潔癖

あべせい

潔癖


 昼時の蕎麦屋「万世庵」の店内。

 お客が30人ほどで満卓になる中規模の一軒家の店だ。JRの駅から徒歩で10分ほどの距離にあるが、周辺には会社や商店が多く、この時刻の「万世庵」はいつも混雑している。

 蕎麦を打ち、茹でて盛りつける厨房には、その家の主人を含めて2人の職人が忙しく動いている。客席のあるホールにも、主人の妻と若い女性店員の2人しかいないため、昼時は目の回るような忙しさだ。

 そのとき、スーツを来た一人の30代半ばの男性が入って来た。一人客は、2人掛け用のテーブルか、カウンター席に誘導するのが、この店の決まり。このとき2人掛け用は、すべてふさがっていて、相席をお願いするしかない。大抵のひとり客はカウンターを選ぶが、この男性は2人掛けテーブルにして欲しいと、応対に出た女性店員の左矢(さや)に言った。

 左矢は、2人掛けテーブルが5卓並ぶ中央寄りの列を瞬時に見た。

 2人掛けに一人が腰掛けているテーブルは1つしかない。しかも、そこには、妙齢の婦人。左矢もよく知っている常連の佐波未(さわみ)が、おいしそうに蕎麦をたぐっている。

 佐波未は、32才。ことし夫を病気で亡くしたばかり。亡夫は高額の保険に入っていたため、いまのところ佐波未はその保険金で暮らすことが出来る。

「奥さま、ご相席、お願い出来ますか?」

 左矢は、申し訳なさそうに佐波未に話しかけた。

「エッ、あっ、そうね。どうぞ……」

 佐波未は一旦、箸を置き、傍らに立つ男性を見た。男性は、この地域を管轄する警察署に勤務する道広歩夢(みちひろあゆむ)だが、この日は夜勤明けで、帰りがけに蕎麦屋に立ち寄った。ただし、この店に来るのは、初めてだった。

 警察署から自宅までの最寄り駅とは逆方向になることや、「万世庵」の店構えが昔ながらの木造平屋だったことから、彼の好みに合わなかったのだ。

 しかし、この日は、勤務する警察署から近い、独り暮らしの母のようすを見ようという気持ちになり、最寄り駅がある方角とは逆だが、母の住む生家に寄ってきた。

 母はあと3年で古稀を迎える。足腰が少し弱いだけで、まだまだ元気だ。そして、息子が帰る間際、こう言った。

「久しぶりに、『万世庵』のもりが食べてみたい」

 蕎麦なら出前をとれば、ことは簡単だ。しかし、「万世庵」は昔から、出前はしていない。時間が経って、伸びた蕎麦を食べてもらいたくないからだ。

 そこで歩夢は考えた。まず本当にうまいのか。自分の舌で確かめる。そして、うまいとわかったら、休日に母を連れて行く。

 歩夢がこの日、万世庵に来たのには、こんな事情があった。彼自身、蕎麦は嫌いではない。しかし、母ほどには好きではない。彼は、外で食事をすることに抵抗があった。

 俗にいう「潔癖症」。歩夢は、左矢に案内されたが、すぐ腰掛けない。佐波未が彼の動作に違和感を覚えたのは、そのときだ。

 歩夢はポケットから、手の平にすっぽり隠れる小さなスプレー缶を取り出し、佐波未の前の空いた椅子の座板に、スプレー缶から泡を吹きつけ、ハンカチで何度も拭った。座板が終わると、背板、そして次ぎに、テーブルに目をやった。

 佐波未はまだ食べている。佐波未は箸を止め、立っている歩夢の顔を見上げた。

「どうぞ、かまいません」

 佐波未は、もり蕎麦と蕎麦猪口が載っている角盆を、顔の高さに捧げ持った。

 歩夢は、「失礼します」と言い。スプレーの泡をテーブルに直接吹き付けずに、ハンカチに吹き掛けて、そのハンカチでテーブルを拭いた。さすがに、美女の手前、気が引けたのだろう。佐波未のような美女でなければ、テーブルに直接たっぷり除菌スプレーの泡を吹きかけ、テーブルを拭いたに違いない。外で食事をするときの彼の決まりだからだ。

 その儀式を終え、歩夢はようやく席に着いた。

 左矢はそのようすを見ていて、不愉快な気分にはならなかった。彼女自身も、不潔や不衛生なことには、とても抵抗がある。歩夢ほどではないが、外食するとき、彼のようにしてみたいと思うことがよくある。だから、この「万世庵」では、いちばんに清潔を心がけ、お客が使ったテーブルと椅子は、その都度、丁寧すぎるほど拭き、そのあと、消毒用アルコールの入ったスプレー容器を使い、殺菌している。

 左矢は、歩夢が腰掛けたのを確認してから彼のところに行き、注文を聞いた。

「もり。それと、天ぷら蕎麦。蕎麦稲荷をお願いします」

「エッ? 全部ですか?」

「はい」

 歩夢は、当然のような顔をして答える。一人で食べきれるのだろうか。歩夢は細面のスリムな体をしている。しかし、痩せの大食いということばもある。

 左矢は「ありがとうございます」と言って、厨房に注文を通してから考えた。見かけは、普通の男性だ。どちらかというと、美男のほうだろう。言葉遣いも丁寧で、好感がもてる。しかし、あのスプレーには……。

 左矢は、まだ23才。「万世庵」の女将の姪であり、女子大を出てから、手伝いのつもりで「万世庵」に来て、もうすぐ2年になる。歩夢のように、椅子やテーブルを消毒する客は初めてだった。

 歩夢が注文した品が出来、左矢は角盆に載せて運んだ。しかし、2人掛けのテーブルは、60数センチ角だから狭い。左矢は調味料入れなどをカタして、なんとかスペースを確保しようとする。すると、真向かいの佐波未が、

「左矢ちゃん、わたし、もう終わったから……」と言い、立ちあがった。

 佐波未の角盆を下げれば、歩夢のスペースは確保できる。

「すいません。佐波未さん、ありがとうございます」

 左矢はそう言って、頭を下げた。

 その3、4分後だった。

 佐波未が財布を開き勘定をすませて「万世庵」の外に出た。

 その直後、

「キャーッ!」「ドロボーッ!」

 と、叫び声。

 佐波未だ。

 歩夢は、その声が聞えると、脱兎のごとく店を飛び出した。見ると、佐波未が道端にしゃがみこみ、ぶるぶると震えている。その向こうを、佐波未のバッグを掴んだ若い男が、全速力で駆けて行く。かっぱらいだ。

 歩夢は瞬時に走った。名前とは大違いのスピードだ。

 それでも、30秒近くかかったが、歩夢は若いかっぱらい犯を捕まえ、いつもポケットに忍ばせている結束バンドで、彼の両手を縛り上げた。現行犯逮捕だ。

 非番だが、仕方ない。歩夢は、携帯電話でパトカーを呼び、犯人の若い男と佐波未を乗せると、赤塚署に移動した。そのとき彼の頭から蕎麦のことはすっかり消えていた。

 犯人の男は佐波未と歩夢のテーブルの後ろの席にいたが、佐波未がレジで財布を開いたとき、彼女の後ろにいて、中に万札が10数枚入っているのが見えた。で、出来心で、犯行に走った。

 

 数ヵ月後。

 「万世庵」に、歩夢と佐波未が2人揃ってやってきた。時刻は、昼時の混雑がひと段落した午後2時過ぎ。

 左矢は2人を見ると、店の一番奥の2人掛け用テーブルに案内した。そこには、「予約」と記した小さなプラカードが置いてある。

 佐波未が腰掛けた後、歩夢はポケットに手を忍ばせた。すると、左矢が、

「椅子もテーブルもしっかり消毒してあります。安心して、お掛けください」

 と言い、緑茶の入った湯呑みを2人の前に並べた。しかし、歩夢が、ポケットに入れた手を出すと、そこには真っ白なハンカチが握られている。除菌スプレーではない。左矢はそうと知って、小さな声で「失礼しました」と言い、顔を赤くした。

 すると、歩夢が、しっかりと左矢を見つめて、

「ぼくたち、近く結婚することにしました。まだ、交際の最中ですが、結婚を前提としたつきあいだと思ってください。佐波未さん、そうですよね」

 歩夢は、そう言って、佐波未に強い視線を送った。

「はい。わたくしも、そのつもりです。ただ……」

「エッ、ただ?……」

 歩夢の顔に陰りが出る。

「ただ、わたくしは、結婚していただくのなら、あなたに警察官をやめていただきたい」

「……」

 歩夢は、初めて聞く佐波未のことばに唖然となった。

「どうしてですか? 警官のどこがご不満なのですか?」

 当然の疑問だ。

「亡くなったわたくしの父は、家具職人でした」

「そのお話は、先日うかがいました」

「父が、ある方から依頼されて、船箪笥と呼ばれる、高価で古い家具の修理をしてお客さまにお納めしたのですが、その船箪笥の隠し抽斗にしまってあった貴金属が無くなったことから、父が盗んだと疑われ、警察に何度も取り調べを受けました。父は結局、そのことがもとで病気になり、亡くなりました」

「でも、お父さまは結局無実だったのでしょう?」

「勿論です。冤罪です。しかし、警察は被害者の訴えのほうを信用して、父を長時間にわたって責めました。被害者の方が、いまでいう認知症だとわかったのは、父が亡くなった後でした」

 歩夢は、ことばを失った。警察ではよくあることだ。警察官は、人を疑うことから始める。人間性悪説とでもいえばいいのだろうが、警察学校で最初に教えることは、「人を見たら、泥棒と思え!」だ。

「佐波未さん。あなたのおっしゃることはもっともです。しかし、私は警察官をやめることはできません。私には2つ下の妹がいましたが、母が買い物に出かけていて、一人で学校から帰ったとき、侵入していた泥棒と鉢合わせして、居直ったその男に首を絞められ殺害されました。私が小学6年のときです。犯人はいまに至るまで捕まっていません。そのことがあって、私は警察官になろうと考え、きょうまでやってきました。いまは交通課の警官ですが、刑事を志望して勉強に励んでいます。ですから、少なくとも妹の無念を晴らすまでは、警官を続けます」

 2人の会話は、それで途切れた。2人は黙々と蕎麦をすすった。左矢は、離れたところから、そのようすを見ていて、男女の出会いの難しさを感じた。

 左矢には恋人と呼べる男性はいない。しかし、好きになった男性が、歩夢と佐波未のように考え方や価値観が異なっていることがわかった場合、どうしたらいいのだろうか。

 やはり、別れるべきなのだろうか。それとも、考えの異なる部分には互いに触れないで、過ごすのがいいのだろうか。

 そのとき、佐波未が、

「お先に、失礼します」

 と言って席を立った。左矢は慌ててレジに行き、佐波未ひとり分の勘定を受け取った。

 佐波未は、歩夢のほうを振り返りもせずに店を出て行く。左矢が佐波未のいたテーブルに行くと、佐波未はもり蕎麦を半分以上残している。

 左矢が、佐波未の食べ残した蕎麦の容器を片付けていると、歩夢がふと顔をあげ、

「ちょっと聞いていただけますか」

 と、言う。

 左矢は、周りをみて、客が少ないのを見て取ると、「少しなら」と言い、テーブルを拭きながら、話を聞く体勢になった。

「私がこちらに初めておうかがいしたとき、除菌スプレーを使ったことを覚えておいででしょう。でも、いま帰った女性と交際を始めてからは、やめています」

 左矢は頷く。

「私の父は家具屋をしています。佐波未さんのお父さまは家具職人で、私の父とは仕事仲間でした。お話をしてわかったことですが、小さい頃、私たちは会っていたことがあったそうです。私の記憶にはないのですが。私が除菌スプレーのような化学物質を使用するのは、父が家具を販売しているとき、或るお客さんから「変な匂いがする」とクレームをつけられたことがきっかけです。私が中学の頃です。そのときの困った父の顔が目に焼き付き、大人になったら、清潔を心掛けようと思ったのです。しかし、私の潔癖症の始まりは、その程度のものですから、いつでもやめられます。佐和未さんに合わせることは簡単です。しかし、警察官はやめることができません。例え、交通課でも、世の正義を貫くことですから」

 歩夢は、そう言ってから、店を出て行った。


 10日後。

 歩夢は、交通事故の自損事故で、事故証明を切るため、同僚と出かけた。

 すると、そこに佐和未がいた。車が、歩道の縁石に乗り上げ、その挙句、車体が縁石をまたぐ形になって持ち上がり、車輪が空転している。普通なら、車の修理屋を呼んで、車体を持ち上げればすむことだが、なぜか警察に電話がかかった。

 佐和未は歩夢を見ると、すぐに近寄って行き、言った。

「歩夢さん、会いたかった。こうでもしないと会えないのですもの……。浅はかな女です。ごめんなさい。でも、もう一度、会ってお話がしたかった」

 歩夢は佐波未の真剣な眼差しを見て、

「ぼくも、同じ気持ちです。ぼくたちの価値観の違いが、どの程度なのか、一緒に暮らしてみないとわからない。ぼくには、その覚悟があります」

 すると、佐和未は、歩夢の同僚が車体を点検している間に,そっと歩夢の手を強く握った。歩夢もそれに応える形で握りかえした。


 1年の月日が流れた。左矢は、「万世庵」でまだ働いている。すっかり仕事になれ、2人前の仕事をこなす。

 その日、出前を頼まれ、岡持ちを持ってマンションの一室に急いだ。出前はそれまでしていなかったが、忙しくない午後2時から4時までに限り行うようになった。出前の注文はもり4枚だ。

 玄関のチャイムを鳴らすとき、玄関ドアの脇にある表札を見ると、「道広」とある。初めての出前だ。

 ところが。「ハーイ」と返事が聞こえ、中からドアを開けたのは、佐波未だった。

「佐波未さん!……」

 左矢は驚きの余り、その後の声が出なかった。

「左矢さん、お久しぶり。きょうは、こちらに遊びに来たの。お義母さまとご一緒に、お蕎麦をいただこうと思って……」

 すると、奥から、女性の声で、

「佐波未さん。左矢さんにも、こちらに来ていただいたら……」

 左矢は考えた。顧客に挨拶するのも仕事の一つだ。まして、左矢は蕎麦屋の女将の姪に当たる。忙しい昼時は過ぎているのだし、10分程度なら、差し支えないだろう。

 左矢は、岡持ちを手に下げたまま、佐波未の後についてリビングに入った。そこには、歩夢と彼の母と思しき女性が、丸いテーブルについていた。

「さァ、みなさん揃ったところでいただきましょう」

 歩夢の母、あゆが言った。

「わたしくもご一緒できるのですかッ」

 左矢は、文字通り面食らった。お客と一緒に、商売の蕎麦を食べるなンてことは初めてだったからだ。

「母が『万世庵』のお蕎麦を食べるのは、これが初めてです。左矢さんにいろいろお聞きしたいことがあるそうですから。ご迷惑でしょうが、おつきあいください」

 歩夢がそう言って、母あゆの隣の席を勧めた。

 4人は、楽しく食事をした。左矢は10分のつもりが30分近くになり、店に電話を入れ、事情を説明して了解をもらった。

 あゆは蕎麦粉の産地をはじめ、だれが蕎麦を打ち、どんな茹で方をしているのか、根掘り葉掘り細かく問いただした。左矢は知っている限り丁寧に答えた。

 あゆは聞きおえて満足したようすで、

「ありがとうございます」

 と言い、感謝の気持ちを伝えた。

 しかし、これがとんでもない事態を引き起こした。

 歩夢の亡くなった父は、亡くなる数年前まで、家具屋をやめてから、趣味で蕎麦を打ち、あゆに食べさせていた。あゆは「万世庵」の蕎麦に亡夫の味を思い出し、頻繁に左矢に出前を注文するようになった。そこまではいい。

 ところが、すでに同居していた佐波未と歩夢が、区会議員選挙の投票をめぐりケンカになった。

 佐波未は、「だれに投票するかは夫婦の間でも秘密にするべきよ」と言うのに対して、歩夢は、「それはおかしい。ぼくたちは一緒に生活している。政治は住民の生活すべてに関係している。同じ候補者に投票するのが、当たり前のことだよ」

 2人の意見の食い違いはこれまでも度々あったが、今回はもっともひどく、互いに譲ることが出来なかった。

 翌日、歩夢は、佐波未のマンションにもってきた荷物をまとめて、母のいる元の住まいに戻った。

 2人の関係は終わった。価値観の違いが2人の間を引き裂いたのだ。

 その後、歩夢は、あゆの勧めで、左矢と交際を始めた。

 あゆは、孫の顔が早く見たい。左矢に満足している。歩夢も、左矢は嫌いではない。むしろ、好ましく思っている。年齢は、歩夢より10才も若く、こどもを産むのにも、申し分ない年齢だ。

 左矢もまた、歩夢の潔癖症と律儀な性格を好ましく思った。2ヵ月後、2人は結ばれ、翌月晴れて結婚した。新居はとりあえず、あゆとは別にマンションを借りた。左矢は蕎麦屋の仕事を続け、歩夢もまた警察官の仕事に励んだ。

 新婚時代の1年は、アッと言う間に過ぎた。しかし、左矢には一向に妊娠の兆候が見られない。2人のどちらかに問題があるのか。あゆは、それだけを心配していた。

 そんなとき、家具職人だった佐波未の亡父の冤罪が13年ぶりに晴れるという、出来事があった。

 船箪笥の抽斗のカラクリに残されていた正体不明の指紋が、最近逮捕された男の指紋と一致したのだ。犯人は、佐波未の亡父が使っていた弟子職人だった。佐波未はそのことで、再び歩夢に会う機会があった。

 その頃、歩夢は交通課を離れ、希望する刑事課に異動していた。窃盗専門の刑事2係だ。

 その2ヵ月後、佐波未の妊娠が発覚した。歩夢のこどもだった。歩夢は、左矢に隠れて佐波未と会っていたのだ。

 左矢はすべてを知ると、引き下がる決意をした。左矢はまだ若い。佐波未は出産を決意し、あゆのマンションで、歩夢と同居すると申し出た。

 佐波未と歩夢は価値観の違いを、この先どう乗り越えるのか。2人の結婚は挙式をせずに、役所に届けを出すだけの簡単なものだったが、歩夢にも佐波未にも不満はない。問題は、選挙意外にも、これから起きるであろう価値観の違いをどう乗り越えていくのか。2人の関心は、いまそのことに向いている。

 10ヵ月後。

 かわいい女の赤ちゃんが誕生した。2人は、「あゆさ」と名付け、その子に夢中になった。「あゆさ」に関して2人の価値観は完全に一致している。これで、夫婦はうまくいくだろう。

 しかし、あゆは、2人が子育てに夢中になっている姿を見て、亡夫を思い出した。あゆもまた、亡夫と、価値観の違いから、よくケンカをした。最も大きかったのは、歩夢の中学進学のときだった。あゆは、私立の名門にこだわった。そこなら、大きな問題がない限り、息子はエスカレーター式で、大学まで進学できる。しかし、亡夫は、こどもに受験の苦労をさせ、社会に送り出したいと考えていた。

 2人は、離婚寸前までいった。そして、歩夢が中学3年の夏に、あゆの夫は急な病で亡くなった。歩夢は母の勧めを蹴り、父が望んだ進学校を受験して、見事に合格した。

 あゆの母は、歩夢が警察官になることにも難色を示した。役人ではなく、自分で店を経営する亡夫のような自営の職業を望んだ。あゆが亡夫との結婚を決意したのには、愛情以外に、亡夫が妻の身近で働く自営業という点が大きかった。

 この先、歩夢と佐波未に、どんな問題がおきるだろうか。

 そんなとき、左矢が、あゆがひとりでいるマンションをひそかに訪れた。

「歩夢さんのこどもを妊娠しました」

 と、告げたのだ。

 勿論、左矢の作り話だが、左矢は歩夢との結婚生活が忘れられず、錯乱しているようすだ。

 あゆは、左矢の話を聞いて、とてもウソをついているとは思えず、頭が混乱した。どうすればいいのか。

 歩夢には、もうすでにこどもがいる。2人目の孫が出来たと喜んでいる場合ではない。

 あとの解決は、歩夢に託すしかない。そう思ったとき、左矢が言った。

「お義母さん、わたしはどうして歩夢さんと別れなければいけなかったのでしょう。どうして、わたしは離婚を承諾したのか。佐波未さんに赤ちゃんが出来たというだけの理由で。もう一度、元に戻って、話し合いはできないでしょうか……」

 左矢の顔は、異常なまでに険しくなっている。あゆは、亡夫との価値観の違いが、息子に引き継がれているのではと感じ、薄ら寒くなった。しかし、左矢の妊娠を歩夢に告げることはしないでおこうと考えた。あとのことは、息子の判断に任せるしかない。

 左矢は、あゆの困惑した表情を見ていて、内心、気持ちが安らいでいくのを感じずにはいられない。

 この先も、こうして、歩夢とかかわっていくのが、わたしの生き方なのかもしれない。左矢はそう考えながら、

「お義母さま、きょうのことは歩夢さんには、内緒にしておいてください。わたしが直接、彼に言います。想像妊娠ということもありますから……」

 と言って、晴れやかな表情になった。

 わたしは、この先、歩夢をこっそり追いかけていこう。会ってもらえなくてもいい。あのひとの潔癖症は、わたしにしか理解できないのだから。

                     (了)

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潔癖 あべせい @abesei

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