政略結婚させられそうだったので、実家から逃げたら女の子を拾いました
水無土豆
プロローグ 師弟の出会い ※序盤虫表現有
──男は絶望していた。
自身の境遇に。
──男は激怒していた。
──男は失笑した。
自身の眼前に座す
男の名はブルーデンツ・フォン・リヒテンシュタイン。名門貴族リヒテンシュタイン家の嫡男であり、次期リヒテンシュタイン家当主でもあった。
そして、そんなブルーデンツと円卓を挟んで向かい側にいる、
リヒテンシュタイン家と同じく名門ではあるものの、こちらは騎士の家系にあたり、名門貴族の嫡男と、名門騎士の嫡女がこうしてお見合いをするという事は、大変めでたい事である。と、幼少の頃から、親に度々聞かされていたブルーデンツは、まだ見ぬシュヴァリエ家の嫡女、クライケットに恋慕にも似た想いを抱いていた……のだが、ブルーデンツ・フォン・リヒテンシュタイン18歳の淡い恋心は、この世のモノとは思えぬ顔面をした女の前に、今、この刻を以て儚く砕け散った。
クライケットはブルーデンツの口から漏れた失笑に首を傾げたが、聞き間違いと思い、乙女らしく、
「あ、その……ブルーデンツ様? さきほどから一言も言葉を発しておられないようですが……如何なさいました?」
クライケットが、もはや放心状態とも呼べるほど、ポケーっと口を開けて、虚ろな目で部屋の隅を睨みつけているブルーデンツ尋ねた。
しかし、ブルーデンツはクライケットの質問には一切答えず、答えるつもりもなく、ただ黙ったままであった。
それに業を煮やしたブルーデンツの父ケルンは、クライケットには見えないよう、ブルーデンツの足を強めに踏みつけたが、それでもブルーデンツが意識を取り戻すことはなかった。それを仕方なく思ったのか、情けないと思ったのか、ケルンは息子に代わって、クライケットの質問に答えた。
「あ、あはははは……たぶん、おそらく、ですが、こいつも緊張しているのでしょう。クライケットさんのような
「まあ、叔父様ったら、お上手ですこと」
ころころころ。
クライケットが
こうして、ブルーデンツとクライケット──リヒテンシュタイン家とシュヴァリエ家のお見合いは、ケルンの助力(?)もあり、しめやかに、滞りなく進行していった。(ブルーデンツは終始、魂の抜けた人形のような表情を浮かべていたが)
そして、宴もたけなわ。お見合いが盛り上がってきたところで、ケルンがこう切り出した。
「如何でしょうか、ここは両家の若い者同士、何者にも邪魔される事なく、我が屋敷自慢の庭園を散歩してみては」
「まあ、それは素敵ですね、
クライケットはケルンと同じく、傍らにて控えていた自身の母、エリザベスに許しを求めた。エリザベスはクライケットの母親とは思えぬほどに美しく、ブルーデンツは放心状態にありながらも、『なんでこんな人からこんな虫が生まれてくるんだ』と嘆いた。
「はい。もちろん。一緒に行ってきなさいな、クライケット」
「やったあ! では行きましょう、ブルーデンツ様!」
クライケットはキリキリと体の関節を鳴らしながら立ち上がると、放心しているブルーデンツの腕を大胆に掴んだ。ブルーデンツはまるで操り人形の如く、その場で起立すると、ずるずるとクライケットに引きずられ、その場を後にした。
◇
「ひぃっ、ひぃっ、はっ、はっ、ふぅっ、はっ、はっ……!」
──走る。走る。
何者も追いつけぬように。何者も近づけぬように。
ブルーデンツは大粒の汗を滝のように流しながら、興奮状態の犬のように口から息を吐きながら、ひたすらに走った。彼に目的地と呼べる気の利いたものはなかったが、とにかくブルーデンツは手を、脚を、ひたすらにバタバタと動かしながら駆けた。
『ここではないどこかへ──』
ブルーデンツの頭の中は、そのこと以外、何もなかった。
◇
事はブルーデンツがクライケットに連れられ、庭を散策していた時に起こった。
両人は仲睦まじく(?)連れ添い合い(?)ながら、リヒテンシュタイン家自慢の庭園を散歩していたところ、クライケットが勝手に
「ブルーデンツ様……私、もうあなた様の事を好きなってしまったようです! はしたない女と思い、恥を忍んでお願い申し上げますが、どうか私に熱い
んぅーむむむむむむむむむむむむ。
クライケットがその口を
「──くさっ!?」
「え?」
「口、くっっっっっっっっっさ!!」
「ええ!?」
「──はッ!? お、俺は誰だ! ここはどこだ! ……なんかいま、腐葉土の臭いがしたんだが……?」
ブルーデンツは目前の
「……ここは、
「俺の……? そ、そうだ。たしかに見覚えがあるぞ。ここは、俺ん家の庭だ……。たしか極東の島国の、有名な庭師を雇って造ったという……」
「はい。なぜ説明口調なのかはわかりませんが、ええ、とても趣のある、オリエンタル調で素敵なお庭かと存じますわ……」
「しかし、俺はここで何を……? 俺は……今まで一体何を……?」
ブルーデンツは「頭が割れそうだ……!」と呻きながら、苦しそうに頭を抱えた。
「……それは、
「どういう意味だ? コオロギ顔の女」
「こ、こお……?! こほん。それは私たちが夫婦になる、ということにございます」
「俺と……おまえがか? はっはっは! 貴様、冗談にしては中々面白い事を言うな。いいかコオロギ女。俺には昔から親父殿に聞かされていた許嫁がおってだな。その方はまるで、東洋の漆のように暗く、エキゾチックな眼差しで……」
クライケットが東洋の漆のように
「ば、薔薇の様に燃える、情熱的な唇で……」
クライケットが薔薇の様に燃える──まるで小動物を捕食し、その血にまみれたような唇を潤わせた。
「……聴けば天にも昇る感覚に包まれ、まるで天使たちが耳元で囁いているような……」
「ララララ~──」
「──なんっで、歌声だけ無駄に綺麗なんだよ! コオロギだからか!?」
「ごめんなさい、ブルーデンツ様が先ほどから何をおっしゃっているのか……」
「そ、そう、ですよね。あー……ほんと、間違っていたら申し訳ないんですけど、というか、間違っていてほしいんですけど、もしかして、クライケット……クライケット・ドゥ・シュヴァリエ様なのでしょうか……?」
ブルーデンツはクライケットにそう尋ねるなり、パン、と両手を祈るように合わせ、クライケットの前に跪いて目を閉じた。「クライケット様じゃありませんようにクライケット様じゃありませんようにクライケット様じゃありませんようにクライケット様じゃありませんように……」ブルーデンツは呪文のように、ただ小さくその言葉を繰り返し呟いた。
当のクライケットはそのブルーデンツの様子を、特に何も思わず、毅然とした態度でブルーデンツに言い放った。
「はい。私が……私こそが、騎士ゴウチエ・ドゥ・シュヴァリエを父に持つ、シュヴァリエ家の長女、クライケット・ドゥ・シュヴァリエにございます」
「ガーン!」
クライケットは
「う……」
「……う?」
「嘘だああああああああああああああいあいあいああああスパーキン!!」
ブルーデンツは突如、狂ったように奇声を上げると、バスケットボール選手のように身を翻し、
「──おお、戻ったか。ブルーデンツ」
お見合いの区切りがつき、たまたま庭の近くで休憩していたブルーデンツの父ケルンは、息子を見るなり、嬉しそうに近づいていった。
「どうだ、ブルーデンツよ。クライケットさんはとても気立ての良い娘さんだ。この時代、あそこまで出来た女性は中々いないだろう。どうだ、ブルーデンツ? 心は決まったか?」
「……ましたな」
「ん? 何か言ったか、ブルーデンツよ」
「俺を、騙したなァ! 親父殿ォ!!」
「騙っ!? な、何を言っているんだ、おまえは! 気でも触れたか!」
「〝気でも触れたか〟だとォ? それは俺が問いたい! 親父殿! アレ、コオロギじゃん!」
「アレとは……もしやクライケットさんの事か!? な、何を!? 無礼な事を!」
「無礼なのはあんただ! 大事な跡取り息子をコオロギと交配させるって、正気の沙汰とは思えんぞ! この人でなし!」
「誰が人でなしだ! 誰がコオロギだ! 誰が!」
「たのむ、今回の縁談は無しにしてくれ。これならうちの侍女のパンナコッタと契りを結んだほうがまだマシだ」
「ぱ、パンナコッタ……? いや、パンナコッタって犬なんですけど!? しかも侍女じゃなくて当家の飼い犬なんですが!? 人間ですらないじゃん! 雄だし!」
「だからってあれは虫だろうが! せめて結婚するなら、俺は哺乳類がいい! そうだ、こうなったら──親父殿! 俺と契りを……!」
「ち、近づくな! この期に及んで、何を世迷言を……! そんなものは認められん! おまえの結婚相手は、クライケットさんだ! 以上! 解散!」
「……わかった。もう、わかったよ」
「おお……! やっとわかってくれたか、ブルーデンツよ! クライケットさんをおいて、他におまえに相応しい女性など──」
「親父殿言う通り、〝解散〟するよ!」
「……はあ?」
◇
──こうして今に至る。
ブルーデンツは実家であるリヒテンシュタイン家からくすねた少量の金貨と、愛用の
しかし、そこは街といっても、街として機能している商業地区のさらに端──吹き溜まりであり、俗にスラムと呼ばれる場所であった。悪臭があたりに立ち込め、魔物か人か区別できないほどに痩せ細った老人が物乞いをし、隣の工業地区から漏れ出た油が、どぶ川の水をさらに汚染しているような場所。そんな場所を身なりの良い男が、息も絶え絶えで、屍人のような足取りで歩いていれば絡まれることは必至。
案の定、三人のモヒカン頭の男たちが、そんなブルーデンツの前に立ちはだかった。
「──YOYO! にいちゃんYO!」
「良いモン着てんYOYO!」
「死にたくなかったらYOYO!」
「有り金とYO!」
「今着てるおベベをYO!」
「全部YO!」
「置いてけYO!」
「はぁはぁ……な、なんだ? なにを、しゃべっているんだ、この国の言葉……なのか?」
男たちとブルーデンツの周りに野次馬が集まってくる。とりあえず、自分がカラまれているという事実だけはなんとか理解したブルーデンツは、汗を流しきった体で、疲労困憊の体で、フラフラになりながら
それは一朝一夕では決して身につかない構え。何度も何度も、繰り返し体に染み込ませたブルーデンツの努力の結晶だったが、ここにはそれを解する人間はひとりも存在しなかった。
「おいおいYO!」
「そのボロボロの体でやろうってのかYO!」
「遠慮なくぶっころころ助しちゃうぜYO!」
「ご……御託は、いい……、さっさとかかってこい」
──カチン。
ブルーデンツの不用意な言葉が、モヒカン男たちの自尊心を深く傷つけた。モヒカン男たちは互いに顔を見合わせると、こめかみに青筋を立てながら、一斉にブルーデンツに襲い掛かった。しかし──
「ぐぎゃああああああ!? あ、頭が! 頭がああああああ! ……YO!」
「兄者!?」
「弟者!?」
ブルーデンツの目にもとまらぬ
「お、俺の、俺たちのアイデンティティをYO!
「自己同一性を! ……YO!」
「ど、どうした……まだやるか……」
ブルーデンツは足元がおぼつかなくなりながらも、それを取り繕いながら笑ってみせる。それを見るなり、分が悪いと悟ったのか、モヒカンたちは「くッ、お、覚えてやがれーYO!」という捨て台詞だけを残し、野次馬をかき分け、押しのけ、去っていった。
ブルーデンツはそれを見て安堵したのか、そのまま前のめりにバタンと倒れて動かなくなってしまった。
しかし、そこはスラム。
たとえモヒカンがいなくなったとしても、第二第三のチンピラがブルーデンツを襲う……ことはなかった。モヒカンたちはそのスラムにおいて頂点。サバンナにおいてのライオンの立ち位置であった。野次馬共はブルーデンツに賞賛の眼差しを贈りこそすれ、襲うようなことは決してしなかった。が、それでも場所が場所。
心では尊敬の念を抱いていても、食うに困る人間がそこらかしこにいる。そして、そんな者たちは免罪符が欲しかった。『皆がやったから自分もやった』という免罪符を。ブルーデンツを取り囲んでいた者たちの胸中には、確かにそれがあった。
その者たちは、誰か一人が動くのを皮切りに、もはや虫の息のブルーデンツから追い剥ぎをしようと、今か今かとハゲタカの如く狙っていたのだ。
そしてその時が来る。
あるひとりの少女が──スラムに似つかわしくない、美しい髪と顔を持つ少女が、しかし、ズタ袋を纏っている少女が、ブルーデンツに近づき、ポケットの中に入っている金貨をかすめ取ろうとした。
──ガシ!
突如、ブルーデンツの腕が蛇の如く
「は、離せ……! この、クソ野郎!」
少女がここでやっと口を開く。ブルーデンツは地面に顔をつけたまま「この声、この手の細さ……女性……いや、
「だ、だれがガキだ! 私はこれでも14だぞ!」
「ガキ……だろ……」
「じゃあおまえはいくつなんだよ」
「18……」
「変わらねえだろ! バカか!」
「4つも違ったら……全然違う……だろ……バカ……」
「誰がバカだ! このバカ!」
「……いや……んな事は……いい……おまえ、俺、と、取引をしないか……」
「取引? 私とか?」
「ここに……おまえ以外は……いない、だろ」
「なんでわかるんだよ、その体勢で」
「わかるさ。俺は……貴族だからな」
「き、貴族!? あんた、やっぱり貴族か……! 離せ、クソ貴族! 私は貴族が嫌いだ! 私を、私たちをゴミの様な目で見てくるおまえらが嫌いだ! 取引なんてするもんか! 今すぐ殺してやる! さあ、手を放せ!」
「俺だって嫌いだ」
「はあ?」
「だから……貴族を……辞めてきたんだ」
「や、辞めた……? なんで? 貴族は毎日美味いモン食って、風呂に入れて、ベッドで寝れるんだろ? なんで辞めたんだ? 頭おかしいのか?」
「コオロギと……結婚させられそうになったんだ……」
「コオロギ?」
「いいか。そこの女……俺に……俺を……飯屋とやらにつれてけ……」
ブルーデンツは今まで自分の家以外で飯を食べた事はなかった。大衆が利用している〝飯屋〟という施設の名前は耳にしたことはあったが、それを利用した事も、見たこともなかったのだ。
「はあ? 何言って……?」
「そ、その代わり……、俺の持ってきた金貨を……全部くれてやる……」
少女はブルーデンツのポケットが盛り上がりを見て、ゴクリと喉を鳴らした。これほどの金貨があれば、当分食うには困らない。それどころか、住む場所も確保できるかもしれない。そう思った少女は渋々、ブルーデンツの取引に応じた。
「貴族じゃないなら……まあ、許してやる……」
「あ、ありが……ガク……」
ブルーデンツは言い終える前に、気を失ってしまった。当然、少女の腕を掴んでいた手の力も弱まる。少女はブルーデンツの手の跡がついた腕を忌々しそうにさすると、ブルーデンツとの取引を無視して、金貨が入っているポケットに手を伸ばした。
──ガシ。
再び、ブルーデンツの腕が蛇の如く
「……あんた、気を失ったんじゃないのかよ」
「おいおい……油断も隙も、ないじゃないか……」
「ケッ、どのみち、あんたがここで死ねば、金は全部私のモンになるからな」
「じゃあ……このまま離……さないぞ……死んだ、後も……」
「チッ……わかったわかった。連れてってやるよ。私がいつも利用している食堂に連れてってやる。まずくはないが、うまくもない。元貴族ならたぶんまずい。でも、そこでいいだろ?」
「ああ」
「……ちなみに、何が食いたいんだ?」
「び」
「び?」
「ビーフ……ステーキ……」
「なんだ? その〝びぃふ・すてぇき〟って? 食べ物なのか? すごい名前だけど」
「ガク……」
ブルーデンツは言い終える前に、気を失ってしまった。再び、少女の腕を掴んでいた手の力も弱まる。少女はブルーデンツの手の跡がこびりついた腕を忌々しそうにさすると、ブルーデンツとの取引を無視して、金貨が入っているポケットに手を伸ば……そうとして、止めた。
「……しゃあない、連れてってやっか」
少女はそう言うと、ブルーデンツの両脚を持ち、顔面を引きずりながら〝飯屋〟を目指した。「もっと丁寧に運んでください」とブルーデンツが遠慮がちに言ったが、少女はこれを完全に無視し、さらに、なるべく水たまりやぬかるんでいそうな道を選んで進んだ。
◇
「まずい! まずい! まずい!」
少女に
「そんなにまずいまずい言うなって。ブッチャー……厨房にいる男、あんたの事を睨んでるよ」
少女がブルーデンツの向かいで、退屈そうに頬杖をつきながら言った。
「まあ、生憎俺は嘘がつけない性分でな。だが、ある意味では美味い。この謎の肉、得体のしれない肉が、やがて俺の血となり肉となって、体を構成する一部となる事に、俺はこの上なく喜びを感じている」
「あー……私にゃあんたが何言ってるか分かんないけど、とにかく、満足してるみたいでよかったよ」
「ああ、助かった。今までずっと飲まず食わずで走ってきたからな」
「その、貴族の家から?」
「そうだ。さっきも言ったが、俺も貴族だったんだ。だがもうそれも止めだ。ここらで適当に暮らして、適当に死ぬよ」
「へえ……って、〝も〟? 〝も〟ってなんだよ」
「いや、おまえも貴族だったんだろ?」
ブルーデンツは手に持っていたナイフの切っ先で少女を指した。ひたすらに行儀の悪い行動だったが、この見知らぬ土地では誰もブルーデンツを責めたりはしない。
「私? 私が貴族なワケないだろ。バカか?」
「そうなのか? その割には、それ……おまえが指につけている、その指輪……絶対安いモンじゃないだろ」
ブルーデンツは、今度は少女が指にはめていた指輪を指した。指輪は澄んだ碧色の宝石がはめられており、何とも言えぬ清らかな印象を、ブルーデンツは抱いた。
「や、やらねえぞ!? これは私ンだからな!」
少女はブルーデンツから隠すように、自身の指を後ろへ隠した。
「いらねえよ。俺はそんなモンに興味なんてない。でも、その反応を見る限り……誰かから盗んだってワケでもないんだろ?」
「な、なんでわかるんだよ……!」
「勘だよ。元、貴族の勘だ。それに、普通盗んだら売るだろ、おまえら。ずっと手元に持ってるって事は、つまりそういう事だ。それも、どうやら訳ありと見た」
ズバズバと自分の事を言い当てられる不快な感覚に、少女がブルーデンツを見る目に、得体の知れない気持ち悪いモノを見ているような色が浮かぶ。
「……話せよ。飯のおかずくらいには聞いてやる」
ブルーデンツはポケットから金貨を取り出すと、それを指ではじいて少女に渡してみせた。少女は「チッ」と舌打ちをすると、受け取った金貨を握りしめて、ブルーデンツを睨みつけた。
「……べつに、たいした事ァねぇよ。私は物心つく前からここに捨てられていた。この指輪を握ったままな。だから親の名前どころか、自分の名前すらも知らない。この指輪も、私の両親がくれたものなのか、道端に落ちていたものをたまたま拾っただけなのかもわからない。ただ、私の最初の記憶は、この街で、この指輪を眺めていたという事だけだ」
「へえ……、でも、今までよく誰にも盗まれなかったな」
「まあな。運が良い事に、物心つく前まで誰もこの指輪を盗もうとしなかった。私が小さくて見えなかっただけかもだけど。けど、最近は……そうだな、さっきあんたが追い払ったモヒカン三兄弟によく狙われてたよ」
「あいつらか……」
ブルーデンツは肉をもぐもぐと咀嚼しながら、なんとなく顔を思い出そうとしたが、まったく思い出せなかった。しかし、それよりもブルーデンツの興味は少女の指輪に向けられていた。
「うーん、その指輪……どっかで見たことあったんだけどなぁ……思い出せねえなぁ……」
「……もういいだろ? あんたをここまで連れてきたんだ。金貨を全部寄越せ」
「おいおい、追い剥ぎじみた事言うなよ」
「いや、そういう取引だったろ」
「……しょうがねえな。ほらよ」
ブルーデンツはそう言うと、渋々金貨を
「……は? おい、足りねえぞ」
「何が?」
「何がって、金貨だよ! 全部くれるって言ったじゃねえか!」
「言ったっけ?」
「言ったって!」
「そうかなぁ……」
もぐもぐもぐ。ブルーデンツはどうでもよさそうにフォークに刺さった肉を口へ運んだ。
──バァン!
そんなブルーデンツに業を煮やしたのか、少女は力いっぱいテーブルをたたいた。
「き、汚ぇ!! だから貴族は嫌いなんだよ! 平気で人を騙しやがる!」
「はは、まあ聞け」
「何をだよ!」
「よく考えてみろ。俺が今食ってるこの謎肉。その金貨二枚でどれくらい食えると思う?」
「に、二年くらい……?」
「だろ? それに比べて、おまえがやった事といえば、俺をここまで引きずって来た事だけだ。果たして、これが金貨二枚以上の働きに相当する労働なのか?」
「そ、それは……でも、おまえは死にかけてて、それを私が助けたんだぞ!?」
「まあ、そうだな。仮にその労働が、俺の持っている金貨の満額が支払われる労働だったとしよう。だが、これはどうだ。これ」
ブルーデンツはそう言うと、自身の顔──血と泥と、何かよくわからない液体にまみれた顔をナイフで指した。
「あんなにハンサムだった俺の顔が、もはや見る影もない。ボロボロだよ。今も唇とか瞼とかひりひりしてる。このまずい謎肉を食うにも一苦労だ」
「どこがハンサムだよ」
「はい、今ので精神的に傷を負ったから、慰謝料金貨一枚没収」
ブルーデンツはそう言うと、少女が持っていた金貨のうちに一枚をぶん盗った。
「あ! 汚ぇ! テメェ、何しやがんだ! 返せ! クソ野郎!」
「なら俺から奪い取ってみろ。俺をここで殺せば、今度こそ俺の持っている金貨はおまえのモノになる。一生安泰……とまでは言えないが、この
「殺す……私が……おまえを……?」
「どうだ? やってみるか? その代わり、俺も自分を守るために手加減はしない」
「や……らないよ! あんたの実力は知ってる。さっき見た。……私じゃ逆立ちしても勝てねえよ……! でも、どうせそれも織り込み済みなんだろ? やっぱ汚ぇよ……! 嫌いだ! おまえも、貴族も! みんな死んじまえ!」
少女はそう言うと、金貨を握りしめ、立ち去ろうとした。
──ガシ。
ブルーデンツが伸ばした腕が、少女のか細い手首をガッシリと掴んだ。しかし力は込められていない。振りほどこうとすれば、少女の力でも振りほどけるような強さだった。が、しかし、少女はそれを振りほどこうとはしなかった。
「……そうだ。この世は汚いもので溢れている。俺の家や、おまえの言う貴族なんかもそうだ。だから、こうしないか。俺はおまえに生き抜く強さを教えてやる」
「生き抜く……強さ?」
「ああ。俺はこう見えて……いや、まごう事なき元貴族だから、剣術の心得も、世の中の流れも、おまえよりは知っている。だから、その代わりに、おまえは俺に、俺の知らない事を教えてくれ」
「あんたの……知らない事……?」
「ああ。俺は家で、学校で、いろいろと学んできたが、実際に見て感じるのは今が初めてなんだ。恥ずかしい話、〝飯屋〟も架空のものだと思っていた時期もあった。今は……そうだな、俺がここで金を稼ぐことが出来るような情報が欲しい」
ブルーデンツはそう言うと、持っていた金貨をすべて、少女の目の前──テーブルの上に置き、ゆっくりと少女から手を離した。少女はうず高く積まれた金貨をただ漫然と見つめていると、やがて口を開いた
「あ、あんた……これ……! なんで?」
「迷惑料です」
ブルーデンツはそう言うと、立ち上がり、少女に対し深々と頭を下げた。
「はあ?! な、なにやってんだ、あんた……!?」
「今までの、貴女への数々の非礼をお詫びします。貴女はそれを持って、俺を置いていってもいいし、俺との取引に応じてもいい。……ただ、もしも俺との取引に応じてくれるのなら、後悔はさせないと約束しましょう」
少女は困惑した表情を浮かべると、改めてその金貨とブルーデンツの顔を交互に見た。ブルーデンツはまっすぐな眼差しで少女を見据えている。少女はすこしだけ頬を紅潮させると「わ、わかった。わかったから、変に見てくるんじゃねえ」と口を
ブルーデンツはニコッと優しく笑うと、そこにあった金貨を全て没収した。
「……え? はあ!? 何やってんだ、コラ!」
「レッスンその1。人に取り入るには、まず自分から手の内を晒せ。……勉強になっただろ? おまえは俺を信じた。だから、取引を承諾した。それ以上でも以下でもない。……ま、なんつーか、これからよろしくな」
ブルーデンツは手に持った金貨を、ズボンのポケットに押し込むと、適当に言った。
「だ、だれが!? よろしくするか! テメェ、このクソ野郎! 騙しやがったな!?」
「レッスンその2。騙されるほうが悪い」
「ブッコロス!!」
ボコッ!
少女の放った右ストレートが、これ以上なく、綺麗にブルーデンツの顔面にめり込んだ。ブルーデンツは親指をピンと突き立てると「ナイスパンチ」と鼻血を垂らしながら呑気に答えた。
──その日、スラムの飯屋には楽しそうな(?)二人の声が響いていた。彼らはこれより二年後、新進気鋭の二人組冒険家〝牛豚コンビ〟として各地で名を上げる事になるのだが、それはまた次のお話──
──────────
ここまで読んでくださってありがとうございます。
ちなみにコオロギはコオロギでも日本の固有種である閻魔コオロギです。
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