Speak of the devil

西野 夏葉

第1話でおわるよ。

 もう生きられない。

 どこか知らない、ここではないどこかへ行きたい。




 私生活も仕事もうまくいかなくて、今のおれは、つい数時間前から完全なるニートとなった。本日なんとか、鉛のような体を引きずって、最終出社を終えたところである。


 どれだけ憂鬱な気持ちになっても、頭がくらくらするような感覚をおぼえても、休まず仕事に行っていたことが、おれに最後に残ったちっぽけなプライドだった。

 そのプライドに今日、おれは自ら終止符を打ったことになる。

 

 そうしたら、自分になんらの価値も見いだせなくなってしまったのだ。

 生きている意味さえ、見えてこない。

 まるで迷い子のように、おれは街を彷徨っていた。



 いっそ、死んでしまおうか。



 そうだそうしよう。どこまでも高く、どこまでも深く、どこまでも遠い場所へ旅立とう。

 それがどこにあるのかは知らないけど、行き方なら何種類か知ってるし。できるだけ楽な行き方を調べよう。乗換案内のアプリじゃ出てこないから、ググるしかないか。



 そうして、もと会社の最寄り駅のベンチに腰掛けて、検索ワードをスマホに打とうとした。




「やあ、瀬谷せやくん」


 目の前で立ち止まった人に声をかけられ、おれがスマホから視線をそちらに移すと、森本皐月もりもとさつきが立っていた。かがみ気味になった森本の、ほんのり茶色の長い髪先が、おれの目線の高さでふらふらと揺れている。

 森本はおれの会社の同僚だ。もとい、おれはもう会社員じゃないから「もと」同僚になる。それなりに仲は良かったけど、会社外で会ったりするような仲ではなかった。



「ふうん。なにやら不穏なワードが」



 おれのスマホの画面を指差しながら、森本はにやつく。苛つく種類の笑い顔でなく、なんか憎めない種類の笑顔だった。



「見んなよ。プライバシーの侵害だ」

「これから亡骸を知らん人に片付けてもらおうとしてる人の台詞じゃないよね、それは」



 森本はぴしゃりと言い切る。何を、と反論しかけたおれを制するように、森本は言った。



「じゃ、飲み行こうか。瀬谷くん」

「は?」

「今日は瀬谷くんの退職祝いってことで、あたしが奢っちゃいますからね! ほら、スタンダップ、ロックンロール」



 言いさま、ぐい、とおれの手をひっぱって立ち上がらせてきた。スマホを取り落としそうになって、あわてて握り直して、ポケットにつっこんだ。もともと同僚として働いてたときから、少しぶっとんでるところがあるとは思っていたけど、今日の森本は特にそれが顕著だった。

 ってか、何だよ、ロックンロールって。



:::::::::




 数時間後。



「どうよ。あの世ってこの世にあると思わん? こんなに気持ちいいんだよ」

「あのな、森本。おまえは浴びるように飲んでるから気持ちいいだけだろ」

「違う。瀬谷くんが飲まなさすぎ。病院のベッドにいる薄幸美女じゃあるまいし、もっと飲みやがれってんだ。ばーかばーか」



 店は二軒目に移り、森本はすっかりアルコールの手玉にとられていた。おれも普段より飲んではいるものの、彼女にはかなわない。そういえば、会社の飲み会でも上司を潰していたことがあったな、こいつ。



 よく熟れたりんごみたいに頬を染めながら、森本は言った。



「ねえ、瀬谷くん」

「何だよ」

「……さっき、ほんとうに死のうと思ってた?」

「……」

「ね。……笑ったり茶化したりしないから、言って」

「……思ってたけど」



 確かにあのとき、おれが望んでたのは自分という命の終焉であり、どこにあるのかわからない死後の世界に旅立ちたいと思っていた。自分なんて誰にも相手にされない、取るに足らない、つまらない存在だ。なら、ここではないどこかへ消えてしまいたい。

 そのために、死は一番近い、簡単な方法だ。

 そう思っていた。


 しかしちょうどいいところで、森本が横からリモコンを奪って、おれの人生のチャンネル権を掌握してきたのだ。

 森本は、グラスの氷を指でいじりながら相槌を打つ。



「ふうん」

「ここじゃないどこか、違うところに行きたいと思った。この世界より高く、深く、遠いところへ」

「……」

「死んだらどこに行くのかなんて、わからんけどな。ここよりはマシだろ」

「……なるほど。よくわかりました」



 テーブルにだらりともたれかかるようにしていた森本は、すい、と身体を起こした。

 何がどうわかったのか……と思っていると、森本は急に、テーブルの上に置いていたおれの両手をつかみ、自分の両手でそれを包み込んだ。

 さすがに吃驚する。



「なんだよ、おい」

「じゃあ瀬谷くん。あたしが連れてってあげるよ、その高くて、深くて、遠いとこ」

「なんだよ。森本、死神だったのか? 魂を取られるのか? 黒いノートとか持ってないよな」

「ばっかだなあ。誰が、これから一緒に死んであげるなんて言ったの?」

「じゃあ、どうすんだよ」



 森本は、さっき駅で会ったときと同じ笑顔を浮かべた。



「付き合おう。あたしたち」



 今度こそ、よくわからん。



「簡潔に理由を述べろ」



 裁判官のような口調で、おれがそう求めると、森本は厚めの唇をとがらせながら、言葉を並べはじめた。



「だってさ、瀬谷くん、今みたいに独りぼっちでなんの希望もない、自分が必要とされない世界がイヤなんでしょ」



 そのとおりだったので、だまって首肯した。



「あたしね、瀬谷くんのことずっと気になってたよ。会社で席が隣になってうれしいなーって素直に思ってた。……なのに、ぜんぜん何も言わないで会社辞めちゃうんだもんなあ。瀬谷くんよりあたしのほうが、絶対に自分のミスで上司に頭下げさせた回数多いのに」



 言葉を切った森本は、グラスを空にした。同じのもうひとつ!と、狭い店に響き渡る声でオーダーすると、森本は続けた。



「だから、あたしには瀬谷くんが必要なわけ。これで一つクリアーだね?」

「なにが」

「瀬谷くんがこの世界に生きる条件」

「はあ。とりあえず、続けて」



 もしかしてもう知らない間に死んでんのかな自分、と思いながらも続きを促した。

 まだ現実味はないけど、興味深くはある。



「そもそも瀬谷くんは、死なないとその、高くて深くて遠いところに行けないと思ってるよね」

「違うってか」

「違うね」

「じゃあどうしろって?」

「そりゃあ簡単よ」



 森本はおれの手を握ったまま、二人の目線のぶつかりあう高さに持ってきてみせる。

 ふう、と彼女のあたたかい息が指にかかった。



「一人じゃそこには行けないよ。ふたりで行けばいいの」

「……」

「ふたりでなら、ずっと、同じ毎日の階段をどこまでも上っていけるよ。そして少しずつお互いのことを深く、深く理解し合えれば、誰も追いかけてこれないくらいに、遠いところに行けるんだよ。それが、死ではない、生きながら選べる、瀬谷くんの行きたい場所への選択肢。……これが何か、知ってるかな?」



 言ってることは多少トンでいても、おれは森本が嘘を言っているようにも、おちょくっているようにも聞こえなかった。


 彼女の唇から言葉がすべり出るほど、そのたびに掌が確かな熱を帯びていたのだ。





 おれは訊いた。





「答えは?」

「少しくらい考えてくれませんかね」

「しらん。おれは、ちゃんとおまえの口から聞きたいんだよ。その答え」

「しょうがないなあ、もう」





 森本は、うん、と一度黙って頷いてから、はっきりとその言葉を口にした。





「愛だよ」




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Speak of the devil 西野 夏葉 @natsuha

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