「柑平の涙」

@1j208-1

第1話

「柑平の涙」

湯月 夜



―― タッタッ タッタッ ――

 オレはこの音がたまらなく好きだった。小さな2つの足が廊下を駆ける音。一瞬の静寂。障子がすっと開く。斜め45度の笑顔が覗く。5歳のリンだ。

 その日の朝もリンはやって来た。

「ルイ。これで物語つくって!」

 リンは大玉の柑平を両手で大事そうに抱えてオレに差し出してきた。

その頃のオレの趣味は物語を創ることだった。リンが片言で話をするようになってからオレはリンを膝の上に乗せて毎日のように自作の物語を聴かせていた。

 柑平というのは前年に登録されたみかんの新品種。オレとリンはすっかりその味と食感の虜になって毎日3個は食べた。父さん母さんたち大人は全く手を付けなかった。今にして思えばそれくらい高級品だったんだろう。

 柑平を見ながら思いにふけってすっかりリンを待たせてしまった。リンはずっと笑顔でオレに柑平を差し出していた。ごめんごめん。柑平を受け取ろうとした時、リンの左手の甲に紫色のあざが幾つかあるのを見つけた。オレの驚いた表情を見てリンは少し困った顔をした。

「痛くない?」

リンは大きく首を横に振って「平気。」と言って微笑んだ。


 その日の正午にオレとリンは柑平を1個ずつ持って箱の中に入った。

柑平で物語を創るとしたらやっぱり甘酸っぱい初恋の話だろうな。オレは柑平を胸の上に置いて物語を紡ぎ始めた。





『プリンの初恋』


 ぼくは柑平シリアル21206w番。へたの周りが茶色いのでプリンと呼ばれている。

せとか先輩が丘の上から声を掛けてきた。

「最近元気ないねプリン。」

「全然元気ですよ。」

強がって見せたけど誰がどうみても栄養失調でやつれていた。

「さては…恋だな。」

デコポン先輩の一言でぼくはフリーズした。

「そうなのプリン。恋なの!」

清美ママが大声を上げた。

「誰?」「いつから!」

一斉に先輩たちから質問攻めに遭ってぼくは白状した。母屋のリンちゃんに夏の終わりから恋をしていたことを。

「えー‼」「リンちゃんなの!」

みかん山が大きく揺れた。

「とにかくみんな落ち着きましょう。」

そう言った清美ママが一番興奮していた。口角はみかんオイルでひたひたに光っていた。

「どういうことなのか順を追って話してちょうだい。」

山じゅうの先輩の視線がぼくの口元に集まっていた。「実は…」と話し始めると、堪えてきたものが堰を切ったように溢れ出した。


 それはまだぼくが青くてちっちゃかった頃のこと。週末になると必ず『みかんの花咲く丘』の歌が聞こえるようになった。とても綺麗な声だった。

 秋になり体が色付いてくると、ぼくたちが冬を暖かく過ごせるための袋掛けが始まった。声の主も作業に参加していた。20歳の大学生で名前はリンちゃん。週末だけ帰省して農園のお手伝いをしていることがわかった。想像通りの素敵なお姉さんだった。

 ぼくは「リンちゃんに袋掛けしてもらえますように。」と神様に祈った。何度か邪魔が入りそうになったけどリンちゃんはぼくの木の前にやって来た。その瞬間を迎えようとした時リンちゃんは足を滑らせた。「あっ!」と言ってぼくの体を両手でぎゅっと掴んだんだ。「あーん!」今度はぼくが絶叫した。体じゅうに電気が走った。糖度が3度上がった。リンちゃんは「ごめんね。痛かったでしょ。」と優しく撫でてくれた。ぼくは一瞬で恋に落ちた。

 暫くは夢の中だった。リンちゃんとのことをいっぱい妄想した。数日後そんな幸せ気分をぶち壊す大事件が起こった。

 その日リンちゃんはいつにも増して綺麗だった。普段と違うお化粧をしてお洒落な服を着ていた。昼前に都会の小学生が遠足でやって来た。先生は長身の美青年でリンちゃんの大学の先輩だった。

 リンちゃんと先生はテラスのブランコベンチに並んで座った。「袋が邪魔でよく見えない!」ふたりは楽しそうにおしゃべりしているようだった。ぼくは嫉妬で実が弾けそうになるのを必死で耐えた。「子供たちを見てないでいいの!」小学生の女の子たちがやって来た。「あ、先生がデートしてる!」「そうだ少女たち。ふたりの間を裂くんだ!」「凄くお似合いね。」「邪魔しちゃ悪いから行こう。」「いやいやそうじゃないだろ!」女の子たちは「きゃあ!」って言いながら行ってしまった。先生はまんざらでもない顔。リンちゃんは真っ赤になっていた。こうしてぼくの初恋は終わった…という残念な話でした。


先輩たちは大騒ぎしながらぼくの話を聞いてくれたが、最後はすっかり押し黙ってしまった。

「何か暗い気持ちにしてしまってごめんなさい。」

ぼくはみんなに深々とお辞儀をして少し眠ることにした。


 ある日の夕方デコポン先輩が話し掛けてきた。

「プリンあの件だけど。」

「あっけない失恋の話ですか?」

「うん。あれから何度か話したんだけど山のみんなで応援しようっていうことになって。」

「でも…」

「いや、まだ告白もしてないんだろ。諦めるのは早いよ。」

「そうでしょうか。」

「そうだよ。今のプリンにぴったりの曲があるんだ。『You Can't Hurry Love (恋はあせらず) - Diana Ross & The Supremes』。聴いてみてよ。」

 その瞬間、タンバリンとベースのリズミカルな演奏が聞こえてきた。デコポン先輩は指でリズムを刻む。歌が始まった。

―― I need love, love to ease my mind,

 ピンスポットがボーカルを照らし出す。

「紅まどんな先輩だ!」

スパンコールのドレスに身を包んだ紅まどんな先輩の甘くてとろけそうなソロで幕開け。AメロからBメロへ移ると他の先輩たちの声が次々と重なっていく。清美ママ、はるみ先輩、せとか先輩、はれひめ先輩も。サビへ向かってどんどんハーモニーが厚くなる。大ゴスペル祭りだ。2コーラス目に入るとダンスメンバーが加わってくる。いよかんさん、温州さん、八朔さん、晩柑さん、甘夏さんたちがソウルフルに後ノリで揺れる。スプリンクラーがスピンを始め、稜線のLED照明も躍り出す。エンディングは紅まどんな先輩による圧巻のアカペラ独唱。ミュージカル映画を観ているような素晴らしいひと時だった。

 曲が終わり光も消える。月明かりの下で紅まどんな先輩が石垣にマイクをそっと置く。

「ダイアナ・ロスの『恋はあせらず』。素敵な曲だったでしょ。あなたも諦めないのよ。」

「はい!」

ぼくは感動に震えながら先輩たちのシルエットをじっと見詰めた。


 数日後、ぼくは衝撃の事実を知った。リンちゃんが重い病気にかかったらしい。紫色のあざが体じゅうにできて高熱にうなされていると。ぼくは婆ちゃんの言葉を思い出した。「私ら柑橘は人間の命を守るためにこの世に生まれてきたんだよ。」ぼくには妙な確信があった。ぼくを食べてもらえばリンちゃんは必ず治ると。

 翌朝リンちゃんのママが朝食用のみかんを採りに来た。母屋に戻ろうとしたママにぼくは全力で体を揺らして呼び掛けた。「ぼくをリンちゃんに食べさせて!」と。奇跡的にママはぼくを採って籠に入れてくれた。ぼくは神様に感謝した。その時「プリン頑張れ!」っていうたくさんの声が耳に届いた。先輩たちが葉を振って見送ってくれていた。ぼくの計画をみんな知ってたんだ。ぼくは涙を堪えて母屋の2階の窓に目を遣った。

 ぼくはリンちゃんの枕元に置かれた。リンちゃんは苦しそうにうなされていた。顔や腕にも酷いあざができていた。ぼくは自力で皮を脱いで身を割った。ひとつ、ひとつとリンちゃんの口にダイブした。リンちゃんは頑張って食べてくれた。4つ目がダイブした時、あざが少し薄くなった気がした。「よし!この調子だ。」5つ目、6つ目。間違いなくあざは消えていっている。最後の1粒になった時リンちゃんはゆっくりと目を開けた。震える指でぼくをつまんで優しいキスをしてくれた。最初で最後のキスだった。大粒の涙が一滴こぼれた。ぼくは最高な柑橘人生に幕を降ろした。

おわり



10年が経ちオレは目覚めた。マスクを着けカーディガンを羽織ってカプセルから出た。筋肉がすっかり落ちていたため壁を伝って歩くのがやっとだった。

 防護服を装着してシェルターから外界へ出た。五感を研ぎ澄ませた。風景に異常は無く聞こえるのは風の音だけだった。右手首のデータパネルの数値も20年前の環境に完全に戻っていることを示していた。

 最終戦争の直後に発生したパンデミック。この国で生き残ったのは2人だけだった。萬田観光農園のひとり娘のリンと養子のオレ。奇跡的に紫瘡病に侵されず父が独学で造った地下シェルターのカプセルの中で生命維持装置を付けて10年間眠っていたのだった。

 

オレは母屋の裏庭から坂を下って農園に向かった。平和な頃は国内外から年間100万人以上の客を迎える人気の観光施設だった。道沿いの木には立派なみかんが鈴なりに実っていた。オレの生還を祝ってくれているようだった。

 農園のゲートをくぐりカフェに向かった。目指すものは当時のままだった。テラスにある籐製のブランコベンチ。海沿いの段畑が一望できるオレの一番の場所だった。オレはベンチに腰掛けて軽く揺らしながら上半身の防護服を脱いだ。3つの太陽に抱かれ海から吹き上げる爽やかな潮風を受けて微睡んでいった。目の前の木の柑平の実が1個だけ大きく揺れているように見えた。何か伝えたいことがあるのか?あの夢は何かの啓示だったのか?

 

甘い香りがして目を開けると美しく成長した15歳のリンがオレの肩にもたれかかって穏やかな寝息を立てて眠っていた。オレは目をつぶってリンの左手を取った。手が震え心臓が高鳴る。意を決して目を開けた。手の甲のあざはすっかり消えていた。腕も首も白く艶やかだった。オレは空を見上げた。果てない青が眩しかった。涙が一筋頬を伝って風に舞った。

8年後。世界の総人口は500万人にまで戻した。人類を滅亡の危機から救ったのは、柑平のクエン酸から作ったワクチンだった。紫瘡病ワクチンは「kanpei′s tears(柑平の涙)」と呼ばれた。

 

今日もオレは丹精込めて柑平を育て、妻のリンはワクチンを精製して世界に送り出している。



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