第2話 多忙を極める剣
「signal これは?」
「えーと……懺悔する?」
「信号、合図」
プレイヤーズ・ハルドナリはシラサトの街の外れ、まばらに露店が散らばる道の路地裏にある。
朝早いということもあって事務所にはまだ人が揃っておらず、静かでひんやりとした空気の漂う中で、二人のプレイヤーが向かって右下の長机で対峙している。
「chase これは?」
「えーと……自供する?」
「追跡――――10問中4門正解」
「はあ、難しいねえ」
「詠語は基本的に魔族に対して使用するもんだから、懺悔や自供なんてあっても使わねえよ」
「あっ、そっかあ」
本や新聞が散らばる長方形の机に空気が抜けたように突っ伏す銀髪の女性。
臙脂の袴と緑の振袖、彼女はカスミ・タナビク。イタル・ムギノトキの同僚で、三番隊の仲間だ。
机に突っ伏したまま唸り声を出していた彼女はしばらくして苦しそうに顔を上げた。銀色の髪がふわりと揺れ、切れ長の目が姿を現す。清風明月とでも言おうか、爽やかな印象を与える女性である。
「毎日勉強してるのになあ」
おかしいなあ、と首を傾げるカスミ。彼女はプレイヤーでありながら、詠語の知識に疎い稀有な存在であった。そんな状態でありながら、プレイヤーとして籍を置けているのは、彼女に替えのきかない長所があるからだった。
その長所は机の上に置いてある細身でしなやかな刀―――――彼女の魂とも呼ぶべき存在に秘密がある。ここシラサトは古来より刀の産地として知られているが、それに伴い剣術の達人も多く存在する。彼女の家はシラサトでも随一の剣術家を多く輩出しているのだ。
イタルはカスミの刀に一瞥をくれながら尋ねる。
「ちなみにどうやって勉強してるんだ?」
「お風呂で声に出しながら読んでる」
「それ定着しないやつだぞ」
イタルは事務所に顔を出す場合同僚の中でも大体一番乗りで出勤してくるのだが、つい先日早朝にカスミが詠語の勉強を熱心(かどうかは分からないが)にやっているのを見かけてから、その勉強に付き合っているのだった。
「とりあえず言葉を覚えないと始まらないからな」
イタルが学生の頃使っていた教科書を捲りながら答える。
「あっ、それ懐かしいなあ」
「懐かしいって、お前も持ってるんじゃないの?」
「いや、どこに行ったか分かんなくなっちゃって、今は新しい本を使ってるの」
イタルとカスミは共にシラサト出身で、同じ学校に通っていた過去がある。
高等部の時期に一度同じ組になったものの、人と距離をとっていたようにみえたカスミと(少なくともイタルの視点からすればそう見えた)イタルが仲良くするようになったのはこのプレイヤーハルドナリに加入してからだった。
実技でズバ抜けた成績を残しながらも、座学では教師から名指しで叱られていた彼女は、周りから不思議がられ畏敬を集めると同時に敬遠されてもいた。しかし、実際に面と向かって話をしてみると気さくで心優しい一面が覗き、気の抜けた天然な部分は愛嬌に寄与していた。
学生時代のどこか浮世離れしていて神秘的な印象とは随分違う……彼女の中に何か変化があったのだろうか、イタルは毎朝彼女の勉強に付き合う中で不思議に思う。
「あれ、今日も早いね二人とも」
眠たそうにあくびをしながらやってきたのは副団長兼総務長のトキワ・ハルドナリだった。
執務室や会議室の鍵をあけながら二人のもとへ近づく。
「お勉強中? 感心感心」
前団長ミドウ・ハルドナリの娘である彼女は、若いながら事務方をまとめハルドナリの屋台骨とも言うべき存在である。
「おはようございま~す」
「隊長がいないと大変じゃない? 大丈夫?」
「いえ、なんとかなってます」
三番隊の隊長であるフキノ・ハナサクは現在研修で帝都におり、不在期間中はイタルが隊の音頭をとっている。
前日の失敗は脇に置いて、三番隊の活動は順風であることを主張するイタル。
「あれは、何とかなっていると言えるんでしょうか」
その声を聞いてハッと振り返るイタル。そこには出勤してきたスズが少しにやけた顔で立っていた。
「えっ、なになに?」
「おい、それはいいだろ」
興味を示すトキワを見て、これはいけないと察したイタルは焦燥する。
「冗談ですよ、石につまずいて転んだみたいなレベルの事です」
「そう、ならいいけど、無茶はしないでよね」
「あっスズちゃんおはよ~」
「あっ、カスミさんおはようございます」
自分の陣地にドカッと鞄を置いて椅子に座るスズ。
時が進み俄かに活気づき始めたプレイヤーズ・ハルドナリには人がポツポツと揃い始めていた。
プレイヤーの一日の幕開けである。
◇
今日の三番隊は昨日と一緒で遠出をするため、速い時間に事務所を出発した三人は、転移門を二つ乗り継いで地方都市のイシダテへ辿り着いた。
繁殖もせずどのように生まれているか分からず未だ判明しない謎の多い魔族だが、長年の経験則から人間の目の届かない所で生まれているということは分かっている。広い平野が存在するこの地は穀物の産地として有名だが、人間の居住地の端に位置するため魔族の脅威にさらされることが多かった。
何度かこの地に来たことのある三人は転移門広場でシラサトとは違う空気を存分に吸い込んだ。
「空気が乾いてるよね」
カスミはうんと伸びをしてそう言った。
山並に囲まれて狭い土地に住居を広げるシラサトと違い、イシダテは広大な平地に余分なスペースを残して住居を広げており街全体が二倍増しで広く感じられる。その代わり時々土埃が路面を舞い石畳を黄色く染めていて、それもシラサトとの色の違いの一つと言えた。
イシダテの役場は石材で出来た巨大な建物である。
昨日行ったカカリ村の役場とは勿論桁違いの大きさを誇るが、シラサトの街の役場と比べてもこの建物は二回りも大きい。穀倉地としての側面と、対魔族最前線としての側面とでイシダテには人が集まり賑わい、人々は忙しなく行き交っている。
「何回か来たけどやっぱ緊張するな」
あけ放たれた巨大な扉とそれに続く大階段を見上げながらイタルは呟く。
彼の今日の服装は前回より幾分落ち着いてはいるが、マントの中に着ているやたら濃ゆい紫色の毒々しいシャツは時々人々の目を引いていた。
階段を上り、役場の中に入り受付で名前を告げる。
「森林東三課ですね、案内はそこの看板でどうぞ」
「東の三……」
「あっ、ありましたよ先輩、三階の奥の方です」
看板に描かれた地図を背伸びして指さすスズ。三人は地図にある森林東三課へと向かった。
三階に辿り着くと、一つの大きな廊下を各々の装備を着こんだプレイヤーが行き交っていた。天井にたくさんの案内板が吊り下げられており、三人はプレイヤーとぶつからないように注意しながら廊下を進んでいく。
重厚な鎧、靡くマント、十人十色のプレイヤーがすれ違いざまに同業者を値踏みするように見つめる。
「苦手なんですよねここ」
スズは小声で不満をたらす。イタルも同意だった。プレイヤーとしての尊厳は勿論持つべきだが、このように互いが互いを「こいつはショボそうだ」とか「こいつはやり手だな」など見た目で判断を下すような空気はあまり好きではない。
どちらかと言えば……というよりも完全にナメられた視線をぶつけられるイタルは中に着た紫のシャツを「性能はピカ一だからな」と宣伝して歩きたい気分でいた。
ただそんな中、隣を歩くカスミはいい意味での視線を集めているように思えた。静かな足取りで上の案内板をあれでもないこれでもないと指差しながら歩く彼女を、男女問わず見惚れるように眺めている。
昔からそうだった。高等学校の廊下でも一人で静かに歩く彼女を、みな羨望の眼差しで見つめていた。イタルは昔の思い出に微かに残る学校の廊下と役場の廊下を自然と重ねていた。
「ん、どうしたの?」
「や、あんま上ばっか見てると危ないぞ」
自然とカスミを見つめていたことを誤魔化すように取ってつけた警告を送るイタル。
「うん……あっ」
瞬間、後ろを振り返っていたカスミは会話をしながらすれ違うプレイヤーにぶつかりそうになった――――――が、すんでのところで身を翻してそれを躱す。
「おい、あぶねえな」
ぶつかりそうになったプレイヤーは、自分もさっきまで横を向きながら会話をしていたことを棚にあげ、カスミをにらみつける。
「ごめんなさい」
謝るカスミの美貌を見て一瞬たじろいだかにみえたプレイヤーだが、すぐに居直って「気をつけろよ」と立ち去って行った。「見たことない徽章だぜ、きっとド田舎のプレイヤーさ」という捨て台詞を吐いて。
「何あれ、感じわる」
「いいよ、後ろ向いてたのは私だし。あっ、あったよ」
カスミが示す先には森林東三と書かれた案内板があった。
◇
「すみません」
イタルは受付から身を乗り出して声を上げるが、職員は仕事に追われているのか中々反応してくれない。
「すみませ~ん!」
今度はお腹から絞り出すように声を上げ、何人かの職員を振り向かせることに成功する。
「すみません」
申し訳さそうに頭を下げながらやってきたのは小柄な中年の男だった。イタルがハルドナリからきたと告げると、「え~と……」と頭を抱えて「椅子に掛けてお待ちください」と案内された。
その後随分待たされた三人の目の前に現れたのは先ほどと同じ男だった。
「え~、ジロウの討伐依頼ですね……生息域はこのあたり、地元では焼かれずの森と名付けられてはいますが炎の類の魔法はお控えください」
「焼かれず?」
「山火事を有史以来免れているとされる森です」
話には聞いたことがあった。落雷や人為的火事をなぜか回避する神秘の森があると、今回はそこへ足を踏み入れるわけだ。
「……」
そこまで話したところで男は押し黙る。ジロウは山犬に似た鋭い牙と爪を持つ獰猛な魔族で、迩級の扱いとされることが多く、場合によっては命の危険もあるためもう少し説明が欲しいところだった。
「え~と、他の魔族が紛れたりはしていますか?」
「おそらく、ないと思われます」
おそらくでは困る、と言いたかったイタルだが先ほどから頭に冷や汗を書く事務員を見て言葉を飲み込む。人手が足りず、もとの担当者が何かの理由で出てこれないのだろうか。
仮ではあるが一応隊の指揮を任されている身であるため、正確な情報のやり取りを求めることは必要だ。書類の担当者の名前と、目の前の男の名札を見比べてみると案の定名前が違う。
イタルがそれを指摘すると、男は「申し訳ありません、前任が突然蒸発しまして……」と答えた。
本来ならばここで「話になりません」と依頼を突っぱねる事も出来るのだが、遠出してきた手前手ぶらで帰るのははばかられた。
「一応、この書類に特記事項が明記されていますので……」
男の態度は、このまま仕事をふいにするのはどうか勘弁してほしいから、そちらで何とかしてくれないかという強い願いを感じた。
結局イタルはそれを受け取り任務へ向かうことをしぶしぶ承諾する。男はその場で神経質そうな使い魔を繰り出し役場から森までの案内役として三人につかせる。
頭を下げた男は自分の机に戻り書類をひっくり返すような作業を始めた。
「はああ~~~~……」
役場を出たところでイタルは大きい溜息をつく。
「どう考えても突き返すべきだったよなこれ……」
手元の書類を眺めながら自分がこれを素直に受け取ってしまったことを後悔する。
「やっぱ人手が消えてるって本当なんですかね、新聞で話題になってましたけど」
イシダテは広大な土地と多数の産物によって、富を求める人間が多く集まった地だった。しかし近年は好き好んで魔族の脅威にさらされながら莫大な富を得たいと思うものは少なくなった。
結果この地には多くの仕事が残り、それを受ける人材が減り続けているのだという。
「イヤなキセキのありふれ方だぜ」
肩を落とすイタルは足元の使い魔を見やる。良く準備された使い魔はキビキビと動き先陣を切って動いてくれるのだが、今回の使い魔は自信なさげで足取りもふらふらしている。
「なんもなきゃいいが」
役場の近くの転移門から依頼のあった地域へ移動する最中、イタルは紙を何度も読みこみ本番に備えるのだった。
◇
焼けずの森は思いのほか居住地域から近く、入口から遠くに街並みを望めることが出来た。少し色の淡い木々が連なる森の中はシラサトの森とは少し違った雰囲気をうける。
「こっちでいいの?」
言葉を理解する能力のない使い魔だが、あまりに不安そうな足取りのためカスミが心配そうに顔を覗いている。
「場所はもうちょい先だと思うけどな」
地図を見ながら答えるイタル。
「ん?」
ふと、足元に気になるものを発見したイタルは一行を呼び止める。
「足跡っすか?」
「めちゃくちゃ数が多いな……しかも入口近くだぞ」
森に入ってまだ10分も歩いていない。
ジロウは俊敏で一般人が遭遇した場合逃げきることは難しい。街並みの近いこの区域に足跡が出ているということはいつ被害が出てもおかしくない状況だったのだ。
「ちょっと待って」
カスミが目を瞑って耳をそばだだせている。
「来てる、多いよ」
「随分と速いお出ましですね―――――先輩、今日は私後ろに回りますよ」
森の中など大きなキセキを使えず体術に劣るプレイヤーは他社の能力を強化するキセキで補助役に徹することが多い。人間に対してキセキは行使できないため、他社の鎧や剣に対してキセキを行使する。
スズは比較的薄着である二人の服にイノリを捧げるべく杖を掲げ詠唱を始めた。おそらくジロウのものであろう鳴き声が森のあちこちから飛んでくる。
「囲まれないように気をつけろ!」
予想外に早い襲撃に備えるためイタルは背負った大剣を抜く。身の丈ほどもあろうかという大剣を軽々と構えた彼は呼吸を整える。
太いとも言えない腕と足腰でそのような芸当を易々と行えたのは彼自身ではなく、大剣自体に秘密があった。この世界では装備したものに加護を与える、イノリの込められた装備が普遍的に存在している。
例えば足が速くなる、例えば力持ちになる……詠唱を必要とせず、着ることでイノリの効果が発現する装備はプレイヤーにとって欠かせないものである。
そんな中イタルの構えた大剣は数多ある装備の中でも特に珍しい「装備の効果を吸着する」特性を持っていた。すなわち色んな装備を着れば着る程この大剣は強くそして幅広い用途に使えるようになるのだ。
ただし、人間はある一定以上のイノリを神に届けることは出来ず、数多くの特性を抱えていても宝の持ち腐れ状態になる。
そこでイタルはこの大剣に自ら細工をし、特性を切り替える能力をつけたのだ。管理を簡単にするために、空中に見える形で能力を表示させる能力もつけて。日替わりで様々な魔族と対峙するプレイヤーの責務に対応出来る柔軟さ、これがイタル・ムギノトキのプレイヤーとしての強みであった。
そんな彼が今朝考えた作戦はこの大剣を極限まで軽くすることだった。今手に持った大剣は木の枝のように軽くそして頼りない。ただし、イタルの着ている濃い紫の服は、武器に毒素をのせる能力を持っていた。
軽量化によって攻撃力が失われた大剣だが、イタルの着る服によって毒を振りまく大きな、そして極めてかるい鉄の塊に変貌したのである。
「きたぞ!」
右前方の木の影から瞬時に飛び出てくるジロウへ大剣を扇ぐように振るイタル。
茶色い体躯に口から飛び出す牙。イタルは剣を振り回すのと同時にジロウの鋭い牙を躱すべく転がりながら回避を行う。
まったく手ごたえが感じられなかったが、ジロウには既に毒の異変が周っているのかイタルにすぐさま第二の突撃を行わず様子を見ている。
しばらくすると、足元がふらつき地面に倒れ込む。目を見開いたままジロウは息絶えた、効果は絶大だった。
「先輩、後ろ!」
しまった、とイタルが後ろを振り向いた瞬間、目の前に鮮血が飛び散る。
「危なかったね」
刀を拭うカスミ。その足元に横たわったジロウの胴体は二つに裂かれていた。
「助かった、まだまだ来そうだな」
ジロウの遠吠えが森全体に響き渡る。仲間に危険を知らせているのだろうか、遠吠えに呼応してさらなる遠吠えが重なる。
「森の入口側を背にして戦おう、囲まれたらマズい。絶対にはぐれるなよ」
「了解」
森の影から次々とジロウが飛び出してくる。三人は表情を引き締めそれに対応した。
尽きることのない群れの襲来に疲弊してきたイタルだが、隣のカスミは依然として涼しげな表情で迫りくるジロウをさばいていた。
一つジロウを斬り伏せると、呼吸を整え次のジロウを素早い反応で躱し、すれ違いざまに斬り伏せる。
この世界にありふれたキセキの原理は神にイノリを捧げること、この一点のみだが、人間はそれをどうやって神に伝えるかで頭を悩ませてきた。詠語という自分たちの使わない言語を見つけ出し体系化した歴史はその努力の結晶とも言える。
しかし、詠語の成立以前に人間は既に神に祈りを届けていた痕跡がある。それが神威と呼ばれる技術であった。
超常的な反応と、鮮やかに敵を両断するカスミの力はその神威によるものだった。
本来習熟するのが難しいとされる神威だが、理論より感覚を地で行く彼女は詠語の修得を犠牲にそれ一本でプレイヤーとしての責務を果たしているのだった。
さらに、彼女の着ている装備に込められたイノリは「魔族の攻撃をスレスレでかわすことにより敏捷性が増す」という特性がついており、長丁場の戦闘でその効果をいかんなく発揮していた。
さながら吹雪が舞い踊っているかのような状態の彼女に敵はないように思えた。
が、
「おい、カスミ、やばいぞ、服!」
「え?」
見ると、カスミの装備にはジロウの爪や牙で傷ついた部分がいくつもあった。特に胸元は被害が大きく最早取り付く島もなくなった衣服の切れ端がかろうじて残っている状態であった。
「あーっ! 使い魔、なにカスミさんをジロジロ見てんだ!」
スズが指さす方では、鼻の下を伸ばした使い魔が激しく興奮していた。まあ、これはしょうがないとイタルも心の中でうなずいてしまう。
ずば抜けた反射神経を持つカスミだが、本人曰く衣服の感覚までは考慮できないらしく、いつも戦闘では衣服をボロボロにするのであった。
毎回その修繕費でカツカツの生活なんだよ~と愚痴をこぼしていたことを覚えている。
しかし、今日の被害はいつにもまして多かった。
「チッ、さすがに数が多すぎるぞ。話がおかしい、いったん引くしかない」
「えっ、私はまだまだ大丈夫だよ」
「その格好は大丈夫じゃねえだろ!」
被害の大きい部分からなるべく目を逸らしながらカスミを叱りつけるイタル。とうの彼女はジロウを捌きながら、自分の体をじっくりと眺める。
「そう?」
「そうだよ!/そうっすよ!」
どこか浮世離れしているカスミは不思議そうな顔をしながら撤退の準備を始める。
「スズ、風のキセキぐらいなら使っていいぞ」
「はい」
走り出しながらスズへ指示を飛ばすイタル。補助に徹していたスズはやっと私の出番がきたかと気合を入れて風のキセキを発動した。
落ち葉がごっそり舞い散るほどの強風でジロウの追っ手は二の足を踏んだ。同時に逃げる自分たちには追い風となった強風で三人は撤退の速度をはやめた。
「あっ」
「ん? あっ!!」
小さな声をあげたカスミ。
それをみたイタルは反射的に目を逸らす。
「ん? あーーーーーー!!」
スズが大声を出すのも無理はなかった。先ほどの強風でカスミのなけなしの布がはだけ、白い柔肌が露になっていたからだ。
「さすがに中身が見えたら大丈夫じゃないよね」
右手で大事な部分を隠しながら、てへへ、と今更自分の心配をするカスミ。
「先輩、まさかこれを狙ってたんじゃないでしょうね……だとしたら幻滅します」
「過失だ、過失!」
慌てて無罪を主張するイタル。スズはそんな彼をジトっとした目で見つめるのであった。
◇
ちょっとした惨事もあったがスズの風のキセキでジロウの追っ手をまくことに成功した三人は、森の外でイシダテへ帰還する準備を始める。
「やっちゃったなあ……」
「何が?」
「着替え持ってくるの忘れちゃって」
馬車の中で自分の荷物を漁っていたカスミは顔だけ外に出して困った表情を見せる。
「それは大事だな、スズの着替えはないのか? ちょっとサイズ小さいかもしれんが」
「私も今日は余分に持ってきてなくて……って、最後のちょっと気になる発言ですね」
スズも不満気な表情で馬車から顔をのぞかせる。
「じゃあ、俺のシャツを貸すしかないな、鞄くれ」
馬車の中から乱暴にイタルの荷物が飛んでくる。少し漁って底の方にあった白いシャツを馬車の中へ投げ返す。
しばらくして、簡易更衣室と化した馬車の中から入室の許可が下りた。イタルは馬車に乗り込む。
「先輩、何なんですかこの服」
入るなり、カスミの服装を不思議そうに眺めていたスズが尋ねてくる。
着替えたカスミのシャツには「Healthy legs」という文字が黒い筆跡でデカデカと刻まれていた。
「なんて書いてあるのこれ?」
「問題です、なんと書いてあるでしょう」
「いきなり!? えーと……非人道的な足?」
「どんな足だよ! 正解は健康的な足」
「女の子に貸すもんじゃないっすよ……」
意匠性の欠片もなく無造作に詠語の刻まれたシャツを敬遠するような目つきで眺めているスズ。
「微量なイノリも込められてて、日常でも足の健康を維持できる高機能シャツだぞ」
「へえ、すごいねえ」
「はあ、そうですか」
御者に少し急ぐようお願いし三人はイシダテの役場へ帰還する。イタルはその道中今日の事態をどう報告しようかと脳内で考えを巡らせていた。
帰ってきた三人に応対したのは、朝と同じ中年の男だった。
イタルが指定された地域の外、それも森の入口付近でジロウと遭遇した旨を伝えると、男は少し眉をひそめたが特に表情は特に変えずに「すみません、こちらの手違いで」と返す。
当初予定した内容と違う依頼となった場合は、想定外の事態に遭遇した成果も含めて同じプレイヤーズが再度依頼に対処するのが常である。今回の場合、予定された地域の討伐と今回イタル達が行った予定外の地域の討伐を合体させた任務としてプレイヤーズハルドナリが依頼を受けるのが道理である。
しかし、事務員が手渡してきたのは依頼達成の判が押されたものであった。
「確かに、ジロウは相当な数倒しましたけど……」
当初想定されていた数と同等かそれ以上のジロウを三人が討伐していたのは確かな事実で、成果だけで見れば依頼を完璧に遂行した形にはなっていた。依頼の内容の変更をするのはプレイヤーにとっても役場にとっても手間になるものだった。激務のイシダテからすればここで一旦依頼を打ち切ってから再度発注を飛ばした方が楽なのだろう。
成果の金額を見てみると、当初より少し色がついているのも気になる、今回の想定外の事態を考慮した額になっているのだろうか。
少し疲れた表情を浮かべる男を見て、この一件のような出来事がイシダテでは常態化しているのではないかと感じた。任務の発注が遅れ魔族が増えるとその分だけ大規模な討伐計画が必要になる。大規模な討伐は詳細を詰める必要があるから人手不足の役場ではそれを支えきれず、小出しの依頼で対処するしかなくなっているのではないか。
(プレイヤーの方もおそらくは、この金額で納得して帰ってくんだろうな……)
想定外の事態にはなったものの労力と費やした時間を考えればおいしい依頼であることは間違いなかった。
しかし、
「すみません、これは流石に受け取れないです」
突き返された書類を見て目が覚めたようにイタルを見返す男。
「ジロウはまだ入り口近くをうろついてると思います。遠吠えを聞いた感じではまだまだ数はいる感じです。根を絶たないとキリがない。見たところ居住地も近いですし……」
突き返された書類を受け取った男は少し逡巡したあと、覚悟を決めたように表情を引き締め、
「今回は申し訳ありませんでした。こちらで依頼変更の手続きを進めますので、詳細はまた後日お伝えします」と答えた。
先ほどと同様冷淡で事務的な受け答えではあったが、目の奥には熱い思いを感じることが出来た。この男も最初から依頼に乗り気ではなく、誰かが突き返してくれるのを待っていたのだろう。
それは目の前の男だけではなく、おそらくこの役場の全員がきっと。イタルは忙しなく動く職員を見ながら「俺の思い込みじゃないことを祈る」とボソッと呟いた。
◇
「なんかカッコよかったね」
「茶化すなよ」
役場の階段を降りながらイタルは少し恥ずかしそうに答えた。
「本当は最初の段階で突き返すのが一番良かったんだ、じゃなきゃお前の服も無事に済んだかもしれない。まあ、今日のことはトキワさんには俺から話をしとくよ」
「いいよ、別に。服が破けちゃったことも全然気にしてないから。シャツありがとうね、ちゃんと洗って返すから」
Healthy legsと書かれた無骨なデザインのシャツを大事そうに眺めるカスミ。
「いやいや、少しは気にした方がいいですよカスミさん、乙女として」
「それは俺も同感だ」
依然イシダテの役場は往来が活発であった。
一仕事終えたイタル達は、行き交うプレイヤーとぶつからないようにゆっくりと大階段を降りていった。
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