女子校考察

@prtn

第1話完結

二十二歳を迎えても私は恋愛経験にまったくの潔白だった。小学校を卒業してすぐに女子校に入り、中学の三年間、高校の三年間、そして大学の三年間をそのままに過ごしてきた。おそらく卒業までの一年もこうして変わりなく過ぎていく。もはやこれは誰が望んだことなのかわからない。中学受験をすると決めた時、私の志望校は五つあって、その全てが女子校だった。どこに合格してもこの運命はほとんど約束されたものだったのだ。「志望校」というのだから、自分が志願してこうなったと言えば筋が通る。しかし十二歳の少女であった私に志望校を選ぶだけの判断力や決断力があったかと言えば、それは怪しいものだった。学校の説明会にはほとんど母が参加したし、合格して「行く」と決めたのは塾の先生に勧められた女子校だった。母や先生から「あなたはこの学校が向いている」と言われれば、その学校は自分に合っているような気がした。

こう書くと私の意思とはまったく無関係のところですべての歯車がまわってカラクリ式に現れた道をただまっすぐに歩んできたみたいになるけれど、どうもそうとも考えにくい。私は女子校での生活に満足していたし、もし人生にやりなおしがきくとして、共学校への進学を選ぶかと聞かれたら、その答えは否である。女子校にはヒエラルキーがない。おそらく女のヒエラルキーは同じ環境に男がいなければ発生しないのだ。男に好かれやすい女ほどヒエラルキーの上に行く。男がいない女社会では「面白い」ことが正義になる。理解しがたい強烈な個性の持ち主であればあるほど、その子を中心に人の輪ができる。誰にも考え付かないようなことを言ったり、おこなったりする子ほど人気なのだ。そういうわけで誰もが競い合うようにして個性を解放するから、自分を特別に変なのだと考えて悩まずにすんだ。私より頭のおかしい子なんてたくさんいる。

女子校はいい意味で実力社会でもある。どんなに容貌が良かろうと悪かろうと実力の評価にそれは関係のないことだ。たとえば「普通」の環境で、勉強ができるだけの容姿の優れない人はいい待遇を受けないかもしれない。ところが女子校で評価されるのは「勉強ができる」部分においてのみだ。逆にどんなに美人でも底意地が悪ければそれ相当の評価を受けることになる。「容貌が優れないから」という理由で実際よりも実力を低く評価されたり、底意地の悪いことをおこなっても「可愛いから」という理由で許されるような不当はまず起きない。厳正で公正で、そしてやはりこんな環境は異常なのだと思う。私もそう思うし、みんなもそう思っている。それでも私たちはこの快適な檻を何よりも愛した。

中学は女子校に三年間通ったとして、高校の三年間を女子高に通うかどうかは自身で選択できることだ。同様に女子高に三年通ったところで女子大に四年通うかどうかも自身で選択できる。そう考えるのも最もだと思う。ところが外から檻に入ることは簡単でも、一度入ってしまった檻から抜け出すことは容易ではない。たとえるなら、私は一度人に飼い慣らされた動物みたいなものだ。丁重に保護され、可愛がられ、「さあ、野生にかえっていいよ」と言われたところで迷いなく帰れるものか、動物になったつもりで考えてみてほしい。もちろん、私は野生にかえることなど望まなかった。女子校は牢獄ではない。本当に居心地のいい檻だ。私たちはよく「動物園」と例えたけれどそれは正しいと思う。よく手入れされ、穏やかで、野を生きるような緊張感はない。それぞれの檻の中でそれぞれが好きなように過ごしている。出て行こうなんて気にはなれない。それは中には出ていく者もいるけれど、そういう者に対して私たちは小さく手を振るだけだ。

女子校の社会はやはり明らかにいびつで異常だ。だから「普通の人」が適合するのは難しい。普通の男女共学校(私たちはそのような学校を総称して「コウリツ」と呼ぶ)で楽しく過ごせる子は、基本的に私たちになじむことができない。コウリツを楽しめるのは男に気に入られる女だ。そしてどういうわけか男に気に入られようと努力するほど女は無個性化する。個性の強さこそ高く評価される女子校では、「普通」であるほどクラスの中心から外れることになる。「普通」の子たちは勝手にそれを「周囲と違って自分が庶民であるから馴染めないのだ」と思い込んでしまう。私たちは彼女らを仲間外れにしないし、ましてや物を隠したり、暴力をふるったりなどしない。それでも彼女らは自分自身をコンプレックスの淵に追い込み、最後には動物園を去っていく。実のところ、私たちは私たちになじむことのできない「普通」の女の子のことがうらやましくてたまらない。私たちだって、「普通」にしか適合できない人間として生まれたかった。この世に動物園なんてものがあることを知らない方が良かったのかもしれない。そう思ってみても、一秒後にはそれを否定してしまう。私たちの居場所はもうここにしかないのだから。私はそうして去る者たちを何人も見送り、「檻の中にいる」という権利を九年行使してきた。

女子大の入学式では「他大学の団体には所属しないように。保護者の皆様にもこの通達を出しました」と言われた。他大学の団体とはつまり、男のいるコミュニティのことを意味している。保護者にまで「キャンパスの外でサークルの勧誘行為をおこなっている男子学生は本学に関りはありません。お嬢様がこういった団体に入会しないようお気を付けください」とわざわざ書面を送って寄越すので愉快だった。私はひどく世間知らずな一般庶民にすぎない。同級生には中学も高校もコウリツだった正真正銘の一般庶民だってたくさんいる。今更お嬢様ごっこなんて滑稽だ。そう思ってもやっぱり私は檻の中の保護動物で、毎日大人しくしていればエサもおやつも与えられたし、見たことのない天敵からも徹底して守られた。

私はもう大学四年生だから、じきに忙しい企業で出会いもなく働いている男のために「お嫁さん候補」として出荷される。就活が上手くいって内定がもらえれば、の話だけれど。広告業界の人事の人が説明会で言っていたけれど、ブランディングという言葉は「これはうちで育てたものです」ということを知らせるために飼育者が家畜に独自の焼き印を施したことが語源になっているらしい。私もここを卒業して●●女子大の焼き印をもらうのだ。これをもらうことで私は出荷先で他の女の子より高く評価される可能性がある。女子校に十年いた私には「男によく評価されたい」という願望がなければ発想自体もない。それでも私が目指さなくてはならないのは、より付加価値のある豚だ。

二十歳も過ぎれば子供ではないんだし、自由に恋愛くらいできるだろうと言う人もいる。けれど、私の立場になって考えてもみてほしい。同世代の男と河童に一体なんの違いがあると言えるんだろう?十二歳で女子校の檻に入った私にとって同世代の男なんてみんな架空の生き物だ。どこかには存在するらしい。小学校にいた同級生の男の子が私と同じように順当に時を刻んでいれば私と同世代の男になっているはずだ。理論上は理解できる。けれど、檻の外の世界の実際がわからない。視線を交わすことも話すこともない。本当に意思疎通の可能な生き物かどうかを知らない。そんな状態で一体どうやって河童に接触しろというのだろう。

出荷の日に向けて、私は誰から守りたいわけでもなければ誰に壊してもらいたいわけでもない純潔を持て余す。きっと出荷されるその日が来たところで何かが変わるわけじゃない。完全に欠落した感情の在処を手探りして、見つからないことに嘆きたくなる日は来るかもしれない。でもそれ以上のことは何も想像がつかなかった。

私のブランディングに大金をはたいた両親はただ、この商品に飛びきりに良い買い手がつくと信じている。私が「普通の人」たちと同じように結婚し、子どもを産むと思っている。そこに一点の疑いもない。私は「普通の人」たちが見てきた景色を、何ひとつとして知らないのに。

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