第六章 セイレーネスの歌声
一
柊矢に、今日は迎えに行けないから楸矢を行かせる、と言われたので校門の前で待っていると、いきなり腕を掴まれ、思わずつられて一緒に歩き出してしまった。
横を見ると、腕を掴んでいるのは沙陽だった。
「あ、あの、私、楸矢さんを待ってないと……」
「話をするだけよ。話が終わったら戻ればいいわ」
沙陽は命令するようにそう言うと、小夜の腕を掴んだまま歩いていく。
小夜は引っ張られるままに
「柊矢さんのことなら……」
「柊矢も楸矢も関係ないわ」
沙陽が遮った。
「最初からあなたときちんと話しをすべきだった」
小夜が訳が分からない、と言う顔で沙陽を見上げると、
「森の事よ。あなたにはあの森の素晴らしさが分かるでしょ」
前を向いたままで断定するように言った。
「それは……」
確かにあの森への憧憬は唯一沙陽と共有できる想いだろう。
柊矢さんへの想いもかな?
「あの森を凍り付かせてる旋律が溶けたときのことを想像したことがあるでしょ」
勿論、何度もある。
たった一滴の旋律でさえ、あれほど美しかったのだ。
全て溶けたら、惑星上の全てのものが素晴らしい音色を奏でるだろう。
その旋律に包まれることが出来たらどれだけ幸せな気持ちになれるだろう。
その場にいるためならどんな犠牲を払ってもいいとすら思う、ムーシコスには抗えない魅力のある場所。
沙陽も小夜と同様、あの森にすっかり魅せられている。取り憑かれていると言ってもいいほどに。
「旋律の溶けた森に行ってみたいでしょ」
「それは……思います。でも、行けません」
「どうしてよ! 行きたいんでしょ!」
沙陽は腕を掴む手に力を込めた。
痛みに思わず小夜は顔をしかめた。
しかし沙陽は小夜のそんな様子には気付かないようだった。
「あなたには行ける手段だってあるじゃない! どうしてそれを使わないのよ!」
「それは、ムーシケーが私達が行くことを拒んでいるからです。私はクレーイス・エコーとして、ムーシケーの意志に逆らうことは出来ません」
「逆らえないんじゃないでしょ! 逆らわないだけでしょ!」
「私にとっては同じ事です」
沙陽が腕を掴む力を更に強めた。
痛っ!
小夜は顔を
「沙陽さん、私、もう戻らないと」
沙陽は無表情のまま前を見ていた。
二人は交差点の歩道の端に立っていた。
右側からすごいスピードでバスが迫ってくる。
まさか……。
このままバスの前に突き飛ばす気じゃ……。
小夜は青くなった。
そのとき、不意に腕から圧力が消えた。
見ると楸矢が沙陽の手首を掴んでいた。
「消えて。女の人に暴力振るいたくない」
沙陽は楸矢を睨むと、丁度青に変わった信号を渡っていった。
「楸矢さん。校門の前で待ってなくてすみませんでした」
小夜は頭を下げた。
「いや、間に合って良かったよ。小夜ちゃんの友達が、前に襲ってきた女が小夜ちゃん連れてったって電話くれて、慌てて飛んできたんだ」
以前、沙陽が清美を使って脅迫してきたとき、また同じ事があったときのために、清美に柊矢と楸矢の連絡先を教えておいたのだ。
「清美が……。助けてくれて有難うございました」
小夜は頭を下げた。
「どういたしまして。友達に連絡する?」
「はい」
小夜はスマホで清美に無事を伝えて礼を言った。
「じゃ、帰ろうか」
楸矢はそう言って小夜と共にバス停に向かって歩き始めた。
「それにしても分からないよなぁ。確かに幻想的で綺麗な森だとは思うけどさぁ、あそこまで執着するほどのものかね」
「ムーシコスにとってあの森以上に心を惹かれる場所はないと思いますけど」
「そんなに魅力的かなぁ」
楸矢が理解できない、と言うような表情をした。
小夜も首を傾げた。
なんで同じムーシコスなのにこんなに淡泊なんだろう。
どうもあの森の素晴らしさが今一つ分かってないように思える。
もしかして……。
「あの、楸矢さん、あの森の旋律、聴いたことあります?」
「初めて封印のムーシカ歌ったとき以外でって事?」
小夜が頷いた。
「ないけど」
やっぱり。
柊矢も楸矢も椿矢も、森に大して関心を示してないから変だと思っていたのだ。
あの凍り付いている旋律を聴いたことがなければ、ただの綺麗な森だとしか思えない。
綺麗なだけの森では帰りたいと思うわけがない。
柊矢達からすれば、あの森に帰りたい、というのは、居住禁止の国立公園の真ん中に、景色が綺麗だから住みたい、と駄々をこねているのと同じだろう。
「小夜ちゃんはあるの?」
「はい」
小夜は初めて森を見たときのことを話した。
「旋律の雫、か」
惑星一杯に凍り付いた旋律はきっと、何億、何兆という膨大な音楽のはずだ。
一生かかっても全てを聴くことは出来ないほど沢山の美しい旋律。
「まぁ、それなら確かにムーシコスは惹かれるだろうけどさ、ムーシケーは帰ってくるなって言ってるわけでしょ」
楸矢もムーシコスだから旋律に満ちた世界がどれほど魅惑的かは理解できる。
しかし、今は全て凍り付いている。
「どうしてムーシケーは拒絶するんでしょう。ムーシコスはムーシケーから生まれたのに」
「SFとかだと、ムーシコスが、惑星を破壊しかけたから、とかだよね」
確かに良くありそうな話ではある。
「ムーシコスって、イメージ的に音楽を愛する平和な種族に思えますけど」
正確には音楽以外は眼中にない種族だろうか。
音楽を奏でていられれば満足だから争いの起きる余地がないというか。
柊矢の、音大付属を選んだ理由が音楽の授業が多かったからと言う言葉にもそれがよく表れている。
ヴァイオリニストにしても、なってもいい程度だったというのもそうだ。
楽器の演奏をしていたいだけだから、音楽で身を立てようとか言う発想はないし、楸矢が音大に行くかどうかや将来どうするかは本人が勝手に決めればいいと考えているようだ。
勿論、楸矢が困っていたり悩んでいたりすれば助けるだろうが、それ以外で干渉する気はないのだろう。
家族に対してさえそうなのだから他人との対立など起きようがない。
帰還派のように向こうから何か仕掛けてくれば別だが。
小夜が音楽室で歌い始めると、柊矢も楸矢もすぐにやってきて演奏を始める。
特に柊矢はそれが顕著だ。
他のムーシコスも多分、柊矢同様ムーシカを聴くと、そのときやっていたことを放り出して歌や演奏を始めてしまうのだろう。
個人差はあるが、ムーシコスはそれくらい音楽――というかムーシカ――に弱い。
「そう思いたいのは山々だけどさ、沙陽みたいのだっているじゃん。それに、危険な兵器を使ってとかじゃなくて、ムーシカが
「
「嵐を起こせるくらいだからねぇ。案外、旋律が溶けると惑星が崩壊する、とかかもよ」
そんな話をしているうちにバスがバス停に着いた。
小夜はバスから降りた。
「買い物に行くんだ」
楸矢が一緒に降りながら言った。
霧生家の最寄りのバス停は次である。ここで下りたと言うことはスーパーで買い物をすると言うことだ。
「今日の夕食、何?」
「まだ材料買ってませんから何でもいいですよ」
「そっかぁ。何にしようかな」
楸矢はそう言いながら嬉しそうに小夜の隣を歩き始めた。
「今度こそ決めた! カツ丼と肉じゃが!」
楸矢は散々迷った末その二つに決めた。
なかなか決まらないので、スーパーの中をうろうろしてしまった。
材料をカゴに入れるとレジに向かった。
「小夜ちゃん、お礼にいいこと教えてあげる。柊兄の誕生日、来月だよ。二月五日」
「そうだったんですか。楸矢さんはいつなんですか?」
「え、俺? 俺はいいじゃん。内緒」
「教えてくれないんですか?」
「そ、秘密」
何か嫌なことでもあったのかな?
もしかしてお祖父様の命日だとか?
それなら無理に聞かない方がいいだろう。
小夜は深く追求しなかった。
小夜が肉じゃがを作っているとき、柊矢が帰ってきた。
「お帰りなさい」
「ただいま。今日は肉じゃがか」
柊矢は小夜の肩越しに鍋を覗き込んだ。
と、柊矢さん、顔近い!
い、今、頬が触れたような気が……。
小夜は真っ赤になった。
心臓の音が聞こえないといいけど……!
「あ、あの、柊矢さん?」
小夜は俯いたまま、柊矢に声をかけた。
「ん?」
「楸矢さんのお誕生日って……」
「十月十日だが」
「何か嫌なことでもあったんですか?」
「妊娠期間は十月十日って言うだろ。それで子供の頃、元旦に作られたって散々からかわれたんだ」
柊矢の言葉に小夜は耳まで赤くなった。
「もう出来ますから、楸矢さんを呼んできてもらえますか?」
「分かった」
二
「小夜~、聞いて!」
学校の自分の机に鞄を置くと清美がこちらを向いた。
「どうしたの?」
「今、校門のところにすっごくかっこいい人がいたの」
「清美、柊矢さんが好きなんじゃなかったの?」
「柊矢さんは沢山いる恋人候補の一人ってだけだよ」
清美はあっさり言った。
つまり、柊矢さんが好きってわけじゃないのか。
それにしても、知り合いでしかない段階で恋人候補っていうのもすごい。
片想い中ならともかく。
「それでどうしたの?」
清美は小夜の手を取ると、折り畳まれたメモ用紙を載せた。
「なにこれ?」
「その人の番号」
「なんで、私に渡すの?」
小夜が首を傾げた。
「もぉ~、小夜に渡して欲しいって頼まれたからに決まってるでしょ!」
「どうして?」
「一応確認しておくけど、それ、素で聞いてる?」
「うん」
清美は溜息をついて肩を落とした。
「小夜に気があるから電話して欲しいって事だよ」
「え!?」
小夜は驚いて清美を見た。
「だ、ダメだよ! 清美、返してきて!」
小夜は清美にメモ用紙を押しつけた。
「どうしてよ、会うだけ会ってみたら? かっこいい人だったよ」
「無理! 絶対無理! 知らない男の人となんて話せない! とにかく断って!」
激しく首を振りながら言う小夜に、もぉ~、小夜奥手すぎ、と言いつつも清美はメモ用紙を受け取った。
良かった。
無理矢理会わされたらどうしようかと思ったのだ。
柊矢さんは私のことなんかなんとも思ってないだろうけど、私は柊矢さんが好きなんだから他の男の人と会ったりするのは良くないよね。
清美だったらそんなことお構いなしに会っちゃいそうだけど。
て言うか、この様子だと、番号を渡されたのが清美なら今頃一緒にお茶してても驚かない。
小夜は清美にメモ用紙を返してそれで終わったと思っていた。
「え? 受け取ってくれなかったの?」
二十歳くらいだろうか。
私服を着た青年は困ったような顔で前髪をかきあげた。
淡い茶色の巻き毛が風に揺れている。
それを清美がぼーっと見上げていた。
その二人を通り越していく女生徒達も青年をちらちらと見ていく。
中には一緒にいる清美を睨んでいく者までいた。
勿論、清美はそんなの気にしない。
青年が小夜に興味があると知って尚、他の女にとられてたまるか、と言うように、彼をがっちりガードしていた。
「そうか。残念だな。話だけでもしてみたかったんだけどな」
「あ、それなら、今日は無理ですけど、明日にでも小夜をお茶に誘いましょうか? あたしと一緒ならきっと会ってくれますよ」
清美は青年の気を惹きたい
「いいの?」
「はい。任せてください。番号教えてもらえますか? 上手くいったら電話します」
「じゃあ、これ」
青年は小夜が返してきたメモ用紙を清美に渡した。
翌日、清美は小夜をお茶に誘った。
何も知らない小夜は二つ返事でOKした。
清美と一緒にファーストフード店に入っていくと、既に柊矢が来ていた。
小夜が柊矢に微笑むと、向こうも頷いてきた。
注文したコーヒーを受け取った小夜が席を探していると、
「小夜、こっちこっち」
清美が呼んだ。
行ってみると先客がいた。
「この人、昨日言ってた人。山田宗二さん」
「清美!」
小夜が怒ると、
「小夜ちゃん、ゴメンね。清美ちゃんを怒らないであげて。僕が無理を言ったんだ。清美ちゃんと一緒に話をするだけならいいでしょ」
宗二が手を合わせて謝った。
小夜は困って柊矢の方を見た。
柊矢は険しい顔でこちらを見ていた。
男が
柊矢さん、怒ってるみたい。
困ったな。
「何? 柊矢さん? あたしが
「いい! 柊矢さんには後で私から話すから」
小夜はきっぱり断った。
ここで清美が行ったら更にややこしくなりそうな気がする。
「じゃ、座ろ」
清美がそう言って宗二の横に腰を下ろした。
小夜は清美の前に座った。
この人、どこかであったことあったっけ?
小夜は宗二を見て首を
見覚えがあるような気がするのだが思い出せない。
小夜は知らない男の人と話すことは滅多にないから話したことがあるなら覚えているはずだが。
「あの人、小夜ちゃんの彼氏?」
「いえ……」
「小夜の後見人なんです」
「後見人?」
宗二が訊ねるように小夜の方を見た。
「その、色々ありまして……」
「ふぅん」
宗二はそれ以上突っ込んでこなかった。
話してみると、宗二は感じのいい人だった。
今大学三年生らしい。
話術が
「ね、今度一緒に映画観に行かない? 清美ちゃんも一緒ならいいでしょ」
「行きたい! ね、小夜、行こうよ!」
「清美……」
清美は小夜が狙われてるということをすっかり忘れているらしい。
「お茶くらいならいいけど、映画とかは……」
そのお茶だって清美が一緒でなければ柊矢が許してくれるかどうか。
コーヒーを飲みながら横目で柊矢の方を窺うと、むすっとした顔でこちらを睨んでいる。
清美が一緒でもダメかも。
友達くらいにならなってもいいかな、と思い始めていたのだが、柊矢の反応を見ると男友達は認めてもらえそうになかった。
あれって、保護者としてダメって事なのかな。
それとも焼き餅?
焼き餅かもしれないと思うとちょっと嬉しかった。
「……ちゃん? 小夜ちゃん?」
「あ、はい」
「小夜、ちゃんと話聞いてた?」
「ごめん、ちょっとぼーっとしてたみたい」
「夢見がちなところも可愛いね」
「はぁ」
小夜は気の抜けた返事をした。
清美が
「お茶以外は全然ダメ?」
宗二が訊ねた。
「たまには買い物でもしようよ」
清美が言った。
小夜が宗二と二人きりで会うのを拒む限り、清美が
つまり清美としてはそれだけ宗二といられることになるのだ。
小夜はコーヒーに口を付けながら上目遣いで清美を見た。
三人で一緒に行動していれば宗二は清美を好きになるかもしれない。
そうすれば今後は小夜抜きで会うようになるはずだ。
清美に宗二を押しつける結果になるが、彼女もそれを望んでるようだから問題ないだろう。
もう一度、宗二に目をやった。
やっぱり、どこかで会ったことあるのかな。
声も聞き覚えあるような……。
初対面ではないように思えるが、だとしたら宗二はそう言うはずだ。
多分、気のせいだろう。
「じゃあ、映画や買い物、行っていいか柊矢さんに聞いておきます。清美も一緒でいいならですけど」
「勿論、構わないよ」
その言葉に清美が宗二の死角になるところでガッツポーズをした。
清美、頼んだよ。
任せて!
女二人の視線での会話に、宗二は気付かなかったようだ。
三
「映画? 買い物?」
柊矢が前方を見たまま眉を
帰りの車の中だった。
「清美があの人と付き合えるようになるまででいいんです。付き合い始めたら二人だけで会うようになるはずですから」
小夜が
「あいつはお前の方に気があったようだが?」
「でも、お互い全然知らない相手ですし、一緒にいるうちに清美の方を好きになるかもしれないですから」
柊矢は考え込んだ。
確かに、小夜をぱっと見て気に入ったんだとしても、清美の方が気が合うとなれば彼女の方を選ぶ可能性はある。
清美だって可愛い顔をしているのだ。
小夜は性格的に男に合わせるなんて無理だろうが、清美の方は相手の好みに合わせるタイプに見える。
狙ってる相手ならば尚のこと。
問題は……。
「買い物は店を限定してなら。勿論、送り迎えは俺がする。映画はダメだ。暗いところで襲われたら防ぎようがないからな」
「分かりました」
予想通りの答えだったので小夜は頷いた。
小夜はふと思いついて、
「柊矢さんと二人でも映画はダメですか?」
と聞いてみた。
「ホラーならいいぞ」
柊矢が意地悪な笑みで言った。
「遠慮しておきます」
「今回のことが決着するまではDVDで我慢してくれ」
「はい」
それほど映画が好きなわけではない小夜は素直に返事をした。
「買い物していくか?」
そろそろ大久保通りに近くなった。
買い物をするかどうかで右に曲がるか真っ直ぐか変わってくる。
「何か食べたいものありますか? 昨日は楸矢さんの好きなもの作りましたから、今日は柊矢さんの好きなもの作りますよ」
柊矢はちょっと考えてから大久保通りを右折した。
「買い物なんだけどさ、丁度今、原宿のお店でセールやってるよ」
「え! 行きたい!」
そう答えてから、
「あ、でも、女の子の服の買い物なんて、宗二さんは嫌じゃないかな」
と小夜が言うと、
「じゃ、聞いてみる」
清美はいそいそとスマホを取りだして教室から出ていった。
宗二に電話する口実が出来たのが嬉しいらしい。
清美と宗二さんが上手くいくといいけど。
でも、そうなったら、私とはあんまり一緒にいられなくなっちゃうかな。
清美に念願の彼氏が出来るのは嬉しいが、ちょっぴり寂しい気もした。
「OKだって」
清美が帰ってきて言った。
「じゃ、服買いに行こうか。あ……」
「どうしたの?」
「なんでもない」
宗二に、柊矢の誕生日プレゼントの相談に乗ってもらおうかと思ったのだが、清美と上手くいくまではあまり積極的に話さない方がいいだろう。
「じゃ、今度の日曜日にね」
清美が言った。
日曜日、小夜は清美、宗二の二人とともに原宿の店に来ていた。
「こっちは?」
「え? こっちの方が良くない?」
限られた予算でベストの選択をするには、商品を厳選しなければならない。
自然とあっちをあわせてみたり、こっちをあわせてみたり、となってしまう。
店内は小夜と同い年くらいの女の子で溢れていた。
「このスカートと合わせるならこのブラウスだよね。でも、あのベストと合わせるならあっちのブラウスの方が……」
「でも、そうするとスカートが……」
服選びに夢中の二人に、宗二は完全に置いてけぼりを食った。
宗二の方も、とても口を出せる雰囲気ではないと悟ったのか、店の外でスマホをいじっていた。
清美も今だけは宗二を綺麗に忘れていた。
「やっぱり。向こうの方がいいかなぁ」
「それよりこっちの方がいいんじゃない?」
「小夜、あっちにしなよ。あたし、そっちにする。で、着たいときに貸しっこしようよ」
「いいよ。じゃ、次、隣の店行こうか」
「うん」
二人がレジをすませて店を出ると、宗二は壁にもたれていた。
「マズっ! 宗二さん、すみませんでした」
清美が慌てて頭を下げた。
小夜も一緒に頭を下げる。
お互い横目で、今日は他の店は無理だねと確認し合った。
「構わないよ。気に入ったの買えた?」
そう言った宗二の顔は引き
「はい。宗二さん、疲れたんじゃないですか?」
清美が宗二を気遣うように言った。
「君達の方が疲れたでしょ。そろそろお茶でも……」
宗二がそう言いかけたとき、人混みの向こうに柊矢の姿が見えた。
「柊矢さん」
小夜が真っ
小夜が目の前に立つと柊矢が小夜の荷物を持った。
「あの人、ホントにただの後見人?」
そうは見えない、と言いたげな口調で宗二が訊ねた。
「本人はそう言ってますけど」
清美も今の小夜を見て自信がなくなった。
あれはどう見ても恋人に駆け寄っていくときの表情だったし、小夜の荷物を当然のように持った柊矢も後見している子供を見る目ではなかった。
「清美、ゴメン、もう帰らないと。宗二さん、今日はすみませんでした」
小夜は戻ってきて二人に頭を下げると、柊矢の元に走っていった。
「買い物は済んだのか?」
柊矢は小夜の肩を抱きながら訊ねた。
「それが……」
小夜が事情を話した。
「その店は今度にしろ。今日は別の店に行く」
「え? 行くって、どういうことですか?」
柊矢に連れて行かれたのは新宿のデパートに入っている店だった。
大人っぽさの中にも可愛らしさがあるデザインの服が置いてある店だった。
「きれい……」
そう言いながら値札を見て慌てて手を引っ込めた。
「まずはこれだな」
柊矢が桜色のブレザーを選んだ。
「試着してこい」
柊矢は有無を言わせず小夜を店員に引き渡した。
小夜が店員に案内されて試着室へ入る。
「良くお似合いですよ」
「サイズもぴったりみたいだな」
「柊矢さん……」
柊矢は言いかけた小夜を遮って服を渡すとまた試着室へ押し込んだ。
全部すむと柊矢はレジで金を払って荷物を受け取った。
「と、柊矢さん、私、こんな高いの……」
「値段は気にするな」
「気にします」
「お前の後見人として、ちゃんとした服も必要だと思っただけだ」
「でも……」
「じゃ、身体で払うか?」
「柊矢さん、それ本気で言ってたら怒りますよ」
「冗談ならいいのか?」
「冗談でもダメです」
「とにかく気にするな」
柊矢はそれで話は終わり、と言う表情で歩き出した。
四
「清美、おはよう。昨日、あれからどうだった?」
「お茶には行ったよ」
話が弾んだという表情ではなかった。
「宗二さんと上手くいきそうじゃないの?」
「宗二さんが好きなのは小夜だよ。その小夜が柊矢さんといちゃいちゃしてるの見ちゃったら、ね」
「え、いちゃいちゃなんてしなかったよ」
小夜が赤くなった。
「柊矢さんとはそんなんじゃないって前にも……」
「小夜の荷物持って肩抱いて、それで何もないっていうわけ?」
「荷物なら楸矢さんだって持ってくれるし、肩抱くのだって別に特別な意味は……」
だんだん小夜の声が小さくなっていった。
「じゃ、楸矢さんも小夜の肩抱くわけ? 柊矢さんは他の女の人の肩抱く?」
「楸矢さんはしないけど……、柊矢さんが他の女の人の肩抱いてるのも見たことないけど……」
他の女性といっても沙陽くらいしか知らないが、彼女とは睨み合っているところしか見たことがない。
「そゆこと。柊矢さんにとって女って言ったら小夜なんだよ」
「そ、そんなこと……」
不意に中央公園でのことを思い出して耳まで真っ赤になった。
「あ! なんかあったんだ!」
「な、ない! ないよ! 何もなかった! て言うか、しなかった! 柊矢さんが無理強いはしないって言って……」
小夜の言葉に清美が唖然とした。
「しなかったって……、あんた達そんなとこまでいってたの!」
「そんなとこって、キスくらいでそんな……」
小夜がおろおろしながら言った。
「つまりキスしそうになったんだ」
あ……。
口を押さえたが遅かった。結局、清美に全部吐かされてしまった。
「じゃ、小夜が拒んだんだ。勿体ない」
「だ、だって、本気かどうか分かんなかったし……」
「本気じゃなくたって既成事実作っちゃえばこっちの勝ちじゃん」
「既成事実って、キスくらいで……」
小夜が呆れて言った。
沙陽とだってキスくらいしたことあるだろう。
「あーあ、小夜が柊矢さんとそうなるのは分かってたんだよね。だから小夜より先に彼氏作ろうと思ってたのに」
「そんな、競争じゃないんだから。それに、私、柊矢さんの彼女じゃないし」
言葉にすると胸が少し痛んだ。
そうだ、彼女じゃない。
柊矢さんはそれらしい素振りはするけど、何にも言ってくれてない。
「清美だって宗二さんと……」
「小夜目当てだったんだよ。小夜に振られたらもう連絡なんかしてこないよ」
「清美からすればいいじゃん」
「う~ん」
いつもなら図々しいくらいの清美にしては珍しく消極的だ。
もしかして、宗二さんに本気になった、とか?
清美の邪魔しちゃったかな。
そのとき予鈴が鳴って、話はそれきりになった。
休み時間、清美にお茶に誘われた。
「清美、怒ってないの?」
小夜は恐る恐る訊ねた。
「怒るって何に?」
「宗二さんとのこと、邪魔しちゃったでしょ」
「元々、宗二さんが好きだったのは小夜じゃん。あたしはチャンスがあればいいなって思っただけ」
清美はそう言って話を打ち切った。
放課後、新宿通りを歩いているときだった。
不意に歌声が聴こえてきた。
ムーシカ……だよね。
これは肉声ではない。
でも……多分、他のムーシコスにも聴こえてない。
聴こえてるなら他のムーシコスが加わっているはずだ。
このムーシカには人を傷付ける意図は感じられないのだから。
「小夜?」
立ち止まった小夜を清美が振り返った。
「ゴメン、清美、先行ってくれる? ちょっと忘れ物したみたい」
「分かった。じゃ、席取っとくね」
清美が行ってしまうと、小夜はムーシカが聴こえてくる方へと歩き出した。
細い路地を曲がったところに、宗二がいた。
「ホント、ムーシコスってムーシカに弱いよね」
壁にもたれたまま言った。
「ムーシカを歌うだけでよってくるのに、どうしてムーシコスの集団って存在しないんだろうね。それとも、僕が知らないだけであるのかな」
「宗二さんもムーシコスだったんですか?」
「宗二は偽名。本名は
「……椿矢さんの弟さん?」
そういえば、椿矢は弟がいると言っていた。
「そ。雨宮椿矢の弟」
「今のムーシカは……」
「呼び出しのムーシカってとこかな」
小夜は首を傾げた。
「特定の相手だけに聴かせるムーシカ。昔はムーシコスなら誰でも使えたみたいだよ、今は使えるムーシコスは限られてるけど」
「それで、私を呼び出したのはどうしてですか?」
「ムーシコス同士は惹かれあう。だから、君を落とすのは簡単だと思ったんだけどな。あいつもムーシコスだって事忘れてたよ」
榎矢は「あいつ」という言葉を憎々しげに言った。
「私があなたを好きになったらどうするつもりだったんですか?」
「勿論、森への道を開いてもらう。凍ってる旋律を溶かして、ね。本来なら僕がクレーイス・エコーになるはずだったんだ。クレーイス・エコーを継ぐものは代々、木偏の名を貰ってるんだ」
「木偏って……じゃあ、柊矢さん達も……」
もしかして、沙陽さんが二股かけてた「けい」って人も木偏の名前だったのかな。
「遠い親戚らしいね。地球人と結婚して血を薄めた連中に親戚だなんて名乗る気ないけど」
小夜は榎矢を見つめた。
そうか。
椿矢も榎矢も初めて会ったときから見覚えがあるような気がしていたが、どことなく面差しが楸矢に似ていたのだ。
椿矢と榎矢は兄弟だからそれ以上に顔も声も似ている。
だから声に聞き覚えがある気がしたのだ。
二人の間をムーシカが流れていく。
小夜もそれに併せてムーシカを口ずさんだ。
「うちは代々ムーシコス同士で結婚して、ムーシコスの血筋を維持してきた。だからみんな強い
小夜は歌いながらも聞いているというように頷いた。
「なのに、選ばれたのは血が薄くて力の弱い霧生兄弟に、先祖返りでたまたま
「ムーシケーがクレーイス・エコーを選ぶ基準は
「……確かにそのようだね。でも、今のクレーイス・エコーが三人ともいなくなったら、次は誰を選ぶかな」
榎矢が小夜に近付こうとしたとき、
「おい!」
柊矢が駆けてきた。
「柊矢さん!」
小夜がほっとして柊矢を見上げた。
「今のムーシカはなんだ」
「それは後でお話しします」
「どうやら
椿矢も現れた。
「今のムーシカで二人同時に呼んだのか……」
榎矢が驚いたように小夜を見た。
「クレーイス・エコーは伊達じゃないって事か」
そう言うと、榎矢は踵を返して去っていった。
「あいつに何かされたのか?」
「いえ、まだ何も……」
「あいつ、君に何て言ってた?」
「自分がクレーイス・エコーを
「まだ、そんなことを……」
椿矢は呆れたように溜息をついた。
「いい加減諦めて欲しいんだけど、煽る人がいるからね」
「沙陽、か」
柊矢が言った。
「そう言うこと。
「沙陽の知り合いが先代のクレーイス・エコーだったと言っていたが、もしかして……」
「うちの
「血筋を維持してきたって言うのも言ってました」
「それは嘘だよ」
「嘘?」
「断言は出来ないけど、地球へ来た頃のムーシコスの外見はギリシア人に似てたんじゃないかな。僕の予想だけど、古典ギリシア語のムーシカが多いのは、ムーシコスが見た目の似てるギリシア人が多い場所――つまりギリシア――に送られたからだと思う。けど、僕や榎矢や
「しかし、古代ギリシアのことは結構歴史に残ってるだろ。だが、古代ギリシアに大量の移住者が来たなんて話、聞いたことないが」
「古代って言うのがプラトンやソクラテスの頃のこと言ってるならせいぜい紀元前三、四世紀頃だからムーシコスが来てから二千年近くたってるよ」
それを聞いた柊矢が、古代ギリシアってそんなに新しい時代だったのかという顔をした。
「だが、それならギリシアに来たって根拠もないって事だろ」
「一応、うちも霍田家も先祖は西から来て日本に渡ってきたって言い伝えは残ってる」
勿論、その西というのがギリシアかどうかまでは分からないらしいが。
「あと、ムーシコスって数が少なかったんじゃないかな。近くでムーシコスが歌や演奏をしていれば分かるし、それを聴けば大抵のムーシコスは近寄ってくる」
「あ、それ、榎矢さんが同じこと言ってました。ムーシカを歌うと
確かに、それで柊矢と小夜が出会ってるし、柊矢と小夜が椿矢と知り合ったのも椿矢のムーシカを聴いたからだ。
「そ。小夜ちゃん、柊矢君や楸矢君と僕以外のムーシコスと会ったことある? 帰還派みたいに意図的に近付いてきた連中を除いて」
「ありません」
「そう言うこと。僕だってしょっちゅう外で歌ってるのに、親戚以外のムーシコスの知り合いは
それに、ムーシケー中にムーシコスが散らばって住んでいたのだとしたら、ムーサの森以外にも地球と繋がった場所があったはずだ。
でなければ、全てのムーシコスを地球に送ることは出来ない。
だが、目の前に現れるのがムーサの森だけということは、ムーシコスはムーサの森近辺にしか住んでいなかった可能性が高い、と椿矢は付け加えた。
「それだと、ムーサの森が新宿に出るのと、ムーシコスがギリシアに送られたって言うのは矛盾しないか?」
「ムーサの森が現れてるのはここだけじゃないよ。森はムーシコスの前に現れるんだから。君達がたまたま新宿でしか見たことないってだけでしょ」
柊矢にそう答えると、
「他には何か言ってた?」
と小夜に訊ねた。
「柊矢さんと楸矢さんは親戚だって」
「え? 名字は?」
椿矢が柊矢に訊ねた。
「霧生だ」
「雨冠の霧? 名前に木偏は付く?」
「木偏に冬に矢で柊矢だ」
「じゃ、間違いないね。祖父様が、大伯母――祖父の伯母――が地球人と駆け落ちしたって、死ぬまで愚痴ってたし」
「地球人、とか言うとすごく壮大な話をしてる気になりますね」
「内容は一部のムーシコスの寝言だけどね」
椿矢が白けた口調で言った。
「ムーシコスってロマンティストって言うイメージがありますけど、椿矢さんはリアリストなんですね」
椿矢は以前、文明のない
小夜自身、文明のないところで暮らせるかどうかは別として、ムーサの森に帰ることを想像するときに電気や水道のことなど考えたこともなかった。
「ムーシコスの血筋がどうのって寝ぼけたこと言ってる家に生まれたからね。うちの家系図は天皇家より古い、なんて眠たいこと言ってるけどさ、ムーシコスが地球に来た頃には日本に文字なんてなかったっての。家系図なんか作れるわけないでしょ。ロマンティストなのが悪いとは言わないけど、あんまり夢見がちなのもね。それもいい年した大人がさ」
椿矢は溜息をついた。
「榎矢は沙陽と結婚したがってるんだよね。どっちの家もムーシコスの家系だからって理由でさ。発想が完全にブリーダーだよね。でも、肝心の沙陽が柊矢君にご
椿矢が柊矢を見ながら言った。
「それだけ古い家系なら、ムーシケーに関する資料とか残ってるんじゃないのか?」
沙陽達はその資料を見て強引に森を溶かして帰ろうとしているのではないのか。
「言ったでしょ。ムーシコスが来た頃には日本に文字はなかった。ムーシコスも文字は持ってなかったみたいだし」
ムーシコスが文字を持ってなかったのは多分必要なかったからだろう。
ムーシコスにとって大切なもの――ムーシカ――は魂に刻まれるから外部に記録する必要がない。
音楽が全てのムーシコスにとって、他に記録が必要なものがなかったから文字を持っていなかったのだろう。
それに、ムーサの森近辺にしか住んでなかったのなら遠い場所への通信手段も必要ない。
だが、文字を持っていなかったなら確かに家系図は作れない。
「うちの蔵に残ってる資料の類はどれも日本語だよ。地球にムーシコスが来たのは四千年近く前。日本に文字が入ってきたのは四、五世紀頃。だから、四千年も前に来たムーシコスの資料なんか存在しないよ」
夜道には気を付けて、と言って椿矢は去って行った。
五
大分待たせてしまった清美に何度も謝ってから、榎矢――宗二――が沙陽の仲間だったと話した。
落ち込むかと思ったが、
二人は店でひとしきりお喋りした後別れた。
明治通りは珍しく
「これならいつもより早めに着きそうですね」
「そうだな」
柊矢がそう答えたとき、ムーシカが聴こえてきた。
女性の独唱だが沙陽ではなかった。
柊矢の車の前を大型バスが走っていた。
前方の信号が赤に変わろうとしていた。
沙陽以外で他のムーソポイオスが同調していない独唱なんて珍しいな。
そう思った瞬間、強い眠気が襲ってきて意識が途切れた。
一瞬、白く凍り付いた森が見えた。
けたたましい音がしていた。
クラクションが鳴り続けているのだ。
「柊矢さん! 柊矢さん!」
気づくとエアバックが開いて、背もたれに押しつけられていた。
エアバッグの空気がゆっくり抜けていく。
小夜が必死に柊矢を揺すっていた。
どうやら眠ってしまい、どこかにぶつかったようだ。
そこまで考えて、
「おい、大丈夫か?」
慌てて小夜を見た。
「私は平気です。柊矢さんこそ、おケガはありませんか?」
「俺も無事だ」
誰かが通報したのだろう。すぐにパトカーがやってきた。
柊矢の車はガードレールにぶつかり、後ろを走っていた小型車に追突されて止まっていた。
眠気がしたとき、咄嗟にブレーキを踏んだため追突され、ガードレールにぶつかったらしい。
もし、ブレーキを踏んでいなかったらバスに追突していただろう。
道が
そのスピードでバスに突っ込んでいたら、柊矢も小夜も死んでいたかもしれない。
ここまでやるのか。
どうやら帰還派の連中は本気で自分達クレーイス・エコーを排除する気らしい。
病院へ連れて行かれて検査を受けた後、警察で調書を取られたりして、夜遅くになってからようやく解放された。
「あの、柊矢さん……」
「すまなかったな。守るつもりで却って危険な目に……」
「それはいいんです。それより、これ、やっぱり柊矢さんが持っていた方が……」
小夜はそう言ってクレーイスを差し出した。
「事故の時、一瞬あの森が見えたんです。私、多分、それで無事だったんだと思うんです」
「効果はあったわけか」
「はい」
そう答えた小夜の手を取ると、クレーイスを握らせた。
「俺もあの森を見た」
「ホントですか!?」
「ああ。多分、あの事故の瞬間、俺達はあの森にいたんだ。だからケガも無く
おそらく、昔祖父が亡くなった交通事故の時も同じことが起きたのだ。
一瞬、白い森が見えたのは、衝突の瞬間ムーシケーが柊矢と楸矢をムーサの森に飛ばしたのだ。
それで、二人はほぼ無傷で
「じゃあ、これ……」
小夜が再度出した手を優しく押し返した。
「お前が持ってても、俺も守られた。だから、これからもお前が持ってろ」
「え!? ムーシカが事故の原因!?」
柊矢は家で楸矢に、女が歌っているムーシカが聴こえて眠気が襲ってきたことと、椿矢から聞いた話をした。
霧生家の台所である。
小夜は三人分のココアを作っていた。
「そこまでやるの!? バスに突っ込んでたら死んでたかもしれないんでしょ」
楸矢が信じられないという顔で言った。
「明らかに殺そうとしてた」
「俺、決めた」
「え?」
柊矢、楸矢、自分の三人分のココアをそれぞれの前に置いていた小夜が楸矢を見た。
「俺、ぜってぇ帰還派の言いなりになんかならない。最後の一人になっても森が出る度に封印のムーシカ演奏し続ける」
「楸矢さん」
「お前もこれからは気を付けろ」
「分かった」
「今日は疲れただろ。早く寝ろ」
柊矢が小夜に向かって言った。
もう午前一時を回っていた。
「今度は交通事故? 小夜、あんた、厄年なんじゃない? 厄払いしたら?」
清美が小夜の手首に巻かれた包帯を見て言った。
事故の瞬間、ムーサの森へ行ったものの戻ってきたとき、鞄を持っていた手がエアバッグに押されて捻ってしまったようなのだ。
「私が厄年なら清美もだよ」
「それもそうか。そうそう! 聞いてよ!」
「どうしたの?」
「
「ホントに!?」
「心乃美にまで先越されちゃったよ~」
手かぁ。
ちょっと憧れるけど、柊矢さんの場合、肩を抱くだろうなぁ。
それもいいけど、手を繋ぐのもいいなぁ。
「小夜、手ぇ繋いだの羨ましいとかって眠たいこと思ってるでしょ」
「え? 清美は違うの?」
清美は大げさに溜息をついてみせた。
「あたしは心乃美にまで先越されたのが悔しいって言ってんの! あんたは肩抱かれてんだから手なんか繋ぐの羨ましがることないじゃん!」
「き、清美!」
小夜は真っ赤になって他のクラスメイトに聞かれてないか左右を見回した。
「あんたは心乃美より先にキスでもすればいいじゃん。あ~、あたしも早く彼氏欲しいな~」
「だ、だから、柊矢さんとはそう言うんじゃないってば」
「あたし、見ちゃったもん。柊矢さんが肩抱くの」
「いい加減忘れてよ」
「忘れな~い。で、今日はどうする? どっか寄ってく?」
清美の問いに小夜は首を振った。
「しばらくは真っ直ぐ帰る」
柊矢がかなり心配しているのだ。
これ以上何かあったら家から一歩も出るな、と言い出しかねなかった。
早く家に帰るのはそれほど嫌ではない。
音楽室で思う存分歌えるからだ。
小夜が音楽室の戸を開けると、楸矢がフルートを持っていた。
「あ、すみません」
小夜が慌ててドアを閉めようとすると、
「いいよ、小夜ちゃん。入って」
楸矢が小夜を呼んだ。
フルートをケースにしまうと、笛を取り出した。
「丁度気分転換したかったんだ。歌ってよ」
そう言うと笛を吹き始めた。
小夜がそれに併せて歌う。
そこに、ムーソポイオスのコーラスが次々と加わっていく。
柊矢もすぐに入ってきてキタラを弾き始めた。
三曲ほど歌ったところで終えた。
勿論、誰かが歌い始めれば他のムーソポイオスもまた歌い始めるが。
「昨日、話を聞いて疑問に思ってたんだけどさ。呼び出しのムーシカって、ムーソポイオス限定? だよね? 普段から楽器持ち歩くわけにはいかないし」
「榎矢さんは、昔はムーシコスなら誰でも出来たって言ってましたけど……」
呼び出しのムーシカならキタリステースでも歌えるのか、それともキタリステースは常に楽器を持ち歩いていたのかまでは聞かなかった。
榎矢はムーソポイオスだからキタリステースの場合はどうなのか分からない。
小夜はちょっと考えてから、
「口笛は吹けますか?」
と訊ねた。
「吹けるよ」
「じゃあ、私か柊矢さんを呼ぼうと思って吹いてみてください」
その言葉に楸矢が口笛を吹き始めた。
「聴こえますね」
「聴こえるな」
「じゃあ、俺達は口笛吹けばいいんだ。これで誘拐されても大丈夫だね」
「誘拐なんてされたらダメですよ」
「分かってるって」
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