第2話
「やっぱり」ダメだった、という結果を目の当たりにしてから数日が経つ。
ほとんど毎日、休まずにキーボードを叩いてきた指は、今は気だるい調子で、使い過ぎて生温かくなったスマートフォンのタッチパネルを撫でるばかりだ。目から入ってくる動画サイトの、やかましい広告混じりの動画の中身は、ひとつも頭に残らずに素通りしてゆく。観たくて観ているわけではなかった。他にやることもないから流しているだけで、人の気も知らずに笑い声をあげる動画の中の人物に、自分が気を遣うことなどない。
書くことがすべてだと思っていた自分の毎日から、その「すべて」を奪われた気分を味わって数日。こんなにも何もできない自分は、酸素を二酸化炭素に変換するだけの、ただのフィルターのついた筒のようなものだ。そう思うと、新しい言葉を紡げない頭も声も指も、すべて邪魔な気がしてならない。この毎日をあと何千何百日も過ごさなければいけないと思うと、自分で区切りをつけようとする人間が先進国の中でも特に多いこの国の現状について、納得できなくもない。豊かであるがゆえに、自分には何もない……という無力感や欠落感が際立つような気がするのだ。
耳障りになってきた動画サイトのアプリをシャットダウンしようと指をのばした刹那、新しい通知が画面の中でポップアップした。
それは数日間放置していたTwitterの、ダイレクトメッセージの受信通知だった。いつもなら差出人のアカウント名も表示されるのに、タイミングが悪かったのか、ウインドウには「新着メッセージがあります」としか表示されなかった。こういうところなんだよな……と誰に対してでもなく独り言ちて、アプリを開く。ああだこうだと商品レビューを垂れ流していた動画アプリの音声が止まった。
<chiakiさん。最近サイトでもTwitterでもお見かけしませんが、お元気ですか?
体調悪いとかでなければいいのですが……
いきなりDM送ってごめんなさい。どうしても心配だったので。
返信不要です。
藍白は、千秋が「chiaki」の筆名で使っている小説投稿サイトで仲良くなった人物だった。実際に顔を合わせたことはないし、声を聴いたこともない。それでも、千秋は藍白が作品に寄せてくれるコメントやリアクションを創作の糧にしていたし、千秋自身も藍白の作品を読んで、コメントを書いたりすることが好きだった。
東京にひとり暮らしをしている千秋と対照的に、藍白は北海道で既に家庭に入っているらしかった。その言葉が正しいのかどうかを判断する材料はどこにもないし、わざわざ確かめる気も起きなかった。けれども、藍白の日々のツイートや、その作品に溢れる温もりに満ちた言葉たちをもって、千秋はなんとなくそこに嘘がないことを感じ取っていた。
藍白は千秋よりも小説を書きはじめて日が浅いものの、既に何度もコンテスト受賞者の一覧に名を連ねている。千秋が落ちたコンテストでも、藍白の作品は「佳作」を受賞していた。どこにでもいるカップルの何気ない日常の一ページを切り取った作品は、千秋が読んでも、たったいま包丁を入れたばかりの果物みたいなみずみずしさがあったし、まるで自分が作品の中の語り手になったような感覚さえおぼえるものだった。
いつしか、その作品と自分の作品の何が違うのか考えるのをやめた千秋は、こうしてベッドとスマートフォンの付属品に成り下がっている。名前とは裏腹に、言葉にはっきりとした鮮やかな色をもつ藍白と、すっかり水気を失って乾き切ったトマトみたいになった自分。どちらが紡いだ物語に軍配が上がるのかなど、もはや対比するまでもなかった。
千秋は、右手の親指で返信画面を開く。
「藍白さん、メッセージありがとうございます。そして、佳作受賞おめでとうございます!
実は、コンテストに落ちてから、なんか魂が抜けたみたいに何も思い浮かばなくなっちゃって……。
気晴らしで始めた趣味で病みたくなくって、この数日間は創作と離れた生活をしてました。
特に体調を崩したわけではありません。ご心配おかけしました」
当たり障りのない文面を、くしゃくしゃに丸めて放り投げるような気持ちで電子の海へ投げた。
自分はなんてイヤな奴なのだろう。おめでとう……も、気晴らしで始めた趣味……も、全て嘘だ。自分が脚光を浴びられないのなら、この世界は全部嘘であってほしいし、いつ滅んでくれても構わない。本当はそう思っているのに、簡単に心にもない台詞を吐けるようになったのも、虚構を書いてもてはやされることが快感と思うようになった、今の生活のせいなのだろうか。
だとすれば、自分はもはや、作家などではない。
ただの嘘つきではないか。
過去の作品を全て消して、筆名も変えて、新しくやり直そうか。
もしくは、もう、いっそ物書きなんかやめてしまおうか。
他に自分ができることなんてあるのかわからないけど、少なくとも、もうこの目まぐるしく色合いを変える世界で息をすることなんか、自分にはできないのではないだろうか。
無駄に高い天井の部屋のなか、反面、目に見えないもので押し潰されそうな心地を味わっていると、藍白からの返信はすぐに返ってきた。
虚ろな目で、その通知を確認した千秋は、叩くように通知を開いた。
<ありがとうございます。
でも、私は正直言って、chiakiさんの作品の方が賞を受けるにふさわしいと思いますよ>
嘘つけよ。
思わず口をついて出てしまった言葉は、自分以外誰にも聞こえていないのに、千秋は思わず口元を手で覆ってしまった。
でも、これは「勝者」であるからこそ言うことができる台詞だろう。
結果が出そろったあとならば、なんとでも言える。現実世界は置いておいても、自分たちが戦っているのは、結果が全ての世界だ。どれだけ時間をかけて心血を注いだとしても、作品それ自体の出来が伴っていなければ入賞など夢のまた夢。なにより出来がよくなければ、自分以外の誰の目にも触れることはない。それでは、意味がない。
アプリを終了させようとした千秋の指を止めたのは、後を追いかけるように届いた、藍白からの新しいメッセージ通知だった。
<突然何を言う……と思うかもしれませんが、私はchiakiさんの書く作品が本当に大好きです。
だからこそ、伝えておきたいことがあるのです。
それはもしかしたら、chiakiさんにとっては耳をふさぎたくなるようなことかもしれません。
でも、私はこれからもchiakiさんの書く作品を読みたいと思うし、chiakiさんがこれからも作品を書き続けていくうえで、ぜひとも知ってほしいことでもあります。
もしも聞いていただけるなら、私の思いを聞いてください。今は聞きたくない、ということであればもちろん私の胸の中に留めておきます。
そのご判断は、chiakiさんにお任せします>
メッセージを読み終えた千秋は、そこですぐに「今は聞かないでおきます」と返信することができない自分に気づいた。
執筆なんてやめてしまおうか……と数分前まで本気で考えていた自分なら、何も見ず、聞かず、さよならも告げずに「chiaki」としての自分を消し去ることなど、簡単にできるはずだった。
なのに今の自分は、暗く冷たいクレバスの底で、ふいに天から下がってきた蜘蛛の糸を目の前にしている気がする。これ以上は変われない……と思っていた自分自身を変えるチャンスが、藍白の言う「伝えておきたいこと」の中にある予感がしてならなかった。
のっぺりした、グラデーションのない世界から脱け出すために、いまその糸をつかむのか、そうではないのか。
千秋はわずかの間、逡巡した。
やがて、千秋はスマートフォンの画面に指を走らせた。
「ぜひ、聴かせてください」
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