8-3 魔術学科の一時限目

 魔術学科の一時限目は古典隠秘学だった。教壇では教科担任のルブラン先生が、魔力が呪文に導かれ魔術として顕現する法則をやさしく噛み砕いて説明していた。

 まず魔力は術者の精神とエーテルが感応して錬成される。それを利用した呪文の発動には詠唱と適切な触媒を正しい手順で用いるのが不可欠。魔術の等値原理により、当然ながら高度な呪文ほど必要魔力量と消費エーテル量は増加する。そしてその成否は術者の魔術的レベルに大きく依存すると同時に、引き出される効果のほども変動する云々。

 初歩的な授業が中断したのは、ペルたちの教室に学監が姿を見せたからだ。錆色のローブを着た学監は王立翰林院の風紀を律する立場ゆえ、修練生から敬遠されがちな存在である。ルブラン先生は廊下で学監と短く話したあと、教室へもどってきた。彼はざわつく修練生たちに向け、何回か手を打って静かにさせた。

「静粛に。この時間の授業はまた後日。諸君には、いまから講堂へ移動してもらいます。さ、全員廊下に出て並びなさい」

 歓声と不満の声が同時にあがり、教室はふたたび騒々しさに包まれる。

「なんだろう、避難訓練かな?」

 フラビオが隣の席にいるペルへ身体を寄せて言った。

「さあね。でも隠秘学は退屈だからちょうどいいよ」

 ペルは教科書を閉じると、クラスのみんなといっしょに廊下へ出た。

 廊下にはすでにほかの教室からも修練生が出てきており、まもなく魔術学科の生徒たちは学監に先導され、列をなしてのろのろと講堂へ向かった。途中、学舎と講堂を繫ぐ渡り廊下のところで前が詰まった。ペルはそこで、ふと翰林院の前庭に目をやった。なにやら騒がしい。見ると、翰林院の敷地内にたくさんの人々が入り込んでいるのだった。皆、翰林院に在籍している者ではない近隣の住民のようだ。それらの群衆の周囲には国王騎士が点在し、彼らを講堂へと誘導している。

「よお、あれ国王騎士だぜ。鎧着てる。かっけえ」

 と目を輝かせながらフラビオ。

「うん。なにかあったのかな……」

 非日常的な光景に、ペルは漠然とした胸騒ぎをおぼえた。彼は牧羊犬に追い立てられる羊の群れのような人々を、しばらくぼんやりと眺めていた。

 ──あっ!

 ペルが心の内で声をあげたのは、翰林院の構内へ流れ込んでくる人波のなかに、見覚えがある姿を見つけたからだった。自分でもわからないまま、衝動的に足が動いていた。やがてペルの歩みは駆け足となり、その人物と距離を詰めるにつれ、もしやという思いが確信へと変わる。

 暗金髪をした灰色のローブを着る男性。年齢はペルの父親とおなじくらいだ。つぎはぎだらけの上っ張りをはおり、羊飼いのような先端がくるりと曲がった杖を手にしている。ペルは近くまで駆け寄った男性へ、息を弾ませながら声をかけた。

「あの、シスガムさん?」

 急に名前を呼ばれた男性は、少しおどろいた様子でペルのほうへ顔を向けた。するとすぐにその表情が緩んで、彼はにっこりとペルに微笑みかけた。

「おお、誰かと思えば、ペルじゃないか」

「は、はい。ホールウォーター村のペルです」

 ぱっと顔を輝かせたペルは、最後に会ったときと変わらない相手を見つめた。

 シスガムという名のその男性は、ペルの故郷であるホールウォーター村に逗留していた伝道師だ。方々を旅しており、無償で魔術の知識を世に広めるかたわら、途中で立ち寄ったホールウォーター村に手習い所を開いていたのだ。ペルは短い期間だったがシスガムに勉強を見てもらい、魔術の基礎もほんのちょっとだが指南された。その際、ペルに魔術師の片鱗を見出したシスガムには、おそらく王立翰林院との繋がりもあったのだろう。ペルが翰林院の修練生となるために必要な推薦状を用意したうえ、費用の大半を肩代わりしてくれた。よってシスガムは、いわばペルにとっての恩人である。

 しかしシスガムはペルが翰林院の選考試験を受ける前に村を去っていた。そののち、彼には合格したことを知らせることもできず、ペルはずっと心残りを感じていたのだ。

「ひさしぶりだな。ご両親は息災かな?」

「ええ。元気でやってます」

 ペルはシスガムとの予期せぬ再会に胸が詰まり、それ以上言葉が出てこないようだ。そんなペルの肩にシスガムが笑いながら手を置いた。

「しかし見違えたぞ。このローブを着ているところを見ると、どうやら無事に翰林院の修練生となることができたようだな」

「そうなんです。シスガムさんのおかげですよ。王立翰林院なんて、ほんとはぼくみたいな平民が入れるところじゃないのに」

「いいや、それはちがうぞペル。魔術を学ぶ権利は誰にでもあるのだ。なによりきみは、秘めた才能を持っている。だからこそわたしはきみに手を差しのべた」

「じゃあ、ぼくもいつか、あなたみたいな魔術師になれますか?」

「がんばりしだいではな。魔術は一朝一夕ではない。努力を惜しむなよ」

「はいっ!」

 シスガムより暖かい言葉をかけられ、ペルは胸が熱くなった。シスガムは誠実であり寛容、そして世の中と他人のために奉仕することを厭わぬ知徳をそなえ、さらに魔術にも長けている。非の打ちどころのない彼は、ペルのあこがれなのだった。

 いまシスガムはおだやかな目でペルを見おろしている。その特徴的な銀色の瞳を、ペルは心酔したように覗き込んだ。が、彼はふいに表情を曇らせると、

「でもひどいですよシスガムさん、ぼくが選考試験を受ける前に、急に村を出ていったりして」

「ああ、そのことか。きみも知ってのとおり、わたしは魔術の知識を広めるため、旅をしている。それに、どうもひとところに留まるのは苦手な性分でな。挨拶もなしに姿を消したのは、すまなかった」

「なにか、理由があってもどってきたんですか」

「うむ。いまラクスフェルドでは、どうもよからぬことが起こっているようだ」

 言って、シスガムは周囲へと頭をめぐらせた。

「よからぬこと……」

 ペルもつぶやいてシスガムの視線を目で追う。その先に見えるのは、翰林院の敷地内へ避難してきたラクスフェルドの住民たちである。これがシスガムの言うよからぬことなのだろう。なにが起こっているのかは知れない。だが、多くの人々が平穏を脅かされているのは容易に想像できた。

 シスガムが自分の携えた雑嚢の蓋を開け、なかを探りはじめた。

「ペル、すまないが、少し頼まれてくれるか」

「はい。なんですか」

 ペルが見ていると、シスガムは雑嚢から一巻の魔術スクロールを取り出した。

「きみに、この魔術スクロールをあずける」

 差し出された巻物をペルが受け取る。その夜藍色をした、なんらかの呪文を封じてある魔術スクロールの表面には、銀色のルーン文字が記されていた。魔術と深い繋がりを持つ古の文字体系だ。しかしペルにはそれが神秘的な文様としか見えない。翰林院の授業でもまだルーン文字を習っていないゆえ、どんな効力を発揮する魔術スクロールかはわからなかった。

「どうかそれで、ステラを助けてやってくれ」

 とシスガム。脈絡もなく出てきたステラの名前におどろいて、顔をあげるペル。

「ペルくん!」

 背後からの鋭い呼び声で、ペルはもう一回びっくりした。反射的に振り返ると、やや離れた場所で腰に両手をあてたレナが、険しい表情をして立っている。

「だめだよペルくん、列から外れちゃ」

「あ、うん」

「みんなもう講堂へいっちゃったよ。ペルくんも急いで」

「いや、でもシスガムさんが……」

「しすがむさん?」

 ペルの言葉に小首を傾げるレナ。不審げな彼女がペルのそばまで歩いてきた。そして、近場を見渡す。

「そんな人、どこにもいないよ」

 レナの言うとおりだった。いまペルたちの近くにいるのは、よそよそしく歩くラクスフェルドの住民たちだけだ。さっきまで目の前にあったはずのシスガムの姿は、どこにもない。

 不思議だった。シスガムは忽然と消えてしまった。が、ペルの手にはまぎれもなく、彼より渡された魔術スクロールが残っている。

 ペルは自分が握っている魔術スクロールを持ちあげ、まじまじと見つめた。そうして、

「レナ、ぼくいかないと」

「いくって、どこへ?」

「ごめん。先生とみんなには、心配しないでって伝えておいて」

 そう言い捨てて走り出したペルの耳には、レナの追いすがる声も届かなかった。

 シスガムはステラを助けてやってくれと言っていた。おそらくラクスフェルドで起こったよくないことが、彼女の身にも降りかかっているにちがいない。どうしてシスガムがステラのことを知っていたのか。どうして自分などに彼女を助ける役目を担わせたのか。わからないことだらけだった。だが、ペルは自分の内からあふれる衝動に身を任せた。彼にはそれが理屈では説明できない、不可避な宿命のように思えたのだ。ならば、行動するしかないだろう。

 翰林院の正門から街中に出たペルは、憲兵隊の本部へ向かうことにした。ステラは昨日、そこで捕まった。十中八九まだ拘留されているはずだ。とにかくステラに会わなければ。

 ペルは翰林院前の商店街を抜けて、目抜き通りを目指す。普段、人で賑わう商店街はがらんとしていた。このあたりの住民たちは皆、翰林院へ避難したのだろう。いつもとちがう街の雰囲気にペルは違和感をおぼえた。シスガムとの謎めいた再会もあってか、ひとりで誰もいない通りを駆けていると、もしや自分はいま悪い夢のなかにいるのではないかと、そんな不条理な考えさえ浮かんでくる。

 目抜き通りと交差する辻を曲がろうとしたときだった。気ばかり急いていたせいか、周りがよく見えていなかった。建物の角を曲がった矢先、ペルは一頭の馬と出くわした。

「わあっ!」

 疾走していた馬の前脚がいきなり間近に突き出され、ペルは思わず叫んだ。ぶつかる。そう思い、彼は目を閉じて両手を顔の前にかざした。しかし、街路を襲歩で駆けていた黒い馬のほうが冷静な判断をしたようだ。黒い巨体がふわりと宙を舞う。馬は後脚で踏ん張ると、軽々と跳躍してペルの頭上を超えて見せた。そのあとの着地も見事である。石畳と蹄鉄が擦れて火花を散らしたが、馬はほとんど体勢を崩すことなく、華麗に地へと降り立った。

 あぶなかった。後ろを顧み、ペルは呆気にとられる。黒い馬がくるりと方向転換し、ゆっくりとした足取りで彼に近づいた。それは裸馬ではなかった。騎乗しているのは、こちらもまた全身黒ずくめな乗り手である。

 首をさげた馬がペルのすぐ目の前でぶるるっと鼻を鳴らした。思わず身を引くペル。

「おまえは、たしか魔術師組合の……」

 鞍の上で体を傾がせ、ペルを見おろす乗り手がそう言った。ペルのほうもすぐに相手に気づいた。それは一昨日、魔術師組合にステラを訪ねてきたハーフダークエルフのナジムだった。

 宿命、めぐり合わせ──

 ペルは確信した。まちがいない、これもそうなのだ。ステラを中心として、いまなにかが起こっている。

 ペルは鐙にかかったナジムの足へしがみつくようにして彼に問うた。

「あの、ステラさんは!?」

「ステラ? あいつがどうした」

「たいへんなんです。ステラさんが、いまどこかで危ない目に遭っているかもしれないんです!」

 その差し迫った様子のペルには、ナジムも困惑せざるをえない。が、ふと彼はペルの手にしている魔術スクロールを目に留めた。

「おいおまえ、なにを持っている?」

 言い終わらぬうち、ナジムはペルから魔術スクロールを取りあげていた。手元のそれを間近で確認した彼は、急に険しい表情となりペルをぎろりと睨んだ。

「小僧、こんなものどこで手に入れた?」

「返してください。それはぼくがシスガムさんからあずかったんです」

「シスガムだと……シスガム……」

 怪訝に呟くナジムから、ペルはつま先立って魔術スクロールを奪い返した。馬上のナジムは無言でペルを見おろしている。ナジムの銀色の瞳は冷たく、まるで相手の心の奥底を見透かさんとしているようだ。しかしペルも負けじと彼の視線を受け止め、さらに見つめ返す。

「おまえ、ステラに会いたいのか」

 ナジムが訊いた。

「はい」

 ペルはきっぱりと答えた。

「どんな目に遭うかわからんぞ。それもいいのか」

「かまいません。もういくって決めたんです」

「ふん。どうもおかしなことになってきたようだ……。まあいい、乗れ」

 ナジムの腕が身体に巻かれたと思ったつぎの瞬間、ペルは黒い馬の背に跨がっていた。

「鬣につかまれ。落ちるなよ」

 ペルの背後にいるナジムが言う。手綱を緩めた彼に拍車をかけられるや、マンディが弾かれたように駆け出した。

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