リング・ア・ベル

MIGUEL

第1話 再会



『思い出せ』


頭の中で声が聞こえる。

閉じられた瞳の奥で、脳の深くに直接響く声がする。

人の姿はどこにもないが、それは明らかに自分に向けられた言葉だった。


誰の声だ。

聞いたことがない声の気がするし、まるで昔から知っているような懐かしい声のような気もする。



『思い出せ』


もう一度繰り返される言葉にアルドは脳内で返事をする。


(なにを?)



『忘れたことも忘れている 自分の罪について』


(俺の罪?)


(一体なんのことを言っている?)



『彼女を放っておいてはいけない』


(彼女? 一体なんの話を……)



「お兄ちゃん、アルドお兄ちゃんたら!」


(ん? この声は)


今までとは違う声だ。

高く澄んだ少女のそれは毎朝よく聞いた、

間違いなく知っている声だ。


「朝だよ起きて!」


シャッとカーテンが開かれると、

部屋に曇りない日差しが割って入る。

眩しさに思わず呻き、身じろぐ。


「フィーネ……」


片目を薄く開けるとなじみ深い顔が飛び込んできた。

妹のフィーネの丸い深紅の瞳がアルドを覗いている。


「おはようお兄ちゃん」

「もう朝か……おはようフィーネ」


相変わらずシーツにくるまったまま寝ぼけながら挨拶を交わすと

もう朝かじゃないよ、と小さく頬を膨らませて踵を返す。銀糸のような髪と花の染料で染められたマントがふわりと翻る。


「朝ごはん、下にあるから冷めないうちに降りてきてね」


フィーネが階段を降りる軽やかな音を聞きながらアルドはまだはっきりとしない頭で木でできた天井のシミを眺めていた。


妙に目覚めが悪い。もともと寝起きが良い方ではなかったが、今日はやけに胸に何かがつっかかったように心地が悪い。

出かかったものがそのままそこで停滞してしまったかのようだ。


不思議な夢を見ていた気がするが思い出せない。なんだか大切なことを忘れているような気がする。

もやついた気持ちを払うように、ぼんやりした頭を振る。


「変な夢だな」


ふう、と一息もらして

アルドは布団からのそりと身を起こすと、

その拍子に チリン、と胸元のリボンの先に垂らした金色の小さな鈴が揺れた。



AD300年 バルオキー村


その日はよく晴れていた。

アルドはバルオキーへ村長である祖父から頼まれた用事を済ませに来ていた。

用事自体は大したことではないのだが、高齢である祖父の様子を見に来る意味も兼ねて足しげく通うことにしていた。

年寄り扱いするもんじゃない、とたっぷりと白髭を蓄えた顔が眉根を寄せるのは想像に易く、アルドも直接そうは言わないが。


さて皆の元へ帰ろうかと、外へ踏み出したところだった。


ふと空を見上げると、高く青い空にはいくつか淡い雲が浮かび、ゆったりと流れに身を任せている。


頬を撫でる風に少し癖のあるやわらかな黒髪を遊ばせがら、アルドはいつもの光景をゆっくりと見回した。


日差しを浴びながら洗濯物を物干し竿に並べていく人の横で、干されたばかりの白いシーツがゆるくはためく。


色とりどりに咲き誇る花々は道行く人の目を楽しませ、そのほのかな芳香は風に乗って時折鼻腔をくすぐる。

花咲くを待つ小さな蜂が、まだかまだかと蕾のまわりで待ち遠しそうに飛ぶ。


石畳の煉瓦の上を子供達が駆け回り、はしゃぐ笑い声が心地よい。


自分の生まれ育った村、自分の愛した村。

目新しいものがないのはたまにきずだが、ここはいつでも居心地がよい。

そんないつもの風景の中にアルドは身を置いていた。



心地よい陽気に連れられて、あてもなく村を歩いていると、ふと視界に一人の少女が目に入った。


「ん」


草原に膝を付けて草根をかき分けて回るおさげ髪を垂らした少女の必死な形相が、

ゆったりとした景色の中に やけに似つかなかった。


気になったアルドは、後ろからよく見知った少女に声をかけた。


「ベルじゃないか。どうしたんだ?泥だらけじゃないか」

「アルドお兄ちゃん……」


話しかけられた少女は、ふりむくとアルドをその琥珀色の瞳でじっと見つめた。

ベルはバルオキーの近所に住む12歳ほどの少女だ。


肩まで伸びた栗色の髪をおさげにして、藍色のリボンで結っている。

いつもは明るくハキハキとした子で家族の手伝いも積極的にこなすご近所でも評判の笑顔の眩しい少女だった。

アルドの家のすぐ裏に住んでおり、昔はよく一緒に遊んだものだ。


それが今のベルはというと、アルドの胸ほどの高さにある頭をうつむかせ

琥珀色の瞳はかげり、目の下には薄く隈までふちどらせている。

いつもは笑顔の覗く小さな唇はきゅっと堅く結ばれていた。


白く小さな拳は泥や草の汁で汚れ、同じシミがついた赤いスカートをぎゅっと握りしめ、消え入るようなか細い声でこう言った。


「ソリクが……。私の猫が、もうずっと帰ってこないの……


誰か優しい人と出会って、幸せに暮らしてるって思おうとしてるんだけど……


本当は、どこかで帰れなくなってるんじゃないかって……。


ずっと探してるんだけど……どこにもいなくて……」



「!!」


アルドは思わず後ずさった。

頭を金槌で殴られたような衝撃だった。


ソリク。


それは少女の飼い猫の名前だった。

少し前まで、少女と一緒に歩いていたのをアルドはその目で見た。


額に模様のある、黒い猫。


「お母さんは、ソリクは冒険好きな猫だったから、違うところで楽しくやってるって言うの」


心臓が激しく打ち鳴らされているのがわかる。手のひらにびっしょりと汗をかいて気持ちが悪い。


「でも、本当なのかな。もしそうじゃなかったら?今もどこかでお腹すかせてたり、寒い思いしてたら……」


今にも零れ落ちそうな滴を瞳いっぱいに湛えて、アルドにその想いを吐き出す。


その靴、膝、手のひらの汚れを見れば少女がいかに必死に探していることは想像にたやすい。

目の下の隈は、その身丈に合わない大きな不安をいかにためこんでいるかを物語っていた。


対してアルドは凍り付いたかのように棒立ちで立ち尽くしていた。

ベルの声は聞こえているのに遠くから聞こえる。そんな感覚に陥る。



ソリク。


ベルの愛猫の黒猫の名前。


それだけならば、ここまで動揺することはなかっただろう。

しかしそれは、アルドの心をかき乱すには充分すぎる名だった。


「お兄ちゃん、ソリクわかる? 額に」

「額に白い十字模様のある黒猫、だよな」


ベルが言う前に、そう呟いていた。

そう。アルドは、ソリクのことをよく知っていた。



(……“俺”のことだ……。)


(ベルは、ずっと“俺”を探して……)



紛れもない、自分自身のことなのだから。



アルドは青年の姿をしているが、この姿はその実、本当の姿ではない。

それどころか人間ですらない。


この姿をとる前のこと。16年前は、アルドはキロスと呼ばれ、ここから約900年後の未来の世界でクロノス博士やマドカ博士と暮らしていた。

そして激しい時嵐に襲われ、クロノス家の長女フィーネと共にこの時代へと落とされた。


しかし、そのもっと前。キロスがクロノス博士の庭にふらりと現れる前のこと。

アルドはBC300年のバルオキー村に住む一匹の仔猫だった。


その時は、ソリクと呼ばれ、この村で暮らしていた。

月影の森の最奥に突如開いた時空の穴に入り込み、900年後の未来へと時を超えるまでは。

彼女――、ベルの家族として。



この時代に、フィーネとキロスが落ちてから16年が経つ。


フィーネが魔獣に誘拐される少し前、俺はソリクをこの目で見た。


彼は、村から北にある月影の森の方へといつもの散歩をするように軽快な足取りで歩いていた。

彼も、そんないつもの散歩がまさか時をかけることになるとは思いもよらなかっただろうが、あれが時空の穴を通り、未来へ落ちる前の自分自身に他ならない。


―そう、そのはずだ。


その記憶はまるで他人のもののように曖昧だ。

エデンの代わりに妹フィーネを守りたいという願いと、フィーネの持つジオ・プラズマの力により、兄エデンの姿を転写された時に 

猫だった頃のその記憶はすべて失ってしまった。


クロノス博士やエデンと何年も過ごしたキロスの頃の記憶は思い出してきたけれど、

さらにその昔のソリクのことは、今でも薄いもやがかかったかのように曖昧で

鮮明に思い出すことはできなかった。


あくまで情報として、知っているだけだ。

キロスは子猫だった頃、ソリクと呼ばれバルオキーで暮らしていた。

記憶と言うよりも情報といった方が正確なそれは、この状況をより複雑にしていた。


(……言えない、よな。こんなこと。)


(ソリクは時空を越えて未来に居たって?)

(またこの時代に戻ったけど、人に姿を変えられたって?)


何を言っても狂言に過ぎない。


(信じてもらえるわけがない。彼女を混乱させるだけだ。

それに俺はソリクの記憶がないんだ……。

そんなの、ベルを傷つけるだけじゃないか……)


(話せない)


何もできない。することができない。


(俺は……どうしたら。)


全身を泥で汚しながら、泣き出すのを必死に堪えている幼い少女を目の前にして俺は何もしてやれない。

拳を握りしめると爪が手のひらに食い込んだ。


「アルドお兄ちゃん?大丈夫?顔、真っ青だよ?」


言葉を失い立ち尽くすアルドの顔を、ベルの心配そう揺れる瞳が覗き込む。


「あ……ごめん。大丈夫だよ」


ベルの顔や手についた泥を指で拭ってやり、かける言葉を探す。


「……。ソリクなら、この前ユニガンで見かけたよ」


(……ごめん、ベル……)


それは、ベルの飼い猫だったところの自分と、今のアルドであるところの自分。

それを秤に掛けた結論だったのだろう。


「ほんと?!」


ベルがアルドの腕を掴んで顔を近づけた。

その表情は顔に日が昇ったようにぱあっと輝く。

その瞬間、アルドは自分のしたことが大きな間違いだったことを理解した。


「あ、ああ、額に白い模様のある黒猫なら、

おいしそうなご飯をくわえて元気に歩いてた……ような……」


歯切れ悪く答えた。

ベルと目を合わせることができず、視線だけが饒舌に動く。

自分は今どんな表情をしているだろうか。


それに反してベルの表情と声色はどんどんと明るくなり、飛び跳ねて喜びを隠せないでいる。


「生きてるんだ!」


それはあまりに切で健気で残酷な響きだった。


どれほどまでに不安な思いをさせていただろう。

どれほどまでにつらい日々を送らせていただろう。


アルドは自分の下唇をかみ切ってしまいたくなる衝動に駆られた。


「私ソリクに会いに行ってくる!」

「えっ!いや……それは」


今にでも走りだそうとするベルをアルドは反射的に引き留める。


「ユニガンだぞ、遠いし、それに、に、似てるだけかも」


ユニガンはこの村の隣町にあたる王都だ。

子供の足でも歩けない距離ではないが、魔物が出没する湿原を通らねばならず、

商売をしに王都へ通う大人でも衛兵を雇って通るような場所だ。


「それでも!初めての有力情報だよ!確かめに行かなきゃ!」


ベルはまっすぐな瞳でそう言い切った。

もう何を言っても聞きそうにないことはすぐにわかった。


「わかった、……お、俺も行くよ……。」


居ても立っても居られないといった様子で歩き出すベルを追おうとアルドが歩を踏み出す。


そんなアルドの不毛な行いを諫めるように――チリン、と胸元に垂らした鈴が空気を揺らした。

それはいつもなら気に留めることのない聞きなれた音にも関わらず、やけに耳に響いた。


胸元の藍色のリボンの先で揺れる、金色の飴玉のように丸い小さな鈴。

そういえば、この鈴はいつから持っているんだったろうか。

気づいた時にはもう持っていた気がするが。

そんなことを頭の片隅で思いながら、小さくなっていくベルの後ろ姿に追いつくべく駆けていった。


朝見た夢のことなど、露のように忘れて。


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