
美里は、少し冷えてしまった牛肉の肉じゃがに箸を伸ばしながら、ひそかに幸せを噛み締めるのだった。
***
認証保育所……東京都の独自基準により設置された保育所で、主に0才児から2才児までの保育を行う。認可保育所にくらべて一般的に自由度が高い、保育時間が長いなどのメリットがあるが、料金が高い、園庭がないか狭いなどのデメリットもある。
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