オトナシボーイの徒然草(つれづれぐさ)

寿 丸

「オトナシボーイとアイドル」

 聴覚障害者として生を受けて三十年。


 三十歳ともなると自分の障害についても性格にも容姿にも折り合いがつくものだ。


 まず、俺は両耳共にまったく聞こえない。感音性難聴というが、まぁ平たく言えば重度の聴覚障害者ってやつだ。人の声は聞こえないしわからない。電話もできない。音楽も楽しめない。観劇だって小学校以来ずっと行ってないし、コンサートとかは問題外だ。こうしてみるとないない尽くしだけど、それでも永遠に世界が真っ黒というわけでもない。


 そう考えるきっかけをくれたのは、とあるアイドルのライブに行ったことだ。


 聴覚障害者がライブ? 自分もそう思う。しかも友達に誘われたわけでもなんでもなく、自らの意思で行ったのだから。普通ならば避けて通る道なのだろうが、その時ばかりは事情が異なっていた。


 実を言うと、俺はそのアイドルに会ったことがある。


 道端でもなんでもなく、普通にイベント会場で。


俺はその時たまたまゲーム関係のイベントに参加していた。そしてそのアイドルは新作ゲームの宣伝(?)をしていた。彼女の周りにはファンが沸き起こっていた。


 正直に言えば、好みのタイプだった。ライブステージの上で歌やダンスといったパフォーマンスを披露する彼女は今までに見たどんな女性よりも輝いていた。まぁ、相手がアイドルならば仕方ないのだが。


 さらに言えば、そのアイドルが歌っていた歌詞なんてわかるはずもなかった。俺が見ていたのは主にダンスだ。キレがいいのはもとより、なんとも楽しそうに踊っている。今ここで一番輝いている、と言わんばかりに。これはちょっと誇張な言い方かもしれないが、私がナンバーワンというよりは、私もあなたもオンリーワンと呼びかけているような、力強いパフォーマンスだった。


 これまでアイドルというものに縁がなかった自分としては、衝撃を受けた。


 その後で特典会をやっていたみたいだが、さすがにそれに参加するのには気が引けた。アイドル相手にどうやって話をすればいいのかわからないからだ。そもそも特典会というものに参加したことがない。一応スマホで調べてみると、特典会というのは基本的にツーショットがメインらしい。アイドルや場所や条件によっては握手もできるんだとか。握手ならば某グループの握手会のことがあったな、と思い出す。あれは確かCD一枚で握手券一枚という商売だったろうか。今でもやっているのだろうか。


 さておき、俺はその特典会には参加せず、普通にゲームのイベントに戻った。


 あちらこちらに移動しては適当にひと休みし、さぁそろそろ帰ろうかという段になってそのアイドルと遭遇した。マスクに帽子に夏場にコート。どこからどう見ても怪しい。というか今どき、こんなベタな恰好をするのだろうか。逆効果ではないだろうか。ほら、彼女の方を見て何人かがひそひそと囁き合っているし。


俺がその不審者を先ほどのアイドルであると認識できたのは、目元をはっきりと覚えていたから。数少ない自慢だが、目には自信がある。


 そのアイドルはどうやらスマホゲームに興味があるようだった。ついついと新作アプリのゲームを体験しては、カタログを片っ端から取っていく。俺もついつい半分ストーカーみたいな感じでそのアイドルの行動を目で追っていた。マスク越しでも隠し切れないオーラ、そして何より美脚。


 俺は声をかけるべきかどうか迷った。アイドルというものと一度話してみたいと思ったのはあるが、話しかけて一体どうしようというのか。写真でも撮ってほしいのか、サインでもほしいのか。


 散々迷った末、俺はバッグからメモ帳とペンを取り出した。急いでそれに書き込み、声をかけるタイミングをうかがう。後になって思ったことだが、何もメモ帳とペンじゃなくてもスマホに文字を打ち込めばいいだけではないか。しかし、それを考える余裕もないぐらい慌てていたということなんだろう。


 そのアイドルはスマホゲームをたっぷりと堪能した後、その場から離れようとしていた。話しかけるならば今しかない、俺はそう判断し、突撃をかました。


「あ、あの!」

「え?」

「…………」


 声が出てこない。当然である。ただでさえ自分の声は人より低く、こもっていて聞き取りづらいと評判だ。だからこそメモ帳を用意してきたのである。


 俺は無言でメモ帳を差し出した。以下のように書いてある。


〈明星ハルカさんですか?

 先ほどのステージを見て、ファンになりました。

 良かったら一緒に写真を撮ってくれませんか?

 ※私は耳が聞こえません〉


 そのアイドル――明星ハルカは驚いていた様子だった。それはそうだろう。しかし、すぐに気を取り直して指で丸を作ってくれた。マスク越しでも笑顔を披露してくれているのがわかった。


 明星ハルカは俺の隣に立った。俺は慌ててスマホを取り出し、写真を撮ろうとして――自撮りってどうやればいいのか、操作に戸惑った。すると明星ハルカは慣れた手つきで俺のスマホを操作し、あっさりと自撮りモードにしてくれた。


 マスクを下ろし、スイッチをたんと押す。


 明星ハルカの顔は綺麗に撮れていた。俺の顔は……いや、詳細はよしておこう。

 とにもかくにもいきなりメモ帳とペンを持って現れてきた俺にもきちんと対応し、去り際に小さく手を振ってくれた明星ハルカ。


 わずか一瞬の出来事ではあったが、俺の心を射止めるには十分すぎた。


 今でも明星ハルカとのツーショットは見返している。彼女の笑顔とかちこちに固まった俺の顔とで妙なコントラストが出来上がっている。自分の部分だけトリミングしたいが、そうすると彼女の顔まで見切れてしまうのが悩ましいところだ。


 俺はすっかり明星ハルカに心奪われていた。自分のような奴にも対応してくれたことが嬉しかった。


 この日以来、気づけばハルカのことを考えていた。もう一度話してみたい。もう一度写真を撮ってみたい。


 そういうわけで俺は、彼女のライブに行ってみることにしたのである。


     〇


 明星ハルカは〈開幕闘女S〉というグループの一員だった。さらには俺より年下で、さらにはチームリーダー。あの若さで最前線を走っているのだから、すごいとしか言いようがない。俺が今の彼女と同じ年に何をしていたかといえば、フリーターとしてぶらついていただけだった。比較にもならない。


 さて、〈開幕闘女S〉のライブは渋谷のスタジオにて行われるという。事前にネットでチケットを買い、QRコードを取得するという仕組みだ。スタジオまで赴き、QRコードを見せれば入場できる。


 とはいえライブ会場に行くことなど初めての経験だから、半ば緊張していたのは否めない。そのおかげでドリンク購入が必須ということがわからず、店員も戸惑っている様子だった。身振り手振りでなんとか通用したが、心臓に悪いことこの上ない。おまけにコスパも悪い。ペットボトルからの烏龍茶一杯で、六白円とはどういうことだ。


 ライブ会場はビルの地下にあった。そこでは――当然というべきか――男性の姿が多く見られた。というか、男性しかいない。若い男性もいるにはいるが、三十、もしくは四十を超えた男性が多く見られた。くたびれた様子の男性もいる。アイドルに癒しを求めているのだろうかと、なんとなく察せられた。


 開幕まであと五分。


 俺は烏龍茶をちびちびと飲みながら、適当なポジションを探した。基本的に立ち見らしく、どこに陣取っても構わないようだ。とはいえステージに一番近いところはペンライトやうちわなどで武装したガチな人ですでに埋まっている。俺はステージから三メートルほど離れた場所に、ぽつんと立っていた。これから明星ハルカが出てくるライブを見られるのだと思うと、変に落ち着かなかった。


 時間になった。


 途端に、空気がぴりぴりと震えた。足元から振動が――いや、爆音が伝わってくる。ライブハウスとはこんなにもやかましいものなのか。おそらく曲が流れているのだろうが、どこから流れているのかはさっぱりわからなかった。補聴器のスイッチをオンにしても良かったのだが、鼓膜をつんざきそうなので止めておいた。どうせ入れても、歌詞や音楽の内容がわかるわけではない。


 ここでちょっと本題からそれるが、基本的に俺は補聴器は飾りとして用いている。つまり、「私は耳が聞こえませんよ」というアピールだ。聴覚障害者は見た目だけでは耳に障害があるとはわかりづらいから、こうして着けているのである。補聴器をかければ会話ができる、電話もできる人もいるが――本題とは関係ないのでここは省く。


 さて、ステージの袖から明星ハルカを含むアイドルグループが登場し、観客たちが勢いよく腕を振り上げた。先ほどまでくたびれていた男性もいきなり棒状のライトを取り出し、元気よく振っている。これがアイドルの力か。


「——! ——、————!!」


 センターの明星ハルカが何かを言っている。たぶん、来てくれてありがとうみたいなことを言っているのだろう。この距離からではわからないし、マイクのせいで彼女の口元が隠れていて読み取れない。


 照明がぎらつき、爆音が轟き、ライブが始まる。


 俺はアイドルのライブなど行ったことがない。音楽の番組が流れていても興味がない。今流行りのグループの名前だけは知っているが、彼ら(彼女たち)のパフォーマンスを注視したことは一度もない。そんな俺だから聞こえないのにライブに行ってもしょうがないじゃないか、という気持ちは少なからずあった。


 しかし、その気持ちは実際にライブに参加してみて変わった。


 周囲の空気。観客たちの盛り上がり。目まぐるしく変わる照明に、肌を震わす音楽。そしてアイドルたちのダンス。キレがいいのは元より、仕草が愛らしい。踊っている最中にひそひそ話とかしたり、抱きしめたり。キスまがいのこともして、観客たちがひゃーっと嬌声を上げた(たぶん)。明星ハルカにキスされた女の子が羨ましい。


 何より驚いたのは、そのダンスが三十分ぶっ通しで行われたことだ。尋常ではない体力である。アイドルが体力仕事であることはなんとなく知っていたが、こうしてそのパワーを目の当たりにすると、呆然とする。もし、同じことをやれと言われても三分も保たないことだろう。


 俺には歌と音楽はわからない。


 でも、彼女たちが心底楽しそうにやっているのだけはわかる。


 俺は空気の振動と観客たちの動きに合わせて、手を打っていた。烏龍茶を持っていたので、落とさないように気をつけながら。


 明星ハルカは輝いていた。彼女だけじゃない、他の女の子たちも――恥ずかしいことに名前さえも知らないが――それぞれがステージ上で照明を浴びて煌めいている。


 三十分のライブはあっという間に終わった。すると、観客たちがそわそわと移動を始める。もう帰るのだろうかと思ったが、違ったらしい。彼らはステージの反対側、壁際に移動して何かを待っている様子だった。


 そこでスタッフたちと思しき人たちが椅子やカメラなどを準備してきた。続いてステージから降りてきた〈開幕闘女S〉の面々が一斉に並んだのだ。すると観客たちは一斉にアイドルたちの前に並び始めた。写真を撮り、ツーショットを撮り、サインをもらう。なるほど、これが特典会というものか。


 ここまで来て、参加しないという手はない。


 俺は明星ハルカの列に並ぼうとして――その列の長さに唖然とした。同時に明星ハルカの人気の高さを思い知ったが、これではいつ終わるのかわからない。


 とりあえず最後尾に並び、手前の人からプレートらしきものを受け取った。明星ハルカの写真がプリントされてあって、「最後尾」と書かれている。どうやら最後尾の人はこれを持ち、後ろに並ぶ人がいたらその人に渡すというシステムのようだ。


 ふと、スタッフが俺より前の人たちに何事かを確認している。俺はスマホに文字を打ち込み、スタッフに見せてみることにした。


 そのスタッフが俺のところまで来た時、何かを尋ねてきた。といっても、早口だからわかろうはずもない。俺はとりあえずスマホを見せた。


〈明星ハルカさんと写真を撮りたいです。

 ※私は耳が聞こえません〉


 するとそのスタッフは「ああ」と二度うなずいてみせた。伝わったかどうかはわからないが、祈るしかないだろう。


 一人、また一人と進み、ようやく自分の番になった。


 明星ハルカはこちらの顔を見るなり、あ、と口と目を丸くした。どうやら気づいてくれたらしい。同時に、俺のことを覚えててくれたのかと嬉しくなった。あらかじめ文字を打ち込んでおいたスマホを、明星ハルカに見せる。


〈ライブ、楽しませてもらいました。

 すごく良かったです。

 音楽や歌はわからなかったけれど、ダンスやパフォーマンスで楽しめました。

 何より笑顔が素敵でした。人ってあんな風に笑えるんだなと驚きました。

 これからも応援しています〉


 明星ハルカはその文字を一字一字確認するように、うんうんとうなずいている。


 そしてスタッフの人にスマホを渡し、ツーショットを撮ってもらった。「ありがとう!」そして「また来て下さいね」と言ったのが、俺にもわかった。


 俺は名残惜しく、明星ハルカの前から立ち去った。その時気づいたことだが、チェキ券やサイン券なるものがあった。後で調べたことだが、チェキ券というのは専用のカメラで撮った写真をその場で現像してもらうこと、サイン券はチェキで撮った写真をそのままサインしてもらうことらしい。それもやっておけば良かったと、俺は残念な気持ちになった。


 とはいえ明星ハルカと話せた(?)ことに変わりはない。


 俺はすっかり浮かれた気持ちで、ライブ会場を後にした。


 帰路について考えていたのは、アイドルというものの力についてのことだ。


 俺は驚いていた。人とはあんな風に笑えるものなのかと。そして、あんな風に笑いかけられるものなのかと。観客はみんなハルカや他のアイドルと談笑したり写真を撮ったりしてすっかり満足しきっていた。


 これをアイドルの力と呼ばずして、何と言おう。


 慣れない環境にすっかり疲れてしまったが、体の内奥から沸き起こるエネルギーがあるという不思議な状態になった。これもアイドルの力だろうか。明日も頑張ろう、これからも頑張ろうという前向きな姿勢になれる。


 それからはスマホで〈開幕闘女S〉の活動スケジュールを確認するようになった。ライブがあればまた行きたいし、写真会があるなら是非とも行きたい。家族からはすっかりキモがられてしまったが。


 アイドルを追いかけていくと、色々なワードが出てきて勉強になる。


 例えば「推し」。文字通り、好きなものをひと推しすることを指すのだという。〈開幕闘女S〉の中なら明星ハルカが一番の推し、という具合に。


 俺は彼女のSNSアカウントもフォローするようになった。彼女の写真を見ているとどんなに落ち込むことがあっても励まされる。通常アイドルの写真というものは際どいものが多いイメージがあったが、明星ハルカの投稿するものは食事をしたり友達とじゃれ合ったりという愛らしいものだ。時たまに水着の投稿もあって、気持ち悪い笑みを浮かべてしまうのは俺だけではないだろう。


 とにもかくにも推しのいる生活というものは素晴らしい。


 だが、懸念がないわけではなかった。俺には明星ハルカと会話らしい会話ができない。この先もしもサイン会やライブがあったとしても、他の観客のように彼女との会話を楽しむことができないのだ。自分から感想を伝えて、それで終わり。


 なんとも寂しい。


 明星ハルカと会話らしい会話を楽しみたいが、時間を取らせて他の観客に迷惑をかけてしまってはいけない。お互いに筆談ができればベストだが……。


 とはいえ、好きなアイドルができたというのは喜ばしいことだ。耳が聞こえなくてもライブを楽しめるという実体験を得られた俺は、すっかりためらいや引け目を感じなくなった。


 それだけのパワーがアイドルにはある。


 それを学んだ俺は、これからも明星ハルカを追っかけていくことになるだろう。

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