【落語台本】メアリー

紀瀬川 沙

第1話

▼甲府 生糸商家の大廈高楼


【明治十年頃のお話。甲府のとある大きな商家のお屋敷でのこと。年の瀬から猛威を振るう寒波はここにも強烈な寒気と乾燥をもたらしております。それでも不幸中の幸いでまだ雪は少ないものの、年も改まって三が日も過ぎたというのに、あたりでもひときわ大きいお屋敷に例年の賑わいはありません。数年前、徳川の時代には甲府城の勤番士も務めたお家柄。輓近巷間で騒がれる没落士族とも決して縁のないところに、いったいどうしてしまったのでしょうか】


お花   「はっくしゅん、くしゅん」

義母   「おーい」

お花   「・・・(心ここにあらず呆っとしたまま)」


【夕暮れが近づき、至る所で影の濃くなった家のなか、襖の向こうから快活な足音が近づきます。もとからの冬の静けさに加え、わずかに日中に溶け残った雪も音を吸っていっそう静かな屋敷の一室。静謐な空気のなかで座り込む身重の未亡人が呼ばれております】


義母   「お花、ちょいと、お花。聞こえるのかい?いるかい?」

お花   「・・・」

義母   「お花ったら、ああ、いたいた」

お花   「ああ、はい。お義母さん、いかがしました?お義父さんに何か?」

義母   「違うよ。昼前から全然あなたが見えなくて、あっという間に夕方になったもんだから、裏山も庭も小屋も探して探して」

お花   「ごめんなさい。すぐにはやることがなかったものですから」

義母   「そう。いや、あたしも急用ってわけじゃないんだけどね。さっきさ、庄屋の田中さんから聞いたのだけれど、またお葬式だって。あちこちで続くねえ」

お花   「えっ、どなたの?」

義母   「蔵町の、糸の工場長の奥さん。葬儀の日付はまた教えてくれるって」

お花   「まぁ、ご愁傷様で。うちとも商いでお付き合いがあるから」

義母   「そうね、丁寧にね。喪服も整えなきゃ。お父さんは、動けないね」

お花   「でもまぁ急に。先月のこちらのお葬式にも来てくれて、元気な様子だったのに」

義母   「それが、コレラだって。本当にころりとだよ。他にも町のほうではちょこちょこ出てるらしいよ。本当に気を付けないと駄目だね」

お花   「え、ええ」

義母   「甲府の町で秋から流行ってたやつが来たんだよ。一昔前は、土佐の板垣退助の兵隊と一緒にやってきた。また来た。お札を買わないと」

お花   「去年から変な風邪もあるところに、また」

義母   「そうだね。風邪もこれからの季節、注意だよ。なんでも、若い人ばかりが亡くなると分かってきたらしいよ」

お花   「新聞にありましたね。若い人ばかりですか、怖い」


【今日日はびこる病魔が若者を狙い撃つと改めて聞いて、お花の美しい顔に影が差します。夕暮れ時の陰翳とは違う、真新しい追憶からくる悲哀の色がにじみます】


義母   「ごめんね、いやなことを思い出させてしまったみたいで」

お花   「いいえ。あの人のことは」

義母   「あなたも気を付けないとと言いたかったんだ」

お花   「っくしゅん」

義母   「あら、言ってるそばから。まさか、日がな一日ここに?」

お花   「いえ、まあ」

義母   「こんな、冷え切った一間に」

お花   「だ、だいじょうぶです」

義母   「自分の体にも、お腹の子にも悪いよ」

お花   「ごめんなさい。ついぼうっとして、気づくと。どうしてでしょう」

義母   「簡単なこと。それだろう?」

お花   「えっ?」


【義母が指差す先には、黒い光沢の、それはもう立派な仏壇が。由緒のない物を探すほうが難しいこの屋敷のなかで、この仏壇ももれなく古く貴重な物であるにもかかわらず、今の手入れも抜かりなく行われていることがわかります。ただ、悲しいのは、そこに置かれている位牌には昨年の銘が】


義母   「せっかくもまぁ、うちに来てくれたのに、亭主のほうがあんなあっけなく死んじゃって。嫌な風邪が憎い」

お花   「・・・」

義母   「残された身の辛さはわかるよ。一時は里に帰りたいのかと。あなたの好きなように、と今でも思っているよ」

お花   「他の家では冷たくされてても致し方ないことだったと思います。わたしも、里に帰るように言われればそうしようとしていました」

義母   「うちとしてはそんなことは決して」

お花   「ありがとうございます」

義母   「でも、まあ、すぐに天祐のような、その子が動き出してくれた」

お花   「(お腹をさする)」

義母   「こう言っちゃあなんだが、もういない人のことをくよくよするのはいけないよ。時間とともに忘れても」

お花   「いや、それは」


【とつぶやいてお花が義母から視線をそらしたその先には】


義母   「当人の亡きあともこんなありありと姿を写す写真という物も、考えものだね」

お花   「変わらない姿。今にも出てきそうで」

義母   「少し笑った顔して。もっと凛々しくしなと言ってやりたいね」

お花   「ふふ」

義母   「見るにつけても、忘れられないのかい?」

お花   「はい」

義母   「うれしいけど、困ったね。うちも家長があの通り老齢の長患いの寝たきりだ。そんなところに急に、あの子が先に逝くとは、この年まで生きてきても予想もしなかったよ」

お花   「誰もできません」

義母   「おっと、しんみりしちゃいけないね。ああ、一段と冷えてきた。ま、今すぐには難しいのは当たり前だ。年もかわって、むつききさらぎやよい、少しずつ少しずつ」

お花   「ご心配かけてごめんなさい。さあ、日も暗くなるのでいつまでもこうしてはいられませんね」

義母   「うん、そうさね。ご覧。真っ赤に空が焼けて」

お花   「きれい」

義母   「身重の体に火は見ちゃいけないって言うけど、夕焼けはどうなんだろね?」

お花   「こんなきれいな景色ですもの、悪いことないでしょう」

義母   「そうさね」

お花   「よいしょ、夕餉の支度を」

義母   「手伝う手伝う」

お花   「ありがとうござ、はっくしゅん」

義母   「やっぱり、こんな寒いところに長いこといたから、風邪ひいたんじゃないのかい?」

お花   「だいじょうぶ」


【もの悲しさが辺り一面に瀰漫する斜陽のお屋敷。二人の心の営みも知らず、時はまた一日を終いにかかって、空は赤から黒のグラデーションラインで移り変わってゆきます。この移り変わりに急かされるように、義母も未亡人も家政に戻ります。誰もいなくなった無音の仏間に、遠くから未亡人の慎ましい嚏(くしゃみ)の音が聞こえます。続くお話は次回にて】

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