第2話


「あっつ……」


 バスのドアが開くと衣服の隙間から入り込んだ熱気が僕の身体を舐めまわした。


 吐くほどに暑いなんて大げさな表現も今なら言葉通りだと感じられる。


 僕はひょっとこみたいに唇をすぼめ、Tシャツの首元を指で引っ張って作った隙間に息を吹き入れ少しでも涼を取ろうと必死だった。


 しばらく続けてみたものの、そんな小細工はうだるほどの熱気の前ではほとんど意味をなさないのだと理解して、すぐにあきらめたのだけれど。


 肌と衣服の間に残っていた冷気が熱気に押し出されて逃げ出すと更なる汗が噴き出し始め、肌に張りついたコットンのTシャツは不快感と重さを更に増していく。到着して早々、お風呂に入って着替えたくなるとは思わなかった。


 車内もそれほど快適だとは思っていなかったが、車外と比べれば天国と言っても差し支えない程だ。


 僕がバスのステップを降りると間髪入れずに背後でぷしゅうと音がして扉が閉まった。余程車内の冷気を逃したくなかったのだろうがシャツでも挟んだらどうするつもりなのだろう。


 抗議の意味を込めて運転手の方向に目をやったが生憎ドアガラスの反射で何も見えなかった。


 よくよく考えれば、停車するバス停の名前すら運転手はアナウンスしなかったように思う。いくら客が少ないと言っても流石に怠慢だろう。


 のろのろと発車したバスのエンジン音が遠ざかり、やがて聞こえなくなると、完全に周囲の音という音がセミの鳴き声に上書きされていく。


 僕が降りた場所は当然バス停のはずだけれど、木製のベンチとビニールで補修された囲いがあるだけでバス停らしさなんて全く感じられない。


 時代錯誤も良い所でここだけ時代から取り残されてしまったみたいに感じられるけど、実際ここは瘤木村という小さな限界集落唯一のバス停なのだ。


 周囲にある標識や樹脂製のゴミ箱等も長い年月を経て退色してしまったのだろう、今ではパステルカラーのように淡い物になっている。


 今でも使われているはずのバス停だというのに周辺は草木が伸び放題になっていて地面が良く見えない。このバス停で降りる人がそれほどに少ないのかもしれない。


 夏休みの最中、どうしてこんな限界集落に一人でやって来る事になったのかというと、祖父が瘤木村に住んでいるからという特に何の変哲もない理由だった。


 僕の家では毎年お盆は祖父の田舎で過ごす事になっていて、例年通りなら両親と僕とで車に乗ってくるのだけど、今年は村の駅を珍しい電車が通ると言う事でどうせなら見てみてはと祖父に勧められた。


 珍しい電車、と言われても正直普段から電車の区別なんてしたことが無かったしあまり興味は無かった。


 それでも今後見る事が出来ないかもしれないと言われるとなんだか見てみたくなるという物だ。


 写真を撮って友達に見せれば自慢だってできるかもしれない。

 ただ、残念ながら祖父の言う珍しい電車が通過するのは僕たち家族が瘤木村を訪れる予定の前日だった。


 祖父は予定を一日前倒し出来ないかと両親に聞いてみたけど、仕事の都合がつかなくて日程をずらすことが出来なかった。


 祖父はそれなら僕だけでも先に来てはどうかと提案してくれたけど、正直僕も面倒な事をするくらいなら別に見なくてもいいかなと思ったので最初は断るつもりだった。


 けれど父から「中学生なんだから一人でもバスくらい乗れるだろ?」と言われたのが何となく癇に障り、「勿論そのくらい余裕だよ」と反射的に答えてしまったのだ。

 言ってからしまったと思ったけれど、一日早く祖父の家に着けば両親に内緒でお小遣いをくれるかもしれないと考え直し、一人で瘤木村にやって来る事になったということなのだ。



「えっと、方向は……こっちか」


 瘤木村にはスマホの電波が通っていない場所もあると聞いていたのでわざわざ村の地図をスクリーンショットで保管し、オフラインで使えるようにしていた。


 幸いにしてバス停周辺は一応電波が通っているみたいだけど、アンテナは一本だけ。これではいつ電波が無くなるか解ったもんじゃない。


 僕は地図の中から今居るバス停の場所を探しだし、目的地である祖父の家の方向に当たりを付けて草で覆われたバス停から道路へ出る事にした。 


 周りに目印になるようなものが無いので僕はスマホを回転させたり、僕自身が方向を変えたりと四苦八苦しながら地図と周囲の地形と照らし合わせていた。


「いてっ」


 直後、つま先に激しい痛みが走り思わずしゃがみこんでつま先を手で押さえる。痛みが引くまで数秒そのまま硬直して動けなかった。


 どうやらスマホに夢中になりすぎて足元が疎かになっていたらしく、草で隠れていた石に足先を思い切りぶつけてしまったらしい。


 暑いからと通気性の良いニットスニーカーを履いていた事が災いした。履き心地は良いのだけど、どうしても保護性能という意味では脆弱だ。学校でも一時ニットスニーカーが大流行したけど、体育の時間に爪を割る生徒が続出したため、今では使用禁止になってしまっている。


 一度ベンチに戻ってスニーカーを脱ぎ怪我の具合を見てみたかったけど、爪が割れたり血が出たり酷い怪我をしているのを見てしまうと怖くなる気がして僕はそのまま我慢して歩くことにした。


 幸いつま先に力を掛けなければ問題無く歩ける程度の怪我らしい。

 到着早々災難も良いところだ。それもこれもこんな草木の手入れすらされていないボロ村のせいだ。



 祖父から聞いた話になるけど、瘤木村はかつて隣の山で石炭が取れると言う事で今でいうベッドタウンというべきか、労働者たちが多く訪れ、それなりに潤っていた時代もあったらしい。


 ただ、地盤や水脈の影響か土砂崩れや水害が多発する土地だったのが災いして徐々に活気を失ったそうだ。


 石炭の需要が減って行く事でついには隣山の鉱山も閉鎖され労働者たちが離れていくと、特に名産も特徴も無い瘤木村は高度経済成長に取り残され、廃村間近の限界集落となり今に至る、という訳らしい。


 住人の多くは隣村に移り住んだらしく、道の通っている両隣の村は今でもそれなりに活気があると祖父は言っていた。


 飛び地のように瘤木村だけがさびれてしまっているのは何となく奇妙に感じる。 



「そうだ、水分補給はマメにしろって父さんが言ってたな」


 僕は背負っていたリュックサックから魔法瓶を取り出して一口麦茶を飲んだ。これでもかと言うほどに氷を入れてきたのでしみるほどに冷たい。


 父さんから「あそこにゃ自販機なんかないから水筒は二本くらい持って行け」と言われたので凍らせたペットボトル二本に咥えて魔法瓶の水筒を持って来ている。

 これだけあれば流石に大丈夫だろう。


 そんなわけで水分補給という点に関しては不安が無いけど荷物がかなり重くなってしまったのは失敗したかもしれない。歩くたびに肩紐が食い込んでくる。


 良く考えたら魔法瓶じゃなくてペットボトルのお茶から飲むべきだったな、と反省しながら水筒をしまうと僕はバス停から祖父の家を目指して歩き出した。


 くたびれた荒い道並みだったけど、歩くだけなら特に問題ない。


 最初は乗り気ではなかったし、一番の目的はお小遣いが貰えるかもしれないという所ではあった。

 けど、一人で電車やバスにのってこれほど長い距離を移動したのは初めてになる。


 僕自身夏休みの思い出というか、ちょっとした冒険気分に浸り始め、なんだか少しだけ楽しさも感じ始めていた。


 何もない田舎道は、都会育ちの僕にとってはそれだけで新鮮に感じられるのだ。

 普段暮らしている街中だと道標のように存在している自動販売機やコンビニだってこの村に来てからはほぼ出会えていない。


 唯一おんぼろになって壊れた乾電池の自販機は見かけたけれど、どうしてよりによって乾電池なんかを自販機で売っていたのか僕にはいまいち良く解らなかった。

 

 田舎道の楽しさを味わう反面、直射日光の強烈さだけは思っていた以上で、帽子だけではなんとかならなさそうな気配がある。


 なるべく木陰を選んで歩いていたけど、ついには木々も無くなり、炎天下の中ひたすら歩く羽目になってしまった。


 祖父の家の方角に向かう道には真新しい毛筆による手書き看板で駅へのルート案内が配置してあった。


 地図上では祖父の家より先に駅の前を通る事になりそうだ。

 わざわざ丁寧に案内を掲示してくれるなんて、村の規模から考えると本当に思っていたよりレアな電車が通るのかもしれないなと、わくわくする気持ちも少し湧いてきた。


 歩くにつれてペットボトルと水筒の重みが徐々に堪えてきた。背負ったリュックの肩紐が肉に食い込んで少しずつ痛くなり始める。


 炎天下の中フラフラと車道の端を歩いていると後ろからエンジン音が聞こえてきた。


 手でひさしを作って振り返って見てみると遠くから白いワゴン車がやってくるのが目に入る。


 邪魔にならない様に道の端に寄って歩いていると僕を通り過ぎて10メートルくらいの場所でワゴン車は一旦停車した。


 一瞬誘拐でもされるのかと身構えそうになったが、すぐに窓が開いて毛むくじゃらのおじさんが顔を出した。

 赤い半袖のチェックシャツに迷彩色のカーゴパンツを履いている。

 やや小太りで脂ぎった顔をしていた。


「やあこんにちは。君も瘤木駅に行くのかい? いや、そうじゃなきゃこんなところ歩いてないと思うけどね」


 にこやかにあいさつをしたおじさんはなんだか作り物めいたヒクついた笑顔を僕に向けてきた。


 生理的な嫌悪感を感じたけど、なんとか抑えて僕も笑顔で応える。


「あ、はい。あの、今日駅に珍しい電車の……」


 慌てて言葉が綺麗に出てこず詰まっているとおじさんはやっぱりといった笑顔をべたりと浮かべ僕の言葉を遮る。


「解ってるさ、君も同類だろう? 若いうちから感心だねぇ。乗っていくかい? いくら若いと言ってもこの炎天下だ、大変だろ? 生憎このワゴン車の座席にはまだ空きがあるからね」


 大丈夫です、と断ろうとしたけど運転席のドアが開き、そこから色白の細い男性が下りてきて、彼も熱中症が怖いから乗って行けば良いと言ってくれる。


 さすがにこれ以上断ってしまうのも気が引けるし、何よりこの後駅でもう一度会うのだから気まずい思いをするのも困る。


 それに男同士なら、変な事はされないだろうと漠然と感じていたのもあった。


「じゃ、じゃあお言葉に甘えて良いですか?」


 恐る恐る答えて、僕はおじさんたちのワゴン車に乗せて貰う事にした。

 知らない人の車に乗るなんて初めてのことだった。


 車内には先ほどの色白の細い男性、窓から顔を出していた毛むくじゃらのおじさんのほかに頭髪の薄くなった初老男性の運転手と、恐らく大学生くらいのメガネをかけた暗くて神経質そうな男の合計四人が乗っていた。


 簡単に挨拶をすると皆どうやらネットのSNSで知り合った電車の愛好家らしい。

 話を聞いていると恐らく最初に声を掛けてくれたけむくじゃらのおじさんがこのグループのリーダーみたいだった。


 車の中では今日の電車を見られるのは幸運の限りだとか、いついつ撮影した電車の写真がコンテストに入賞したとか、自分たちのカメラ機材がいかに素晴らしいかを滔々と語られた。


 どうやらこの人たちの中では僕も筋金入りのマニアだと思われているらしいけど、僕は電車の名前すら解らないので愛想笑いを返すだけしか出来なかった。


「このレンズはねぇ、当時のメコン社が社運をかけて利益度外視で作ったっていう本当にレアなレンズなんだ。マウントが特殊だから、ほら、このカメラでしか基本は使えないんだけどねぇ」


「出たー幻のZマウント!」


 おじさんたちは爆笑していたけど僕には何の話かさっぱりだった。


「古いカメラと言ってもプロの報道用はイメージセンサが市販品とは別物さ。高いだけのメーカーなんて言われるけど、このアジを出せるのはこのメーカーしかないんだ」


「今時はミラーレスなんてカメラモドキが流行ってますけどやっぱり本格的なカメラにはミラーが無いと。あのストローク時に感じる振動がやる気にさせるっていうか――」


「トリミングとかやるやつはキャメラを持つ資格がないよ。フレーミングと撮影場所の確保から撮影は始まってるのにね、それを放棄している。そんな写真に魂がこもるわけがないんだ」


 おじさんたちが次々に自分の持つ撮影機材の薀蓄なのか良く解らない話を続けているが僕にはやっぱり何の事だかちんぷんかんぷんだった。


「……それで……君の撮影機材は? そのリュックかなり重そうだったけど一体レンズをいくつ持ってきたんだい? 徒歩なのに欲張りだねぇ」


 毛むくじゃらのおじさんが言うとワゴン車の中の皆の視線が僕の膝の上に乗せられたリュックサックに集まる。運転手のおじさんすらバックミラーで僕を見ているらしかった。


「えと、あの……これは水筒です。カメラも持ってなくて、スマホです……」


「……えっ」 


 別に嘘をついたわけでもなく、何も悪い事はしていないし僕は正直に話す事にした。


 祖父がこの村に住んでいて珍しい電車が通ると言うから野次馬根性で見に来ただけで然程電車には詳しくないのだと言うと先ほどまでの和気藹々としたムードは一気に鳴りを潜め、


「あっ、そう」


 身を乗り出していた皆がすとんと元の席に戻ると露骨に態度を変えて、こんな奴乗せるんじゃなかったという空気になる。


 中でも毛むくじゃらのおじさんは小さく舌打ちして「紛らわしいんだよ」等とつぶやいてハンドルの上部をこれみよがしにガンガンと叩き出す。


 わざわざ聞こえるように言うところにおじさんの子供っぽさを感じた。

 色白の細い男性だけがまぁまぁと他の人をなだめて僕を庇ってくれた。


 それからは皆がそれぞれ僕をのけ者にして良く解らない機材や電車の話をしはじめてとても居心地が悪かった。


 ワゴン車がようやく駅に着くと運転手のおじさんが電車が通る六時間前くらいだと仲間と談笑しだした。


「あの、有難う御座いました、大変助かりました」


 車内で居心地が悪かったのは確かだけれど、車に乗せて貰った事は確かなので丁寧にお礼を言った。


 実際、想っていた以上に距離があったらしく、車でもそこそこの時間がかかっていたからだ。


「あっそう」


 先ほどまでにこやかな笑顔を浮かべていたはずの毛むくじゃらのおじさんは視線を合わせようともせず小さく独り言のように言って


「六時間後の太陽の位置を考えるとポジションはあっちがよさそうだな。じゃあ四人全員で場所取りに行こう!」


 と車内に居た元々のメンバーに声を掛けて細い道の向こう側を指さすとさっさと行ってしまった。


 中学生の僕が言うのもなんだけど、わざわざ僕を除いた人数をあげて全員、とアピールするあたりがあまりにも大人げない態度だと思ったし、すごく不愉快な気持ちも抱いたけど気にしたところで仕方がない。


「さてと」


 駅の周囲を眺めるとさびれた景観に似つかわしくない程大量の車が道路に停められている。

 普段は特に放置されていたであろう砂利の広場がそれなりに埋まっていた。


 ナンバープレートをいくつか見てみるとやはり地元の人ではなく遠方から人が集まっている事が解る。


 又、先ほどのワゴン車に乗っていたおじさんたちのように大きな黒いバッグを持った人たちがところどころに集まっているので今日この駅を通る電車というのはやはりそれなりに珍しい電車なのは間違いないようだ。


 先ほどのおじさんたちによると電車が来るまで大分時間があるようなので先に祖父の家に行こうと思った。


 僕はスマホを取り出すと保存してあった地図で駅と祖父の家との位置関係を再度確認した。


 大体の方向に当たりを付けて見まわしてみると道が一本通っているだけで、まっすぐ道なりに進めば良いらしく、もう少し近くまで行けば流石に覚えている道が出るはずなので簡単に祖父の家までたどり着けそうだ。

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