一枚の絵

増田朋美

第一章

桐紋教

第一章

その日は、寒い日だったが、空は明るく晴れて、良いお天気であった。杉ちゃんと蘭は、ある美術館で行われている、人気アニメの原画展を見にいくことにした。別に杉ちゃんたちはアニメに縁があるわけじゃなかったが、いちおう今大人気のアニメであるということで、見ておいた方が良いと思ったからである。

二人が電車に乗って美術館に行くと、会場には沢山の人が居た。なんでこんなにと思うほど人が居た。これは面白いぞと期待して美術館に入った二人であったが、展覧会は、人気アニメのファンであれば、十分楽しめるかもしれないが、そうではない杉ちゃんたちにとっては、面白くない内容であった。何だか面白くなかったねえなんて言いながら、杉ちゃんたちは第一展示室を出た。隣の部屋は第二展示室だった。この美術館で行われているのは、企画展ばかりではない。第二展示室では別の展示会が行われていた。みんな第一展示室の人気アニメの展示会を見て帰ってしまう人ばかりだった。でも、杉ちゃんは、何の迷いもなく、第二展示室へ入っていった。

「おう、蘭。これ見ろよ。なんか古賀春江みたいだよ。アニメの原画展よりこっちのほうが面白そうじゃないか。よし、一寸この絵をみさせてもらおうぜ。」

古賀春江という人物が、日本のシュルレアリスムの第一人者である古賀春江であるのに、蘭はちょっと時間がかかったが、確かに第二展示室に展示されている絵は、アニメの原画とはえらい違いのものであった。

「おう、こっちのほうがよっぽど面白いよ。すごいきれいな富士山じゃないか。写真もいいけど、絵を描くってのは、画家の感性が入ってくるから面白いんだよな。」

杉ちゃんが指さした富士山の絵は、確かにパステルカラーできれいな絵なのであったが、やっぱり古賀春江の影響があったのか、一寸富士山は形を崩して描かれていた。

「なるほど、パステルカラーを使ったヒーリングアートって奴かなあ。ずいぶんお上手じゃないか。何か、この絵を描いた作者はよほど繊細な感性の持ち主だぜ。」

杉ちゃんがそういうことを言うと、

「どうもありがとうございます。この絵を描いたのは、私なんです。ほめていただいてとても嬉しいです。」

いきなり、近くのイスに座っていた若い女性が、にこやかに笑って、杉ちゃんのほうへやってきた。

「ああ、礼なんて言わなくていいよ。ただ僕は在るがままの感想を述べただけだから、気にしないで。」

と、杉ちゃんがそういうと、女性は一緒にいた蘭を誰なのかわかってしまったらしい。さらに嬉しそうな顔をした。

「あら、彫たつ先生ではありませんか。私の展覧会を見に来てくれるなんて、夢にも思っていませんでした。どうもありがとうございます。」

「はあ、えーとどなたでしたっけ。」

蘭はどうしても、彼女の名前を思い出せなかった。

「ああ、覚えていらっしゃらないんですか。まあ、先生はいろんなお客さんの背中を預かってきてるから、忘れても仕方ありませんよね。私、梢ですよ。天草梢です。」

「天草梢さんですか?」

蘭は、確かにその名前の女性に施術した覚えがあるのだが、その名前と顔が一致しなかった。確かに天草梢という人物に彫った覚えはある。でも、ここにいる人物は、どうしてもその人物と一致しない。

「先生、覚えていらっしゃらないんですか。じゃあ私が言いますよ。私の左手に、桐紋を彫ってくださいましたよね。ほら、私が、リストカットの痕をどうしても消したいって言ったら、先生は出世を願って桐紋を彫るとおっしゃってくださいました。それは今でも私の左腕にしっかりついております。」

「ああ、ああ、そうでしたね。今やっと思い出しました。確か、彫ったのは去年の夏だったような。」

「はい。そうですよ、先生。やっと思い出して頂けた。私、先生がお忘れていたら、どうしようかと思っていましたわ。」

と、彼女はカラカラと笑った。

「でも、ずいぶん明るくなりましたね。彫ったときは、もう本当に落ち込んでいるみたいで、どうしようもないという感じだったのに。」

「ええ。あの時の私は確かにそうでした。仕事もできなくて、誰も私の事を考えてくれないって、泣いてばかりいました。でも今は、自分のアトリエも持つことができて、創作活動もやって、こうして古典を開くことだってできるようになったんです。其れで、私は幸せです。」

蘭がそういうと、彼女はそう答える。

「そうですか。何か、人生を変えるようなことが在ったのか?半年というたった短い期間で、そんなに明るくなれたというのは、珍しいと思うけど?」

と杉ちゃんはそういって彼女の右手に目をやった。

「はあ、誰か好きな人でもできたのか。」

薬指に指輪がはめられていた。

「ええ。先生に彫っていただいてから、どうしてもまえむきになろうと思って、私は、ある方と知り合いまして、先月、結婚式をあげたばかりなんです。」

「はあ、なるほどね。お前さんを盛り上げくれたやつはどんな奴?そんな豪華な指輪をくれるなんて、日本人ではないよなあ?ヨーロッパ人とか、そっちの方だろ?」

と、杉ちゃんが言った。

「ええ。正確に言うと、ヨーロッパというわけではないんですが。いつも私の事を、考えてくれて、今はとてもうれしいです。」

なるほど。そういうトリックだったのか。まあ女性の場合だったら、あり得る話しかもしれなかった。傷ついた人が意外に外国人と結婚することで解決というか、踏ん切りがついたという例は結構ある。

「そうですか、良かったじゃないですか。その方といつまでもお幸せになってください。そのきっかけをつくれたので、僕もうれしいです。」

蘭はちょっと苦笑いをしながら、そういうことを言った。

「よかったねえ。お前さんの客がそうやって幸せになってくれてさ。うれしいじゃないか。桐紋は出世を願う吉祥文様じゃないか。其れが見ごとにかなったよ。」

杉ちゃんが蘭にそういうと蘭は、ちょっと照れくさいなという顔をした。

「いいよなあ。お前さんは、人生の節目の時に、そうやってわきにいられるんだからな。其れはうれしい仕事だよな。」

「ああ。でも、個展を開くまで大出世を遂げたのは、珍しいケースだ。其れも半年と言う、短い期間で。信じられないよ。」

二人がそんなことを言い合っていると、

「ええ、又年に一度くらいは、ここで個展を開こうと思っています。もし可能であれば、先生のお宅に、個展の案内状を送ってもよろしいですか?ああ、もちろん個人情報は、それ以外に使用しませんから。其れで可能であれば、先生の住所をお願いできませんでしょうか。」

と、天草梢さんがそういうことを言いだした。

「ああ、そうですか。ぜひ、送って下さい。えーと住所は、これに書いておきます。口で言うのはちょっと。」

と、蘭は、手帳を車いすのポケットから取り出して、そのページを破り、自分の住所と電話番号を書いた。

「ありがとうございます。じゃあ次回の展覧会の日程が決まりましたら、先生のお宅にお送りさせていただきます。」

と彼女は、にこやかに笑って、その紙を受け取った。

「ええ、じゃあ、展覧会の開催を楽しみにしていますので。これからも頑張って活動してください。」

蘭が彼女に頭を下げると、杉ちゃんも、

「是非、古賀春江の女版を目指してね。」

と彼女をからかった。

「はい。頑張ります。古賀春江さんは、私がお手本として、目指している人物です。私は、正式な美術教育を受けていないので、誰かモデルになる人物を探して、それをまねするしか方法はなかったので。」

ということは、彼女は美術学校を出ていないのだろう。それでもここで個展をやれるのであるから、彼女の夫になった人も、かなりの財力があると思われる。

「じゃあ、僕たちは、ご飯をたべて帰るけど、これからも頑張って良い絵を描いてください。」

と杉ちゃんと蘭は、軽く一礼して、第二展示室を後にした。彼女はありがとうございましたと言って、杉ちゃんたちが出ていくのを見送った。

その展覧会から、数日たった日の事である。杉ちゃんと蘭が、荷物を送るため家の近くにあったコンビニに行ったときの事だった。文字の書けない杉ちゃんに代わって、蘭が一生懸命、宛先を書いているのと同時に、コンビニの中では、ニュース番組がラジオで流れていた。そのラジオ番組で、いきなり女性アナウンサーの声で、こんな事を言っているのが聞こえてくる。

「今日午前八時ごろ、静岡県富士市の須津の公園内で、男性の変死体が見つかりました。死亡したのは、富士市内に在住する、秦野益男さんと判明しました。死因は、後頭部の衝撃による脳挫傷で、秦野さんは、崖から落ちたとみられますが、後頭部に殴られた痕がある事から、警察は殺人事件とみて捜査しています。」

「はあ、なるほどね。変な事件ばっかり起こるなあ。最近の富士市も治安が悪くなっちまったねえ。」

と、杉ちゃんが、でかい声で言った。蘭は、その被害者の名をちゃんと聞いていなかったので、自分とは関係のある事であるとは思わなかったのであるが。

コンビニから戻って、杉ちゃんはいつも通り、お昼ご飯をつくり、蘭は、新聞を読みながら待っていたその時、インターフォンが音を立ててなった。

「おーい蘭いるか。一寸聞きたいことが在るんだけどさあ。」

声の大きさからすると、華岡の声だ。

「ああいいよ。入れ。」

と、杉ちゃんがそういうと、華岡はお邪魔しますも言わずに部屋の中へ入ってきた。

「で、何のようなんだよ。華岡さん。」

杉ちゃんが聞くと、

「ああ。ちょっと聞きたいことが在るんだ。蘭お前、秦野益男さんという人が殺害された事件を知っているか?」

と華岡はでかい声で言う。

「さっきコンビニで言ってたな。なんでも、誰かにぶん殴られたそうじゃないか。」

杉ちゃんの記憶力は抜群だ。こういう時は、絶対大事なことを聞き逃さない。

「其れで、一寸聞きたいんだけど。天草梢という女性を知っているか?」

と、華岡が蘭に聞いた。

「ああ、確かに天草さんは、半年前に僕のところに来たよ。リストカットをどうしてもやめられないので、其れで刺青を彫って、それと決別するんだっていってね。今は立派な女流画家じゃないか。こないだ、展示会を見にいって、すごいもんだと思った。」

蘭は自分が知っている限りの事を話した。

「そうなんだね。確かに女流画家として、一生懸命やっているようであるが、実は妙な噂があってねえ。天草梢が、秦野益男と付き合っていたのではないかという噂があるんだ。秦野と天草が、喫茶店で話しているのを、何人かの人が見ているんだ。そのあたり、お前なんか知っているんじゃないかと思ってさ。」

と、華岡は、蘭に聞いた。

「いやあ、そんなことはないね。僕が彼女に施術して、半年以上彼女は連絡をよこしてこなかったし、女流画家になっていたのもまったく僕は知らなかった。だから僕は、今までと同じ生活をしていると思っていた。」

蘭は正直に答える。

「確か、外国から来た男性と結婚したんだったよな。左手の指に指輪がはまってるぜ。すごく豪華な指輪だったから、日本人ではあんなもの、絶対あげるはずないってすぐ思った。」

と、杉ちゃんが口をはさんだ。

「うん、それもわかっている。それは、彼女の両親が、そうさせたということもはっきりしている。でもその前に彼女は秦野と付き合っていた。」

「彼女を疑ってるの?それはないと思うよ。自分をやってばかりの人間が、他人を傷つけるはずがないじゃないか。僕もわかるんだが、そういう自分を傷つけるやつってのは、自分をやっちまうほど、責任感が強くて、なおかつ自分がダメだと思っているからな。」

と杉ちゃんが言った。

「まあ、そうなんだけどね。でも今のところ、秦野に恨みを持つというか、そういうことができるやつは、彼女、天草梢しかいないんだよ。」

華岡は、はあとため息をついた。

「もっと良く調べてみろよ。秦野っていうやつがどんな人物だったのかとか、そういう事もちゃんと、しっかり調べてから彼女を疑うことだな。」

杉ちゃんに言われて、華岡は小さくなった。

「うん、、、そうだねえ。杉ちゃんの言う通りだ。俺たちも、そうしなきゃだめだよな。天草は、画家として成功する前は、結構男性と、つきあっていたんでしょうけれど。」

「はあ。何人かの男性と付き合っていたのか。」

蘭がそういうと、華岡はこういう事を言いだした。

「うん、彼女の両親が外国人男性と縁談を持ち込む前に、彼女は、インターネットで知り合った男性何人かとあっている。まあ、大体の男性は遊びだと思っていたようであるが、中ではそうではない男性もいたようだ。」

「はあなるほどね。その一人が秦野っていうやつだったのね。其れで別れ話のもつれかなんかで彼女がやったっていうんだったらまだ捜査が足りないよ。もうちょっとよく調べてからそういうことをやりな。」

「杉ちゃんにそういうことを言われちゃ困るなあ。俺たちだってちゃんとやっているんだから、からかわないでくれ。」

と、華岡は言うのだが、その顔はまさしく杉ちゃんのいったことを連想するつもりだったらしく、がっかりとした表情をしていた。

「まあ、直ぐに結論を出さなければいけないってことはあるんだろうけどさ。でも、ちゃんとやらなきゃな、警察は。」

華岡はずいぶんがっかりした様子で、頭を下げた。

「そうだねえ。すまんすまん。でも、彼女が黒じゃなかったら、一体誰だったんだろうな。」

其れと同時に華岡のスマートフォンがなった。

「はいはい、華岡だ。何が在ったんだよ。」

「警視、何をやっているんですか。もう何回も電話かけたのに、気が付かないなんて鈍すぎますよ。其れよりも、大事なことなんですけどね。あの、天草梢は、秦野が殺害された時刻に、家族同士で食事会に行っているという証言が出ました。それは、ホテルのレストランの料理長が証言したから間違いありません。そうなると、別の人物ということになりますね。」

早口で言うのは部下の刑事からだった。しかもスマートフォンを通して、声が丸聞こえになっている。

「はあそうなのね。」

と、杉ちゃんは、華岡のスマートフォンから聞こえてくる声にそっと言った。

「まあ、いずれにしても、彼女ではないということは確かなようだな。」

蘭も、そういうことを言う。

「じゃあ、急いで署に戻るから。捜査会議は戻ったらすぐに始めるので、しばらく待っていてくれ。頼むな。」

と、華岡は、そういって電話を切り、

「悪いが署で捜査会議が始まるそうなので、もう帰るよ。」

と急いで玄関先に向って走っていった。まったく、そういう鈍いところが、警視がサラリーマンと言われてしまうゆえんだろうなと蘭はため息をついた。

「しっかし、あんな善良な顔してた女性が、何人もの男性と付き合っていたとは驚きだなあ。」

と、杉ちゃんは言う。

「僕のところに彫りに来たときは、恋愛なんて無縁な女性に見えたけど、案外そうでもなかったのかな。」

と、蘭は一寸首を傾げた。

「まあ、女というのは、別の顔を持っていても不思議じゃないぜ。何処の時代の文献でもいっぱいいるじゃないか。そういう女々しい女。」

「杉ちゃん読み書きできないのに、よくそういうことを知っているな。」

と、蘭は、思わずあきれてしまった。

「そういうことじゃなくて、女というのは、表の顔と裏の顔があるっていうか、あっても仕方ないってことだよ。女ってのは、昔からそういうもんだぜ。」

杉ちゃんに言われて蘭は、

「僕、なんだか損をしたような気がするよ。」

と小さい声で言った。

「でもしょうがないだろう。其れに、客の全部のところを見れるなんてことは絶対ないよ。それはどんな職業でもそうだろうが。さ、ご飯食べよ。」

杉ちゃんにいわれて、蘭はカレーを食べたのであるが、其れもなんだかまずいカレーのような気がしてしまった。

一方、富士警察署では、華岡たちが捜査会議をやっていた。

「えーと、まず初めに、被害者の秦野益男と付き合いが在ったと言われている、天草梢ですが、事件の当日は、家族全員で、静岡市まで出かけておりました。食事したホテルの料理長が目撃してますし、百貨店で買い物をしているのも、店員が目撃しています。なので、彼女が、富士市内で犯行に及ぶといことはできません。其れは、はっきりしています。」

部下の刑事が調べた成果を報告している。

「というと、誰なんだよ。秦野を殺害に至ったのは。秦野の遺族も、早く何とかしてくれと言って、うるさいんだよ。」

確かに華岡が言う通り、秦野の母親が今日も警察署にやってきたという。受付にいた婦警と口論になったというので、迷惑な遺族だと言われていた。

「まあ、そういうひともいますよ。母親にとって、秦野は一人の息子ですし、その子が突然いなくなったんですから、まだ気持ちの整理がつかないんじゃないですか。」

別の刑事が急いでそういうことを言った。秦野は母親と二人暮らしだった。母親の話では、秦野は善良な息子だったという。まさか女の人を傷つけるはずは絶対ないというのだが、親の話なので客観的な事実とはいいがたい側面もある。

「それで、秦野が殺された日、天草家には、本当に誰もいなかったのだろうか?」

華岡が再度聞くと、

「ええ。家政婦の、安田美千代という女性がいたそうで、そこははっきりしています。」

と、部下の刑事は答えた。

「其れなら、その安田は事件が起きた日に何をしていたとか、そういうことは取れているのだろうか?」

「ええ、本人は、天草家の掃除をしていたそうですが、そこは現在裏をとっていません。」

華岡が聞くと、別の刑事はそう答えた。

「それなら、その安田美千代という女性の足を追おってくれ。あと、天草家の事情も頼む。」

と、華岡が言うと刑事たちは、はいわかりましたと言って、刑事課と書いてある部屋を出ていった。



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