今夜の君は美しい、満月よりも美しい
朝倉亜空
第1話
駅前のバスターミナル付近で、自前のスポーツカーに乗ったまま、俺はアキコが来るのを待っていた。今夜はアキコとの夜デートだ。
「お待たせ。仕事がちょっと長引いちゃって、遅れちゃったわ。御免なさいね」
予定より20分ほど過ぎて、小走りでやってきたアキコは、クルマの助手席のほうのドアを開けるなり言った。
はあはあと、軽く息を切らせながら、アキコがシートに着き、俺は夜の街へ向けて、クルマを走らせた。
「なーに、平気さ。想定内」俺は言った。「それより、何が食いたい?」
「何でもいい。前と同じお店でもいいわよ」
「うーん、そういうのが一番迷うんだよなー」
「私はあなたと一緒なら、どこでもいいのよ」
「本当?」
「本当よ、ホント。それより……」アキコは夜空に浮かんでいる月を見上げ、残念そうに言った。「惜しいな。もうちょっとで真ん丸なのにぃ……」
「何が? お月さんのこと?」アキコの視線の先をちらりと見て、俺は言った。
「そう。あと二、三日ほど経てば満月なのにな」
「……十分丸いだろ。これじゃ、いけないのか」
「だって、フル・ムーン・ナイトにデートなんて、一番ロマンチックじゃない」
「へーえ、そんなもんかね。男には分かんないけど、だったら、天体運行管理局にでも連絡して、72時間分、月の動きを速めて貰ったらどうだい。ハハハ」俺は冗談めかして言った。
今から228年前、人類は「最期の審判」と呼ばれる核による世界最終戦争を引き起こし、ほぼ死滅した。生き残った僅かな者たちは地面を掘って、地下世界を創り出し、そこで再び社会生活を営み始めた。その地下世界を大きく覆う天井をプラネタリウムの様にして、昼間は太陽や雲を、夜には月の満ち欠けや星のきらめきを映し出している。それにより、かつて、地上で人間たちが味わっていた雰囲気を再現しているのだ。コンピュータ制御されているその仕事のすべてを、天体運行管理局が担っている訳だ。
何を食べてもいいと、アキコは言ったが、せっかくのデートなんだから、小洒落たフレンチレストランでフルコース・ディナーと決めた。今夜が満月じゃないことの埋め合わせとしてだ。
とある有名店の名前と外観のイメージを、ドライバー座席に座っている俺は頭の中に想像した。ドライバーがする、唯一の仕事だ。頭上の脳波ダイレクション・リーダーが、程なくして、その場所を確認した。その合図である、軽やかな電子音が車内に鳴った。クルマはそこへ向けて自走し始めた。タイヤが路面に接地していることで、時折、身体に振動が伝わるのが心地よく、俺はオーソドックスなホバーカーではなく、クラシックなゴムタイヤを履いたクルマを愛好している。
「ありがとう。とても楽しかったわ。本当にあんな高いお店、無理しなくてもいいのに。人造肉じゃなく、本物のお肉の味がしたわ」
デートを終え、アキコを家の前まで送り、俺たちはおやすみなさいのキスをした。
「気にするなよ。金ならあるんだから。俺もとても楽しかった」そう言って、俺はクルマを走らせて帰って行った。
金は持っていると言ったのは本当だった。この地下世界は今も拡張作業中にあり、地下住民の人口増加に伴い、広さを増していっている。その掘削作業で出た大量の土はどうするのかというと、誰かが地上に出て、捨ててこなければならない。高濃度に放射能汚染されている地上にである。誰もがやりたがらない仕事であるが、俺はそれをメシの種にしている。さすがは超危険作業、実入りがかなり良いのだ。この高価なスポーツタイプのクラシックカーを買えたのも、そのおかげだ。
命の心配はしないのかと問われれば、全然していないと答えよう。
作業着である放射能防御スーツの性能が完全だからか。いーや。あんなものは着ないよりマシ程度である。では何故か。
それは、俺がオオカミ男だからなのだ。
どういうことか、ちょっと説明がいるだろう。オオカミ男はオオカミに変身すると、不死身の身体になり、どんな怪我や病気も完全に癒されてしまうのだ。例え、全身の細胞が被曝したとしても、満月の夜を一晩過ごすと、きれいさっぱり無くなってしまう。
えらいもので、このオオカミ化するメタモルフォーゼ現象は、地下世界のプラネタリウムによる疑似天体の月でも、ちゃんと発動してしまうのだ。
だが、それは良いことばかりではない。オオカミになると、心まで残虐なケダモノとなり、俺の人間としての意識は跳んで消えてしまうのだ。目につくもの、特に派手なもの、匂いや音に敏感になり、それらを見境なく攻撃し、破壊や殺戮の限りを尽くす。だから、わざと満月の夜を避けて、アキコと逢うようにしているのだ。
満月の夜の俺は、テーブル一つ置いてないすっからかんの自室にこもり、窓や扉のすべてに鍵をかけ、窓から差し込む月明りのもと、オオカミとなって、ひたすら一夜を耐え過ごす。四方の壁は一面、強靭な爪による、ひっかき傷だらけのその部屋で。
アキコには自分の仕事の話はしていない。大いに心配するだろうし、まさか、安心させるためにオオカミ男であることを告白する訳にもいかないだろう。「ちょっとした特殊作業でね」なんて言ってある。アキコの仕事は公務員勤めだと言っていた。「見かけよりずっと、シッカリ者なのよ」とは本人の弁だ。
一週間後の夜、俺たちはまた、デートを重ねた。もちろん、その日はまったく満月ではない。
煽情的な真っ赤なドレスを着こなしてきた、今夜のアキコは、とても美しかった。楽しくおしゃべりして、夕食を取り、アキコのお誘いで、見晴らしのいい展望台へと昇った。街の灯りがキラキラと夜のとばりの中で無数に輝いて、俺は思わず感嘆の声を上げた。「うわー、こいつは凄い!」
「ねっ。きれいでしょ」アキコは俺の逞しい二の腕にぎゅっとしがみつき、身体をしなだれ掛けてきた。少し酸味の混じった、甘い香水が良い匂いだ。
「それにね、今日はちょっとした秘密があるの……。ああ、ちょうど時間だわ。いいタイミング!」アキコは自分の腕時計を見て、さらに言葉を続けた。「ホラ、見て。今夜のお月さま」
アキコが上空を指さした。その指先の方向を見て、俺は頭をガツンと殴られたような強烈なショックを受けた。
何故か見事な満月が輝いているではないか! あり得ないものを俺ははっきりと見てしまった。
「こうやって、あなたと一緒に満月を眺めてみたかったのよ。わたしの仕事は天体運行管理局のシステムオペレーターなの。この前のあなたの言葉を思い出して、今夜10時から3分間だけ、満月になるようにプログラミングしてきたの。局長には明日、舌を出して、謝っとかなきゃ。どう、素敵でしょ」そう言って、アキコは俺の顔をうっとりと見上げた。瞬間、アキコの表情は一変した。
「ウガガガッ……。ガオッ、グッガー!」毛むくじゃらの顔をした俺は、凶暴な唸り声を上げ、血走った眼でアキコを睨む。彼女の赤いドレスの色と香水の刺激臭が無性に俺をイラつかせる。急速に薄れゆく意識の中、血の気を無くし、顔を引きつらせているアキコが見えた。弱弱しく震えるだけの獲物を、怒り狂ったオオカミが八つ裂きにするのに、3分はあまりに長すぎる。
今夜の君は美しい、満月よりも美しい 朝倉亜空 @detteiu_com
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