さまよい
いつもと何も変わらない朝、病室で私が起き上がり洗面所へ向かう。顔を洗いながら私は考えていた。
私はいつになったら退院する事が出来るのだろうか。
私は両親の顔も名前も覚えていない。それどころか自分の名前さえ分からない。思い出そうとすると頭がきゅっと締め付けられていく。瞳がぼやけ、視界が狭くなっていく。地面が揺れているような感覚に襲われる。
ぼんやりと目の前に波が見える。何かが揺れている。これは安心する揺れ方。私は直観的に感じとる。次第にぼんやりとした視界が晴れてくる。
目の前に見える男性。確か、水野先生と言ってたような……。彼の顔の前に波が見える。薄い茶色の細い糸がゆらりと揺れている。
「あ……り…がと…………」
彼の糸は2本に増え、片方が乱れ始める。安心する揺れ方をする糸と、驚きを含んだ荒らしい揺れ方をする糸。なぜなのか分からないけど、私に安心をもたらしてくれる。口角が上がり自然と心が静まり、眠気が襲ってくる。そして視界から彼の顔が消え、糸が消えてゆき、あたりは真っ暗になった。
糸がピンと張るような感覚とともに目を覚ました。肺にまったく酸素が届いていないのかというくらい、落ち着いた息をすることが出来ない。
目をうっすらと開けていくと天井が目に入った。初めて病院で目を覚ました時と同じ天井。
私はあのまた倒れてしまったのか。目を再び閉じると脳裏にあの女の子の悲しみと困惑と怒りが入り混じったような表情が浮かんできた。
ただでさえ荒い息がさらに荒くなる。耳元ではピーピーと何か音が鳴っている。体の芯から次第に冷えていく。じわじわと、確実に。
息苦しさが次第に和らいでくる。視界に広がっていたはずの天井は、いつの間にかうっすらと、そして色を失う。中心からピリピリと全身に痺れが広がっていく。指先まで冷え切ったとき、体がふわふわと宙に浮かぶような感覚に襲われた。偽りの楽園だと知っていても、ふわふわと浮かんでいく。あともう少し、そして全てが終わる……と、思った。
何か違う。感覚的にそう感じた。体が冷え切ったままだ。全身が痺れているのも変わりない。ただ一つ違うとすれば、一か所だけほんのりとした温かみを感じられること。温かみは次第に全身へと広がり、私の体は生を取り戻した気がした。そして再び、私の意識が泥の中に沈んでいった。
意識が覚醒した。身体全体が痺れていて、動かすことが出来ない。しばらくすると、少しずつ、着実に痺れが消えていくように感じた。私は、未だ痺れが残っている手をゆっくりと動かし、顔へと運ぶ。眠気なのか、頭がぼーっとしている。何とか手を顔に近づけ、開かない瞼を擦った。
「んぅっ」
私の口から声が漏れる。少し曇ったような、響くような声。今まで声が出なかったことが嘘のように、滑らかに零れ落ちた。不思議な感覚。開いてはいけない扉を開けてしまったような、踏み出してはいけない1歩を踏み出してしまったような、恐ろしく怖い。だけれども、それ以上に私の心は声を出すということに対して喜びを感じていた。
瞼を擦ったあと、少しずつ瞼を開けていく。角膜に差し込んだ光を、狭まった状態の虹彩が少しずつ拡がり受け取っていく。次第にぼやけていた視界のピントが調整されていき、世界を捉えた。
息をすると口もとが熱くなる。私の口は何かで覆われている。ちょっと熱いけど、それのおかげで息が楽にできる気がする。だから私は取ったりなんかしないよ、おとなだもん! と、とらないよ……。と言いつつ、再び手を顔の近くに動かしていく。
と、その時、部屋に風が流れ込んでくる感じとともに、誰かが入ってきた。反射的に手を引っ込める。決して、後ろめたくてひっこめたわけではない……よ?
「亜朱さん!良かったです」
勢いよくドアが開いたと同時に白衣を着た人が入ってきた。ごめんね、と言いながら聴診器を私の胸にあてた。何か所かあてると、ふぅーっと息を吐いた。
「うん、大丈夫そうだね。呼吸は苦しくない? 」
私はコクリと頷いた。なんとなくだけど、声を出そうと思えば声が出る気がした。でも、私の口は乾ききっていて言葉が私の口から紡がれることはなかった。
少しのぼーっとしていると水野先生が立ち上がった。
「さて、また来るね。疲れているだろうからゆっくり寝てね」
軽く頭を下げるとそのまま部屋から出ていき、私はまた一人になった。
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