6-6 ロザリーフ大聖堂の鐘の音

 ロザリーフ大聖堂の鐘の音が聞こえる。外で家鴨小屋の掃除をしていたペルは、もうそんな時間かと空を見あげた。太陽が沈みかけ、地平線に近いところがオレンジに染まった夕空には、さまざまにちぎれた綿雲がのんびりと浮かんでいる。

 ペルは魔術師組合の裏手に回ると、そこに流れる用水路へ、集めた家鴨の糞と藁屑を捨てた。手を洗って、裏口から組合本部のなかへ入る。そろそろ帰る時間だった。今日は何事もなく終わった。細々とした片づけをすませて、帰り支度をはじめる。自分の雑嚢を身体に引っかけ、とんがり帽を手に取る。そうしてペルは、組合本部の奥にある階段の下に立った。少しのあいだ二階を見あげて、どうしようかと迷ったすえ、彼は階段を登った。

 魔術師組合の二階にはステラの部屋があった。部屋の前まできたペルは扉に手をかけ、それをそっと押した。扉と戸口の隙間から頭だけを入れて室内の様子を窺う。本棚と化粧卓、椅子、長持ちなどがあるだけの、すっきりした部屋だった。ステラはその部屋の隅にある自分の寝台で眠っていた。昨日のいまごろからずっと。しかし、寝相が悪いことといったらない。乱れたシーツの上で、ステラはあられもない姿を晒している。いったい、どうやったらああなるのだろう。昨夜、苦労して着替えさせた寝間着が胸のあたりまでずりあがり、見えてはいけない部分がいろいろとほっぽり出されているではないか。

 もうすぐ夏を迎える時期とはいえ、まだ朝晩は冷える。あきれ顔のペルは渋々と部屋へ足を踏み入れた。なんとなく、猛獣のいる檻のなかへ入るような心境で。

 寝台の傍らまでゆくと、ペルはなるべくステラのほうを見ないように努めつつ、彼女の身体に毛布をかけてやった。それから足音を忍ばせてゆっくり窓へ歩く。鎧戸を閉めようと手をのばしたペルは、窓辺に立てかけてあるマグシウスの杖に気づいた。手に取ると、それは思いのほか軽い。積もる伝説に謳われた、おそろしいほどの魔力を秘める魔術杖。だが、いま杖の上端にあるドラゴンの脳結石は本来の輝きを発していなかった。ローゼンヴァッフェに言われたとおり、杖を月の光にひと晩あてたのだが、魔力はまだ完全に回復していないようだ。こちらも持ち主と同じく、かなり消耗したのだろう。

 ペルはマグシウスの杖を元あった場所に置くと、鎧戸を半分だけ開けたままにして窓から離れた。そしてつま先立ちで、そろりそろり室の出入口へと向かう。

「……ありがと、ペル」

 背後から、眠っていたはずのステラに声をかけられ、ペルは文字どおりその場でぴょんと跳びあがってしまった。

「お、起きてたんですか!?」

「いま起きた」

 言うと、ステラは寝台の上でぐんと四肢をのばした。

「あたし、どのくらい寝てたの?」

「えっと、ちょうど丸一日ですよ」

 それを聞いたステラは顔をしかめ、頭をがりがりと掻く。

「丸一日かあ。あたしもまだまだね……」

 そして、ついでに思い出したように、

「そだ、ローゼンヴァッフェさんは?」

「なんとか無事です。いまはゴックさんのお屋敷にいると思います」

「そう」

 元気そうなステラに、とりあえずペルはほっとした。ローゼンヴァッフェからは、いちどに大量の魔力を錬成したことによる反動で倒れたのだろうと言われていたが、それでもやはり心配だったのである。あのとんでもない呪文のことや、ゾンビ嫌いのことなど、少なからずステラには訊きたいことがあった。でも、今日はやめにしておこうとペルは思った。

 ふいに馬の蹄の音が聞こえた。ペルが窓から外を見ると、組合本部の前に見慣れない青毛馬がいた。

「あれ、お客さんかな。ちょっと見てきますね」

 そう言い残し、ペルはステラの部屋を出た。こんな時間に誰だろうと考えつつ、階段を足早に降りる。玄関の扉の前まできたとき、ちょうどノッカーが鳴らされた。はーいと返事をして、扉を開ける。そして、ペルは思わず息をのんだ。

 目の前に黒ずくめの男が立っていた。一瞬ペルの脳裏に、昨日ローゼンヴァッフェから聞いた黒いローブの死霊術師のことが思い出される。しかし、よく見ると男が着ているのはローブではなかった。長旅の埃で汚れた、ただの黒い外套である。

「ここは魔術師組合か?」

 挨拶もなしに男が訊いてきた。

「はい、そうですけど……」

 不躾な訪問者へ、ややいぶかしんでペルは答える。すると男は頭にかぶっている天辺のへこんだ帽子に手をやった。彼は黒い帽子の大きなつばを指で持ちあげ、しばらく組合本部のなかをじろじろと眺めた。その際に見えたが、全身黒ずくめの男は肌の色までもが黒い。すらりとした長身、薄紫がかった銀髪、そして尖った耳。ダークエルフだ。

 ペルはダークエルフを見たのが初めてだった。たしかモンスター事典いわく──種族のひとつがモンスター扱いなのもひどい話だが──、人間にはあまり友好的でないという記述を読んだ記憶がある。だがペルはこのとき、不安よりも興味が先に立っていた。外套の前が開いてわかったのだが、ダークエルフは革の腰帯の左右に剣を吊っている。鞘の形からして、右に薄刃の湾刀、左に細身のレイピア。二刀を操る剣士なのだ。物珍しそうなペルは、そのダークエルフが首から提げている、紐で繋がれた小さな角笛になんとなく目を奪われた。

 ひとしきり組合本部の中を観察したエルフが、銀色の瞳でペルを見おろし、言った。

「おれはナジムという。ステラに会いにきた、あいつはどこにいる?」

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