1-06 面影の名前
どうしてこんな無様な姿を見せてしまったのだろうと、次第に冷えてきた頭で考える。
しかも今、アトレーゼの身体は他ならぬヴィルダンドの腕の中にある。抜け出したくても抗えないほどに力強く。
不思議なのは、そこになんの恐怖も嫌悪感もないことだ。
ついさっき無理矢理キスされそうになったのに、そのときの言いようのないおぞましさが今はない。むしろ、自分自身でも戸惑うくらい、心地よいと感じてしまっていた。
胸板の厚みや、腕の筋肉が隆起しているのが、服の上からでもわかる。傭兵を辞めてしばらく経っているというのに、鍛え上げられた肉体はまるで現役そのものだ。
そしてその無骨な逞しさとは裏腹に、肌を伝わる心臓の音はひどく優しい。
思えばそれに宥められたような気がする。
アトレーゼの短い人生において、物心ついてから、こんなことはなかった。誰かに抱かれて温められることなんて、一度だって。
……もしもあったとしたら、それは思い出せないほど遠い昔。まだアトレーゼが教会に入る前に。
――お父、さん。
「……落ち着いたか?」
声をかけられてハッとする。顔を上げると、ヴィルダンドがどこか不安そうな眼差しでこちらを見ていた。
「あ、……あの」
「よくわからんが……親の話が、そんなに辛いのかよ」
「それは……。私自身は、父のことをほとんど憶えていません。幼いころに別れたので……」
アトレーゼはなんとなく、ヴィルダンドの首筋を見た。そこには太い血管が通っているはずだ。
いかつい喉仏の下を流れる赤々とした血潮を想って、……それだけで喉を鳴らしてしまいそうな自分の浅ましさを恥じながら、言葉を続ける。
「罪人と知ったのは捕らえられてから……身を寄せた教団内の修道院で、父は悪魔の下僕なのだと聞かされました。
……そのせいで私の身体は呪われたのだと……」
言いながら、なぜこの人にこんな話を聞かせているのだろうと、自分でも疑問に思っていた。それなのに舌がするすると動いてしまう。
だめだ、これ以上は口にしてはいけない。
すべてを打ち明けたりすれば軽蔑される。汚らわしい女と罵られる。突き飛ばされて殴られて、きっともっとひどい仕打ちを受ける。
……でも、それならそれでいいではないか。どのみち己は罪の子で、償い続けなければならない身なのだから。
そう思うのに、……アトレーゼは続きを飲み込んだ。
結局のところ怖いのだ。他者からの非難や鉄槌を恐れるあまり、先んじて自分で自分を罰しているにすぎない。
こんな中途半端な身の上話をしたところで同情を誘うようなものではないか、なんと卑怯で浅ましいのだと、脳内に養母の声が反響している。
――この
「その父親ってのは、傭兵じゃなかったか」
「わかりません。……ですが、違うと思います……」
「なんでそう言える?」
「その……私が憶えているかぎりでは、父はとても穏やかで……礼儀正しい人でしたから……」
なぜヴィルダンドはしつこく父の話を聞きたがるのだろうか。
殺人鬼と傭兵は違う。どちらも人の命を奪いはするが、傭兵がその手を汚すのはあくまで仕事で、金のためだ。それにたいてい場所は戦場で、相手も同じように武器を構えた戦闘技術者だろう。
だがアトレーゼの父は自らの狂った信仰のために、罪のない農民を、つまり武器も持たない丸腰の相手を一方的に嬲り殺したという。
もちろん、傭兵は稼ぎの安定した職業とは言いがたく、食いつめて農村を襲う輩も少なくない。
だからこそ父はそうではなかったと思うのだ。
傭兵の多くは放浪の外来民族や戦災による流れ者で構成されている。その来歴や仕事内容もあって荒々しい人間が多い。
けれどもアトレーゼが憶えているかぎり、父はそれとはかけ離れた人物だった。
柔らかな物腰と、静かな声。丁寧な言葉遣い。
小さなアトレーゼが転ばないように、歩くときはいつも手を繋いだ……それだけをぼんやりと覚えている。
ただ、父といたころのアトレーゼは幼すぎた。
彼の凶行に対してもその善悪すら理解できない年齢だったし、今残っているわずかな記憶もあやふやなもので、だから何ひとつ自信をもって断言はできない。
「……あの……どうしてそんなことを訊くんですか?」
「いや、ちょいとな。こっちの都合だ。……他人の空似ってこともあるか……」
「え?」
「なんでもねえよ。ところでその親父はどうなったんだ」
「わかりません。ただ、もう十八年になりますから……おそらくすでに、……処刑、されたと……思います……」
ここまでヴィルダンドの問いのすべてに、首を振るしかできないでいる。なぜならほんとうに何ひとつ知らされず、かといって調べる術はおろか疑問すらも持たずに、二十年近く無為に生きてきた。
だが、ひとつだけわかることがある。
父の話をして、推測で彼の末路を語るとき、つまり彼が絞首台に上ったことを考えるたびに、胸の奥で骨が軋む音がする。鈍い痛みを伴うそれについては、わかる。
それが――殺人鬼の死を悼む心が、正しいことではないのだけは、はっきりと。
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