掌編小説・『IFという夢』

夢美瑠瑠

掌編小説・『IFという夢』

(これは2019年の「公衆電話の日」にアメブロに投稿したものです)





掌編小説・『公衆電話』




・・・「『IFという夢』~ドラえもん論」

「ドラえもん」の連載が開始されたのは昭和40年代で、かの「大阪万博」と、時期を同じくしている。この万博のテーマ委員を務めたのはかの小松左京氏で、このころが日本のSFの隆盛期だったことを示唆している。

 SFの基本的な姿勢というのは科学へのファンタジックな「夢」であり、科学の発展の無限の可能性への無条件な信頼ともいえる。

 センスオヴワンダーという魅力的な言葉や、レイブラッドベリの「R IS FOR ROCKET」という小説集のタイトルのニュアンスは来るべきバラ色のコンピュートピアや、科学が人類の問題をすべて解決して、もしかしたら不老不死や、業病や貧困や犯罪の完全な撲滅、そうした「夢」をもすべて実現して、一種のオールマイティな魔法の杖、そうしたものとなりうる、それが真面目に夢想されている、つい50年ほど前はそうした牧歌的な時代であったのだ。

 その象徴の一つが「ドラえもん」である。「ドラえもん」の中心的なコンセプトも、やはり科学による「夢」の実現である。


♪こんなこといいな、できたらいいな、あんな夢こんな夢いっぱいあるけどー

みんなみんなみんな叶えてくれる不思議なポッケでかなえてくれーるー♪


というアニメ版の主題曲も如実に本質的なテーマを語っている。

 未来にはきっとすべての不幸が消えて、ユートピアがやってくる。みんな幸せになって、いじめや苦役や虐待や不幸は無くなって、理想的な世界が永遠に続くようになる。

 皆がそう素朴に信じていた、そういう時代、その象徴が「ドラえもん」である。

 作者の藤子・F・不二雄は多分幼児性格で、マザコンで、いじめられっ子だったであろう。

 逃避的にSFというものに心惹かれ、自分のトラウマ的な子供時代の状況の中に、胎内回帰願望的な「ドラえもんのポケット」というアイデアを挿入して、もしもこんなことができたら?という自らの現実逃避的な「夢」をマンガの中で、極めてポエティックに描いて見せたのだ。そうした構図が一種の子供という存在の慢性的に不完全で欲求不満的なジレンマをティピカルにレリーフして、絶大な共感を集めた。

 そうした数々のアイデアのうちの典型例が「もしもBOX」といえるかもしれない。

「もしも明日が来なかったら・・・」

 8月31日にそう願う、救いのない世界に生きる子供たちが「ドラえもん」を熱狂的に支持する。

 しかし「ジリリリリン」というベルは鳴らない。

 子供たちは空しく自殺していく。

 もう世界に明日は見えず、ドラえもんの誕生日も空しく過ぎていった。

「IFという夢」は子供っぽい私たちの幻想で、見果てぬ夢に過ぎなかったのだ・・・」


・・・ここまで書いて、評論家の戯言角造(たわごとかくぞう)氏はペンを置き、「まだ推敲の余地があるな」と呟いた。

「だけど今日はもう寝るか」

 そうして愛読書の「ドラえもん」を5,6冊持って、ナイトキャップのブランデーを置いているベッドに入った。

「おれだって子供だよ。大人になんて死んだってなってやるものか。」

 そう憎々しげにつぶやいて、もう干乾びてペラペラになった子供時代の「夢」に未練たらしくまた没入していくのだった。


<終>


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