第二章 旋律の森

       一


 小夜が学校から帰ると、柊矢に呼ばれた。

「ちょっと話があるんだが、いいか?」

「はい」

 二人はリビングに入った。

 柊矢がソファに座ったので、小夜も向かいに腰を下ろした。

「君の家なんだが……」

「はい」

 小夜は身を固くした。

「火の付いたまま捨てられた煙草が原因らしい。火元の玄関先から焦げた吸い殻が見つかったそうだ」

 玄関の外に置いてあった古新聞の束にタバコの火が付いたのだろうとのことだった。

 小夜の家に限ったことではないが、新宿の古い住宅街というのは敷地が狭く、その敷地内ぎりぎりまで家を建てているところが多い。

 しかも、どこの家も大抵は二メートルくらいの塀で囲まれている上に塀と家の間に人が通れるだけの幅がある家は少ない。

 人が通れないなら裏口は作らないし、窓があってもそこから外には出られない。

 小夜の祖父が逃げ遅れたのも、唯一の出口である玄関が火元で外に出られなかったからだ。

「煙草……」

 小夜は俯いて手を握りしめた。

 煙草の火が元で家が燃えてしまった。

 祖父も亡くなった。

 全てを失ってしまった。

 誰かが捨てた火の付いた煙草のせいで。

「……柊矢さん、私は誰を恨めばいいんですか? 何を憎めばいいんですか? 煙草ですか? 煙草会社? 煙草を吸う人?」

 煙草がなければこんなことにならなかった。煙草があっても、火が付いたまま捨てる人がいなければ火事は起こらなかった。

「何を憎むのも勝手だが、憎むってのは結構エネルギーがいるもんだ。そんなことにエネルギーを使うくらいなら、もっと建設的なことをした方がいいと思うがな」

 柊矢さんは大人だな。

 自分はそんなに簡単に割り切れそうにない。

「本題に戻るぞ。いいか?」

「あ、はい」

 小夜は慌てて顔を上げた。

 確かに、恨むとか憎むとかの前にやらなければならないことがある。柊矢の言うとおり、余計なことに労力を使っている暇はない。少しでも柊矢達に負担をかけないようにしなければ。

 でも……。

 古新聞の束?

 そんなもの自分が家を出たときは置いてなかったし、廃品回収は当分先だ。

 雨に濡れると引き取ってもらえなくなるから当日までは外に出さないはずなのに……。

「土地をどうするか決めないといけないんだ」

「どうって?」

「まず、焼け跡のまま残しておくことは出来ない」

「はい」

 それは理解できた。

「瓦礫を撤去していいか?」

「はい」

 仕方ない。あれだけ燃えたのだ。何も残ってるはずがない。

「じゃ、次だ。更地にした土地はどうする?」

 柊矢によると、地価が高すぎて相続税の基礎控除分を大きく超えるらしい。

 遺産相続の場合、不動産は時価の八割程度で計算されるのだが、相続人が小夜一人と言うこともあり、他の控除や特例を使っても相当額の相続税を支払うことになりそうなのだという。

 古い家でローンが残ってなかったのも災いした。

 相続税だけではない。そのまま持ち続けると場所が場所だけに、毎年高額の固定資産税などがかかってしまうらしい。新宿駅や都庁まで徒歩十分程度の距離なのだから当然だ。

「じゃあ、手放すしかないって事ですか?」

 予想していなかったわけではないとはいえショックだった。

 建物は燃えてなくなってしまったとしても、せめて土地があればまたやり直せる気がしていたのだ。土地まで手放したら、本当にもう何も残らなくなる。

 小夜は俯いて膝の上に置いた拳を握りしめた。

 泣いたらダメだ。

 ただでさえ迷惑をかけているのに、これ以上困らせるようなことは出来ない。

 火災保険は建て直しにかかるお金を全額出してくれるわけではないし、不足分を出せるだけのお金は小夜にはない。

 生命保険で下りたお金を使ってしまえば、生活費も固定資産税を払うことも出来なくなる。

 かといって、建物の建っていない更地のままだと固定資産税などが高すぎて毎年払い続けるのは無理とのことだった。

 住宅と更地では固定資産税が違い、住宅の税率はかなり軽減されが更地はそうはいかない。

 地上げで不良債権になった土地が軒並み駐車場になったのも駐車料金で少しでも回収したいというのもあるだろうが固定資産税が払いきれないからでもあるのだ。

「分かりました。手続きとかはどうすれば……」

「良ければ俺が代わりにやるが。こういう手続きには慣れてるからな」

「では、お願いしてもいいでしょうか?」

 小夜には他に頼れる大人はいない。赤の他人にここまでやらせてしまうのは申し訳ないが、他にどうしようもない。小夜にはどうすればいいのか全く分からないのだ。

「分かった」

 柊矢はそう言うと席を立って二階の部屋へ戻っていった。


 柊矢がいなくなると抑えていた涙が溢れてきた。

 ひとしきり泣くと、小夜は顔を洗って音楽室へ入った。

 何も考えず、聴こえて来る歌に身を任せるようにして歌い始めた。


 柊矢は自室の椅子に座って小夜の歌声を聞いていた。

 窓から差し込む光に向かって塵が舞い上がっていく。

 天に向かうように。

 このまま小夜の悲しみが全て天に昇って消えればいい。


 一ヶ月後、祖父の遺体が帰ってきた。二十分ほどで済む行政解剖と違い、司法解剖は時間がかかるのだ。

 小夜の家はもう無いので落合にある斎場さいじょうの会場を借りて通夜と葬式を行った。

 全ての手配は柊矢がやってくれた。小夜一人だったらどうしたらいいか分からなくて途方に暮れていたところだ。参列者は小夜と柊矢と楸矢だけだった。近所の人や学校の友人達には知らせなかった。

 葬儀の間中、ずっと祖父の死をいたんでくれてるかのような歌が聴こえていた。


 小夜は骨になった祖父の骨壺こつつぼを抱えて霧生家に帰ってきた。

「すみません。嫌ですよね、おこつなんて」

「何言ってるの。小夜ちゃんのお祖父さんでしょ。全然嫌じゃないよ」

「ありが……」

 涙が溢れてきて、骨壺にかぶせられている布の上に落ちた。

 小夜はその場に座り込むと泣き崩れた。

 もう自分には誰もいない。

 帰れる場所もない。

 何も残ってない。

 柊矢も楸矢も何も言わずに小夜を泣かせてくれた。

 小夜は泣くだけ泣くと、泣き疲れてその場で眠り込んでしまった。


 誰かが優しく抱き上げてベッドに運んでくれたのが分かった。

 目が覚めるともう暗くなっていた。

 大変! 夕食作ってない!

 腫れぼったい目をこすりながら小夜が台所に飛び込むと、楸矢がデリバリーのパスタを食べていた。

「あ、起きたんだ。トマト&チーズのパスタで良かったかな? 何がいいか分かんなくて適当に頼んじゃった」

「すみません!」

 小夜が頭を下げた。

「何が?」

「その、色々と……」

「気にしなくていいよ。それより食べなよ」

「有難うございます。それじゃ、いただきます」

 小夜は大きな紙の入れ物に入っているパスタを皿に取った。

「あの、柊矢さんは?」

「先に食べて部屋に戻った」

 パスタは一皿で二人分くらいあるらしく、皿に取った分でお腹いっぱいで、入れ物に入っていた分の半分以上残してしまった。それを楸矢がじっと見ていた。

「あ、私はもうお腹いっぱいですから……」

「いいの? 有難う」

 楸矢はすぐに手を伸ばして紙の入れ物を引き寄せると、嬉しそうに食べ始めた。

 小夜がデリバリーの入れ物を片付けていると、柊矢が入ってきた。

「明日は学校を休んでくれ。色々手続きをしないといけないんだ」

「はい」

「学校に届けを出す必要があるなら俺が……」

「大丈夫です。自分で学校に電話をかけますから」

「そうか」

 柊矢は頷くと部屋へ戻っていった。


 翌朝、柊矢の車でまず大塚の監察医務院へ向かった。

「印鑑は持ってきたか?」

「はい」

 印鑑も金庫に入っていて無事だったものの一つだ。

「死亡診断書を二十枚ほどもらって欲しい」

 本当は解剖した遺体の場合、死体検案書したいけんあんしょというのだが、小夜の心情に配慮して死亡診断書と言う言葉を使った。もっとも、申請用紙には死体検案書と書いてあるからすぐに知られてしまうが。

「分かりました」

 二人は監察医務院へ入っていくと、小夜が死体検案書発行のための手続きをした。「死体検案書」という字を見て、小夜は一瞬顔をこわばらせたが、すぐに何事もなかったように手続きを終わらせた。

 それから新宿区役所で住民票と戸籍謄本とうほんをやはり二十通ずつ取った。

 手続きのとき、柊矢から一万円札が何枚も入った封筒を渡されてびっくりしたが、戸籍謄本などをとるのにかかった金額にも驚いた。

 その後、柊矢の知り合いの弁護士と会ってから家庭裁判所で遺産相続の手続きをし、それから銀行や保険会社を回った。手続きの度に死体検案書や戸籍謄本などを出していたので、二十通ずつあった書類はすぐになくなった。

 家庭裁判所で柊矢が小夜の後見人になる手続きもしたので、今日からは柊矢が小夜の正式な保護者だ。


 保険会社の事務所を出ると、強い風が吹いていた。その風に紛れて歌が聴こえてきた。

 確か、あの夜も聴こえていたな……。

 小夜の家が火事になった晩もこの歌が聴こえていて風が強かった。

 柊矢がそんなことを考えているとき、突風が吹き、建物と建物の間の細い路地に立てかけられていた材木が倒れてきた。

 木材が小夜に迫る。

 小夜は自分に向かって倒れてくる木材を見てすくんでいた。

「危ない!」

 柊矢は咄嗟に小夜をかばった。

 材木のうちの一本が柊矢の肩にかすったが、打ち身程度ですんだ。

「無事か」

「は、はい。有難うございます。柊矢さんは……」

「俺は何ともない」

 そのとき、材木を置いていた店舗の店長らしい男が飛んできた。盛んに頭を下げる男を適当にあしらい、柊矢は小夜を連れて立ち去りかけた。

 そのとき、ふと思いついてジャケットのポケットに手を入れた。前に部屋で拾ったペンダントがあった。柊矢はそれを小夜の手を取ると握らせた。

 小夜が正しい持ち主のように思えたのだ。

 願わくば、これが小夜をこれ以上の不幸から守ってくれるように。

「これを持ってろ」

「え?」

 小夜は手を開いてペンダントを見た。

「これ……」

「お守りだ」

「そんな大切なもの、いただけません」

「今一番必要としてるのはお前だ」

 そう言って車の助手席のドアを開けて小夜を乗せると、運転席側に回って車に乗り込んだ。


 小夜はペンダントを掲げて、ペンダントヘッドを見た。白く半透明な色をしている。

 何で出来てるんだろう。

 たまの部分を日に透かしてみると、光を反射して光った。

 綺麗……。

 なんだか、あの旋律の森で落ちてきた雫と似てる気がする……。

 小夜はそれを首にかけて、服の下に入れた。


 途中、ファミレスで昼食を取り、最後に夕食の買い物をしてから家に戻ったのは夕方だった。

「これで大体の手続きは終わった」

「有難うございました。今から夕食の支度しますね」


       二


「あの……」

 三人が夕食の席に揃って付くと、小夜が口を開いた。

 小夜の改まった様子に、楸矢は食べかけていた手を止めた。

「今までお世話になりました」

 小夜が頭を下げた。

「どういうこと?」

「お金が入ったら、これ以上ご迷惑をおかけするわけにはいかないので、この家を出ようと思います」

 一気に言い切ると、大きく息を吐いた。

 言えた。

 ここを出ていくのはつらいけれど、いつまでも甘えているわけにはいかない。

「ダメだ」

「え?」

「俺はお前の後見人だ。俺が後見してる限り一人暮らしは認めない」

「でも、柊矢さん……」

「小夜ちゃん、どっちにしろ行くとこないでしょ」

「それは……部屋を探して」

「わざわざ探さなくてもこの家の部屋は余ってる」

「え、でも……」

「育児放棄して児童虐待で訴えられても困るからな」

「い、育児放棄って……」

「保護者が被保護者を放り出すのは育児放棄だろ」

「毎日食事作ってくれればそれでいいよ。ね、柊兄」

「そうだな」

 勝手に進んでいく話に小夜は口を挟むことも出来ずにおろおろするだけだった。

「どう? 小夜ちゃん。うちにいるのが嫌じゃなければここに住みなよ」

「嫌ではないですけど……」

「じゃ、決まり」

 楸矢はそう言うと食事を始めた。柊矢も話は決まったという顔で食べ始めた。小夜は戸惑いながらも、ここに住み続けられることに安心もしていた。


 柊矢と話し合い、小夜は食事を作る係になった。掃除は自分の部屋以外は三人で分担する、洗濯は自分のものだけ、その代わり部屋代や食費、光熱費などはただと決まった。

 小夜は少しでも払うと言ったのだが、家事をしてもらうのだし、保護者が被保護者から受け取るわけにはいかないといって聞き入れてもらえなかった。


 小夜の祖父のお骨は初七日に霞乃家の菩提寺ぼだいじに預けることになった。遺体が帰ってくるまでに一ヶ月以上かかったので、初七日しょなのかのときに四十九日しじゅうくにち法要ほうようもすることになった。


 翌日、休み時間に次の授業の用意をしていると、

「さーよ!」

 清美が後ろから抱きついてきた。

「きゃ!」

 後ろにひっくり返りそうになった小夜が悲鳴を上げた。

「あれ? ここになんかある」

 清美は後ろから小夜の胸元を探った。

「ちょ、ちょっと、清美」

「ね、それ、何? ねぇ、何?」

 清美の追求に小夜は柊矢に貰ったことを話した。

「えーっ、そこまでしてくれるなんて、その人、小夜に気があるんじゃない?」

 この手の話は清美の大好物だ。

「そんなわけないでしょ。柊矢さんは大人なんだから」

 小夜は自分に言い聞かせるように否定した。

「あたし達だってもう子供じゃないじゃん」

「でも、柊矢さんは違うの。楸矢さんだって柊矢さんはロリコンじゃないって言ってたし」

「だからあたし達はもう子供じゃないってば!」

 清美は苛立ったように言った。

 そういえば、清美は前に告白した相手に子供扱いされたって言ってすごく怒ってたっけ。

「柊矢さんから見たら子供だよ」

「そんなに年上なの? いくつ?」

「さぁ?」

「ダメじゃん、そう言うところはちゃんとチェックしなきゃ。ところで楸矢さんって誰?」

 清美が訊ねた。

 小夜は清美に柊矢の弟で十八歳だと説明した。

「その人は? 優しい? 身長は? 顔は?」

「楸矢さんは彼女いるよ。大人の付き合いしてるって言ってたもん」

「えーっ! 大人の付き合い!? すごーい!」

 清美は「大人の付き合い」の意味が分かるんだ。

「大人の付き合いって何?」

「やだもう、小夜ってば!」

 清美が思いきり小夜の背中を叩いた。

「痛っ!」

 小夜が顔をしかめる。

 結局、小夜にはまだ早いと言って「大人の付き合い」というのがなんなのか教えてくれなかった。


 学校が早く終わったので小夜は、いつもと違ってバスに乗らず、超高層ビル群に向かった。

 いつものように歌が風に乗ってながれている。しかし、小夜は足を止めず、ビル街を抜けて西新宿の自分の家に向かった。

 家があった場所がどうなっているのか、見てみたかったのだ。

 ビルの間を抜け、西新宿の住宅街へ入っていく。


 小夜の家の跡には何も残っていなかった。瓦礫すらない。ただの空き地になっていた。

 小夜は無意識に柊矢からもらった胸元のペンダントを握っていた。

 大丈夫。

 お祖父ちゃんが見守ってくれてる。

 清美も柊矢さんや楸矢さんもいる。

 きっとこれからも頑張れる。

 泣いてばかりいるのはもうお終い。

 空き地の片隅に花束が置かれていた。近所の人が置いてくれたのだろう。

 小夜は花の前にしゃがんで手を合わせた。


 小夜が帰ると、柊矢はいつも音楽室でキタラを爪弾つまびいていた。学校にいるときはキタラの音は聴こえてないから小夜が帰ってくる時間にあわせて音楽室に来ているのだろう。

 小夜は自分の部屋に鞄を置くと、着替えもしないまま音楽室へ向かった。小夜が入っていくと、柊矢がキタラを弾き始めた。それにあわせて歌い始めると、どこからか重唱や斉唱が聴こえてきた。徐々に歌声や演奏が加わっていく。

 そのうちに楸矢も帰ってきて、笛を吹き始めた。

 そのまま数曲終えると、小夜は夕食の支度を始めるために台所へ向かった。柊矢も部屋に戻り、楸矢は一人残ってフルートの練習を始めた。


 小夜が夕食の支度をしていると、楸矢が入ってきた。

 楸矢が椅子に座ったのを見て、小夜は夕辺の残りのきんぴらごぼうをさっと暖めて出した。いつも夕食の支度をしていると楸矢が台所へやってきてつまみ食いをするので、最近はおやつを用意しておくようになった。大抵は前夜の残り物だ。

「有難う。いただきまーす!」

 楸矢はすぐに食べ始めた。

「柊兄は?」

「部屋だと思いますよ」

「じゃ、仕事だね」

 楸矢は空になった食器を差し出しながら言った。小夜が残っているきんぴらごぼうを全部入れながら、

「柊矢さんって何のお仕事してるんですか?」

 と訊ねた。

 前から気になっていたのだ。出勤する様子はないし、かといって学生にも見えない。そもそも、二人だけの家族で楸矢が高校生なのだから、柊矢が働いていなければ食べていけないはずだ。

 あ、でも、お祖父様が亡くなったって言ってたから遺産があるとか?

「あれ? 言ってなかったっけ? 不動産管理だよ」

「不動産屋さんなんですか?」

「不動産屋じゃなくて、不動産管理。俺の祖父ちゃんがいくつか不動産を残してくれてさ。それの家賃収入で食ってるんだ。柊兄がやってるのはその不動産の管理」

「そうだったんですか」

 小夜は野菜を切りながら言った。

 都内に不動産をいくつも持っているのだとしたらかなりの資産家と言うことになる。

「結構色々仕事あるらしいよ。管理人さんじゃ対応出来ない事務処理とか、保険関係のこととか」

 そんなに忙しいのに、小夜の祖父の保険等の手続きをしてくれたのだ。多分、色々な連絡も、全部柊矢のところに行くようにして対応してくれていたのだろう。小夜は改めて柊矢に感謝した。

「サラダのドレッシングは何がいいですか?」

「中華」

「和風がいい」

 柊矢が台所へ入ってきながら言った。

「じゃあ、サラダは取り分けられるようにしておきますね」


 夕食が出来上がり、三人が食卓に着くと食事が始まった。

「この前、森が出たとき歌った歌、覚えてるか?」

 柊矢が話しかけてきた。

「ああ、あれ。確か……」

「え、森が出たの? いつ?」

「しばらく前だ」

「えっと……メーニナエイデテアーペーレーイーアデオーアキレーオス」

 小夜は旋律を思い出しながら歌った。

「一体何語なんだろね」

 楸矢が小夜の口ずさんだ歌を聴いて言った。

「もしかしたら分かるかもしれない」

「ホント?」

 楸矢が疑わしげに言った。

 二人とも歌が聴こえるのだ。何語なのか何度も話し合ったに違いない。

「今度の土曜、時間あるか?」

「はい」

「じゃあ、付き合ってくれ」

「はい」

「柊兄は小鳥ちゃんとデートか。じゃあ、俺も彼女、うちに呼ぼうかな」

「で、デートじゃありません」

 小夜は赤くなって反論した。

「小鳥ちゃんの奥手は相変わらずだな」

 柊矢がからかうように言った。

「二人してからかわないでください!」


      三


 土曜日、柊矢と共に向かったのは都内の大学だった。

「ここの研究室に俺の知り合いがいるんだ」

「知り合い? とうちゃんは相変わらず冷たいな~。俺達ズッ友だろ」

 二人の後ろから声がして振り返ると、よれよれの白衣を羽織った男性がいた。

 柊矢と同い年くらいだろうか。髪が少し乱れていて無精髭を生やしている。

「お前は小学生か。大体、柊ちゃんなんて呼ぶヤツは知り合いで十分だ」

 柊矢はそう答えると、

「榊良一だ。榊、この子は俺が面倒を見てる霞乃小夜」

 と紹介した。

「柊ちゃん、『さよ』って名前好きだね」

「ただの偶然だ」

「面倒見てるって、その子、高校生くらいでしょ? 柊ちゃん、両手が後ろに回るようなことしてないだろうね」

「するか」

 両手が後ろに回ることってどういう意味だろう?

 聞いたらまたからかわれそうだったので黙っていた。

「ま、座って」

 榊は研究室に二人をしょうれると、椅子に座るように勧めて自分も腰を下ろした。

 研究室の中は本で埋め尽くされていた。いくつもある机の上には専門書と思われる分厚い本や雑誌が積み上げられ、書きかけのノートや、開きっぱなしの本などが置かれていた。本にはアルファベットともアラビア語とも違う見たことのない文字が書かれているものがあった。

「で、彼女紹介しに来たんじゃないでしょ」

「か、彼女じゃ……」

「お前なら分かるんじゃないかと思ってな」

 柊矢はそう言うと小夜の方を振り向いた。

「夕辺の歌の歌詞、言えるか?」

「え、えっと……メーニナエイデテアーペーレーイーアデオーアキレーオス」

「なんかギリシア語っぽいけど……」

 榊が首をかしげた。

「お前、俺の授業中寝てたな」

 年配の男性が入ってくるなり榊の頭を分厚い本で叩いた。

「痛っ!」

「女神よ、ペーレウスの子アキレウスの怒りを歌いたまえ」

 年配の男性が言った。

「え、教授、それって、えーっと……」

 榊が考え込んだ。

「イーリアス!」

 教授が怒鳴りつける。

「ですよね。でも、なんか違うような……」

「その子のは古典ギリシア語だ。現代ギリシア語とは読みが違う音があるんだよ。その例として俺が授業中に読んで聞かせたの聞いてなかったな」

 ギリシア語のアルファベットの形や単語などの綴りは古代からほとんど変わってないものが多いため、現代ギリシア語が読めれば遺跡などに彫ってある言葉の意味も分かるものが多いらしい。

 ただ、発音などは古典ギリシア語と現代ギリシア語では違うものがあるということだった。

「じゃあ、ポダソーキュサキッレウスって言うのは……」

 柊矢が訊ねた。これは何とか聞き取れた歌詞の一節だった。

「足速きアキレウスだな」

 教授が答えた。

「古典ギリシア語って言うのはいつ頃使われてたんですか?」

「大体紀元前二千年前くらいには使われてたようだ」

「紀元前二千年……」

 今から四千年前か。

「ちなみに現代ギリシア語は十一世紀頃の口語が元になってると言われているんだよ」

 榊が得意げに言った。

「お前が偉そうに言うな」

 教授が再度榊の頭を叩いた。

「痛っ!」

 しばらく教授の話を聞いてから柊矢と小夜は研究室を辞した。


「古典ギリシア語? 四千年前ってすごいね」

 柊矢と小夜の話を聞いた楸矢が驚いて言った。

「でも、なんで分かったの? 古典ギリシア語だって」

「この前、たまたまTVをつけたらイーリアスをやってたんだ。それで大学時代の知り合いが現代ギリシア文学の研究してたの思い出してな」

「けど、なんで古典ギリシア語なんだろ」

「そこまでは分からなかった」

 まさか初対面の教授に、友人にさえ言ってなかった歌の話をするわけにもいかず、その点に関しては聞けなかったのだ。

 それに、他に聞き取れた言葉をいくつか訊ねてみたがギリシア語ではない言葉もあった。

「柊矢さん達が使ってる楽器もギリシアのものですよね。関係があるんでしょうか」

「どうかな」

「まぁ、昔のギリシア語って分かっただけでも進歩だよね。何の進歩かよく分かんないけど」

 確かにギリシア語だと分かったからといって、歌が聴こえる理由は不明のままだ。

 ホントに、何でギリシア語なんだろう。

 それも大昔の。


 その日、小夜が学校から帰ろうとすると歌が聴こえてきた。

 主旋律を男性が歌っていた。

 歌うのは圧倒的に女性で、男性の声はものすごく珍しい。女性の重唱が重なり、風に乗ってビルの間を流れていく。

 もしかして……。

 小夜はバス停に向かわず、甲州街道を真っ直ぐに行って、KDDIビルを通り過ぎたところで右折し、超高層ビル群の中に入っていった。

 そこまで行くと歌っているのが中央公園だと分かった。


 中央公園に行くと、ベンチに座っている二十代半ばくらいの若い男性が歌っていた。短く淡い茶色の巻き毛が風に揺れている。中性的な顔立ちをしているが間違いなく男性だ。

 柊矢さんと同い年くらいかな。

 遠くにいたときは男性が弾いてる楽器の音は聴こえなかったが、男性は弦楽器を演奏していた。楽器には詳しくないのでよく分からないが、強いて言うなら琵琶びわに似ていた。涙滴系るいてきけいのボディに弦が張られている。

 周りを数人の聴衆が取り囲んで聴いていた。

 小夜はスマホを取り出すと柊矢にかけた。

「柊矢さん、この歌、中央公園で歌ってます」

 楸矢は学校に行っていたのでメールにした。


 小夜が歌を聴きながら待っていると、柊矢が来た。

 男性の甘いテノールがビルの間を流れていく。もう一つの風のように。

 女性のコーラスがいくつも重なっているが、それはここに集まっている人達には聴こえていないだろう。

 余韻を残して歌が終わった。

 聴いていた人達が散っていった。

 柊矢と小夜は顔を見合わせた。

 どうする?

 この男性は間違いなく歌が聴こえる人だ。と言うか、歌う人だ。

 声をかけるべきか。

 二人が同じ事を考えて迷っていると、男性の方が近付いてきた。誰かの面影があるような気がするのだが小夜には男性の知り合いはほとんどいない。

 芸能人の誰かに似てるのかな。

「歌、聴いて来たの?」

 男性が訊ねた。

「はい」

 小夜は素直に頷いた。

「君達もムーシコスなんだね」

「ムーシコス?」

 小夜が首をかしげた。

 これもギリシア語?

 多分、古典の。

「ムーシコスに聴こえる歌はムーシカ。君は歌う人、ムーソポイオスだよね?」

 男が小夜に向かって言った。

「え? ムーシコスじゃないんですか?」

「ムーソポイオスは歌手って言う意味。君は演奏家、キタリステースだね」

 男性が柊矢に言った。

「なんで演奏だって……」

 男が歌っていたのだ。柊矢が歌っていてもおかしくはないはずだ。

「男性は基本的にキタリステースだからね。僕や僕の弟みたいに男のムーソポイオスは珍しいんだ」

 確かに男性の歌声はほとんど聴いたことがない。

「ムーシコスってのは、ミュージシャンって意味だけど、君達や僕みたいに〝聴こえる〟人種のことを指す言葉でもあるんだ」

「だけど……あんた、楽器も弾いてたろ」

「この程度の演奏なんか簡単だからちょっと練習すれば誰でも出来るよ。でも、演奏は聴こえなかったでしょ。逆に、君が演奏しながら歌っても歌声は聴こえないよ」

 確かに、柊矢が家にいたときには彼の弾いてる楽器の音は聴こえなかった。

「演奏が聴こえるのはキタリステースが特定の楽器を奏でたときだけ。歌声が聴こえるのはムーソポイオスが歌ったときだけなんだ」

「その楽器は何て言うんですか?」

 小夜が訊ねた。

「ブズーキだよ」

「何で、歌が聴こえるヤツと聴こえないヤツがいるんだ?」

 柊矢が素朴な疑問を口にした。

「言ったでしょ。人種だって。血筋だよ」

「血筋? でも、俺の祖父は聴こえなかったぞ」

「本当に? 聴こえないって一度でも言ったことある? まぁ、大分血が薄まってきてるから聴こえないこともあるかもしれないけどね。あるいはお祖母さんの方の血筋なのかもしれないし」

「…………」

 確かに血筋と言われれば、柊矢と楸矢の二人とも聴こえるのは納得がいく。それに、祖父は人に言うなとは言ったが、聴こえないとは言ってなかった。

 柊矢が考え込んでいる間に男性は立ち去ってしまった。

「柊矢さん?」

「あ、ああ。帰るか」


 男性が新宿駅の近くまで来たとき、ビルの陰から女性が出てきた。

椿矢しゅんや、あいつらと何を話したの」

「別に」

「あの子は鍵の守人クレーイス・エコーよ」

 椿矢と呼ばれた男性は肩をすくめた。

「言ったはずだよ。関わる気はないって。巻き込まないでくれないかな」

 そう言うと、女性に背を向けて歩き出した。

 椿矢が雑踏へ消えていくのを女性はじっと見つめていた。


 小夜と柊矢が駐車場に向かって超高層ビル群の間を歩いていると、不意に風が変わった。

 風が硬くなったように感じた。

 見ると森が出現していた。風が吹いてくる方を見ると、森が途切れたところに大きな池があった。強いビル風が吹いているにもかかわらず、水面にはさざ波一つ立っていなかった。

「池も凍り付いてるんだ」

 小夜が呟いた。

「凍り付いている?」

「はい。この森も、あの池も、旋律で凍り付いてるんです」

 二人が森に見惚みとれていると、現れたときと同じように静かに消えていった。


「ムーシコス? それ何語? 何がどうなってんの?」

 楸矢がハンバーグを口に運びながら言った。

「ムーシコスって言うのは自称だと思うがな」

「ふぅん。で、『僕達』って言ったんだ。つまり、ムーシコスは集団ってこと?」

「集団かどうかはともかく、複数なのは確かだろ」

 柊矢、楸矢、小夜、今日の男性。それに男性の弟もムーソポイオスだと言っていた。最低でも五人は実在するということだ。

「もっと詳しく聞けば良かったのに」

「なら今度はお前が聞きにいけ」

「今日の歌の人だね。中央公園か。行ってみようかな」

 楸矢は興味のありそうな顔で言った。


       四


 夕食後、翌日の弁当の仕込みをしていると、楸矢が入ってきた。

「何か残ってるものある?」

「残り物じゃないですけど」

 小夜はエビフライを五個ほど皿に載せて渡した。

「え、お弁当用でしょ。明日のお弁当、おかずなしなんてだよ」

「それは明日の楸矢さんのおやつ用に作っておいたものです」

「じゃあ、明日はおやつなし?」

「何か簡単なものを作ります」

「じゃ、遠慮なく。いただきます」

 楸矢は箸を取ってエビフライを食べ始めた。

「あの、楸矢さん」

「何?」

「柊矢さんの知り合いに『さよ』って人、いたんですか?」

 小夜は榊の言った「『さよ』って名前好きだね」と言う言葉が気になっていた。

「さよ? ああ、霍田つるた沙陽さよね。柊兄の元カノ。何で知ってんの?」

 楸矢が露骨に顔をしかめた。どうやらその人にいい感情は持ってないようだ。

 楸矢さんってお兄さんの彼女に嫉妬するタイプには見えないけど。

「この前、柊矢さんの大学のお友達が……」

沙陽あのひとのことは気にしなくていいよ」

「べ、別に気にしてるわけじゃ……」

 小夜が頬を染めた。

 その様子を窺うように見ていた楸矢が箸を置いた。

「前にさ、祖父ちゃんが死んだときのこと話したでしょ」

「はい」

「俺は十一歳で、柊兄は十九歳。そのとき付き合ってたのが霍田つるた沙陽さよ。同じ大学の声楽科に通ってたの。柊兄は音大行ってて、外国のコンクールで優勝したりして、将来を嘱望しょくぼうされてたんだ」

「そんなにすごいヴァイオリニストだったんですか!?」

 家の中にトロフィーの類が一つも飾られてないから知らなかった。

「そ。で、なんかのコンクールで優勝者を海外留学させてくれることになったの。柊兄が優勝して留学するだろうってみんな言ってたらしい。事故がそのコンクールの一週間前」

「それで、どうなったんですか?」

 小夜は話に引き込まれていた。

「怪我はしてなかったからコンクールに出ようと思えば出られたけど、祖父ちゃんが死んじゃったから、働いて俺の面倒見なきゃならなくなったでしょ。オレ、まだ小学生だったし。だから柊兄はコンクール辞退したんだ。て言うか、音大やめたの。音大に通ってちゃ仕事や俺の面倒見ることは出来ないからね」

「そうだったんですか」

「でも、沙陽も柊兄のライバルだったけいってヤツもそれを知らなかった。ちょっと考えれば分かるのにね」

 そう言ってから、首を傾げて、

「いや、分からなかったかな。俺のことは親戚に預けるとでも思ったのかも。親戚はいないんだけどね」

 と肩をすくめた。

「沙陽は柊兄と桂と二股かけてたんだ。で、桂の方を選んだ。コンクールの当日、沙陽は入院してる祖母ちゃんが危篤だから車で送って欲しいって言ってきたんだ」

「柊矢さんがコンクールに出られないようにするために?」

「そ。で、柊兄は連れてった。そんな嘘、すぐにバレるのにね。て言うか、柊兄は最初から知ってて嘘に付き合ったみたい。どうせコンクールは辞退してたからね。それで帰ってきてお終い」

 恋人にそんな裏切りをされたら、自分だったら立ち直れないくらい傷つくだろう。

 柊矢さんもきっとつらかったんだろうな。

 柊矢さんが自分を名前で呼んでくれないのも同じ『さよ』という名前だからだろうか。柊矢さんが笑ったところも見たことがない。意地悪な笑みでからかうことはあっても、素直に笑うところは見たことがなかった。

 小夜が辛そうな表情を浮かべたのを楸矢は黙って見ていた。

 小夜が柊矢に対して淡い思いを抱いているのは気付いていた。

 もっと煽ったら本気で好きになったりして。

 誰かに恋をしてれば、祖父や家を失った悲しみも忘れられるかもしれない。

 とはいえ、小夜と沙陽ではタイプが違いすぎる。

 柊矢がどういうつもりで小夜を引き取ることにしたのか分からない。

 恋愛対象として見ていなくて、今後もそうなることがないようなら小夜は失恋して更に傷付くことになるだろう。

 楸矢はやめておくことにした。

「柊矢さんがヴァイオリンをやめたのはそのためですか?」

「いや、音大やめたから。まぁ、それもあったかもしれないけど。音大やめた後、普通の大学の夜間部やかんぶに入り直したんだ。最初の頃は、昼間に経理とか不動産関係の事務とか教えてくれるセミナーみたいなのにも通って、祖父ちゃんがやってた不動産管理の仕事の勉強したりして、ヴァイオリンなんて弾いてる暇なかったからね」

「小学生で親代わりだった人を亡くしたなんて、楸矢さんも辛かったですよね」

「俺には柊兄がいたから」

 それで話は終わり、と言うように楸矢はエビフライを食べ始めた。

 小夜も弁当作りに戻ったが、心は今聞いた話に揺れていた。

 でも、楸矢さんが十一歳の時と言うことは七年も前の話だ。

 柊矢さんはとっくに乗り越えただろう。

 そういえば、柊矢さんはそのとき十九歳だったってことは、今は二十六歳くらいなんだ。

 やっぱり柊矢さんは大人だ。

 自分みたいな子供を相手にするわけがない。

「小夜ちゃん、焦げてる焦げてる!」

 楸矢の声に小夜は我に返った。

 野菜炒めから煙が上がっていた。

「きゃ! 大変!」

 小夜は慌てて火を止めた。

 中華鍋の中を覗き込んで被害状況を調べ始めた。


「小夜、ダイエットでもしてんの?」

 清美が小夜の弁当の中身を見て言った。

 今日の小夜の昼飯は、弁当箱一杯の野菜炒めだった。

 夕辺、野菜炒めを焦がしてしまったため、柊矢と楸矢の弁当に入れる分の野菜炒めを急遽自分のエビフライに差し替えて、自分の分は失敗した野菜炒めにしたのだ。

 外では朝から土砂降りの雨が続いていた。強い風も吹いている。

「参るよね~。この時期にこんな嵐なんてさぁ」

「そうだね」

 小夜は雨音にじってムーシカが聴こえて来るのが気になっていた。

 歌っているのは一人だけのようだ。女性の声が雨を煽るように歌っていた。

 柊矢さんや楸矢さんはこのムーシカのこと、なんて言うかな。


 小夜が家に帰ると楸矢が台所のゴミ箱を覗いていた。

「楸矢さん! そんなにお腹が空いてるんですか!?」

「え、ああ、違うよ。いや、お腹は空いてるけど」

 楸矢が慌てて手を振った。

「夕辺の野菜炒め、お弁当に入ってなかったからどうしたのかと思って」

「あれなら私がお昼に食べましたけど」

「小夜ちゃん、少し失敗したくらい、俺達は気にしないよ」

「でも、失敗したのを見られるのは恥ずかしいですから」

 しかも、失敗したとき考えていたことが考えていたことだ。とても恥ずかしくて失敗した理由なんて言えない。

 小夜は思わず赤くなった。

「いいなぁ。なんか初々ういういしくて」

「は?」

 思いもよらない言葉に、どう反応したらいいのか分からなかった。

「いや、俺の彼女にはもうそんな初々しさなんてないからさ。女子高生の彼女って言うのもいいかもなぁ」

 そういえば楸矢さんの彼女って年上なんだっけ。

「彼女に怒られますよ、そう言うこと言うと」

「平気平気。彼女の方も婚活してるし」

 楸矢がどうでも良さそうに手を振った。

「楸矢さんがいるのに?」

「俺じゃ結婚相手にはならないでしょ。俺が大学卒業するまで待ってたら、彼女アラサーになっちゃうし」

 てことは柊矢さんと同い年くらいなんだ。

「それにさぁ、大学卒業したとして、フルートで食っていけると思う?」

「それは……」

 楸矢に限らず、音楽家が食べていくのは大変そうだというのは容易に想像が付いた。

 いくら音楽が好きでも人間である以上かすみを食べて生きていくことは出来ないのだ。

「結婚相手に食べさせてもらうなんてヒモみたいで嫌だしさ。音大への進学はもう決まってるけど、このまま行ってもなぁって思ってるんだよね」

「…………」

「柊兄は確かに才能あったけど、俺は、ね」

「楸矢さん」

「けど、柊兄が諦めた音大を俺が投げ出すのも……」

 確かに、柊矢は楸矢のために音大をやめた。それを思うとやめるわけにはいかない、と思ってしまう気持ちも分かる。

「柊矢さんは楸矢さんが無理に続けても喜ばないんじゃないですか?」

 もし柊矢が楸矢に期待していたとしても、中途半端に続けるのはどちらにとってもいい結果にはならないような気がした。

「そうだね。今スランプでさぁ。だからかな、弱気になってるのかもね。どっちにしろ俺の成績じゃ普通の大学に入れるか分からないし」

「あの、今朝から気になってたんですけど……」

 小夜は話題を変えようと話を逸らした。

「どうかした?」

「ムーシカ、聴こえませんか? 小さい声だから聴き取りづらいですけど……」

 その言葉に、ムーシカに耳を傾けた楸矢の顔がこわばった。


       五


「あのときのムーシカだ」

「え?」

「前に話したよね、俺達の祖父ちゃんが死んだ事故の時のこと。あのときのムーシカだ」

「じゃあ、この嵐はムーシカが?」

「おい、お前ら、のんびり話してる場合じゃないぞ」

 柊矢が台所に入ってきた。

「これだけの豪雨だと水害が起こるかもしれない」

「この辺りが水にかるなんてことあるの? 俺が覚えてる限り浸水したことなんてないけど」

「昔あったらしい。昭和五十年代だかに」

「それ、俺らが生まれる前じゃん」

「避難が必要なんですか?」

 とはいえ、どこへ行けばいいのか分からない。

 災害時の避難場所に指定されている以前小学校だった施設はここと同じ高さだから、ここが浸水すればそこも水に浸かる。

 もっとも、その施設は三階建てだから二階か三階に上がればいいのかもしれないが。それに何故か体育館も二階建てで、講堂こうどうは二階なので、体育館なら大丈夫かもしれない。

 小夜が様子を見ようと窓の外に目を向けると、あの森が見えた。

「森が……。柊矢さん、楸矢さん、私、あの森に行ってみます」

「何言ってんだ! こんな嵐の中を出歩くなんて!」

「そうだよ、小夜ちゃん」

 柊矢と楸矢が反対した。

「でも、気になるんです。何となく、この嵐はあの森に関係あるんじゃないかって」

「まさか……」

「楸矢さん、昔の嵐の時に聴こえていたムーシカだって言ってましたよね」

「言ったけど、森となんの関係があるの?」

「あの森は旋律で凍り付いてるんです。あの森で聴いた旋律、あれはムーシカでした。ムーシカは全部あの森から来たものなんじゃないかって思うんです」

「でもねぇ」

 楸矢が困惑した顔をした。

「ムーシカを止めればきっと雨もやみます。私、行ってきます!」

 小夜はそう言うと家を飛び出した。

 この風では傘はすぐ壊れてしまって役に立ちそうにないので最初から差さないことにした。


「待て」

 家を出たところで柊矢が小夜の手を掴んだ。

「止めないでください!」

「どうしても行くって言うなら送っていく。車に乗れ」

「俺も行く! ちょっと待ってて!」

 楸矢は青いビニールシートにくるまれたものを持って出てきた。

「柊矢さん、楸矢さん」

 楸矢が後部座席のドアを開けて乗り込んだ。

「ほら、早く乗れ」

 柊矢は助手席のドアを開けた。

「はい!」

 小夜は車の助手席に乗り込んだ。

 柊矢が車を出した。

 ワイパーは動いているが、そんなものはなんの役にも立たない、と言いたげに土砂降りの雨がフロントガラスを滝のように伝い落ちる。

「あの森、どうしてここから見えるんでしょう」

 霧生家のある住宅街と超高層ビル群の間には明治通りがある。新宿は丘陵きゅうりょう地帯で霧生家の辺りは低く、明治通りは高くなっていて、西新宿の超高層ビル群の辺りはまた低くなっている。

 しかも、その間にはビルが林立しているから、霧生家の辺りからは西新宿の超高層ビル群は見えないのだ。

「それが不思議なんだよね。何故か森だけは見えるんだよ」

 楸矢が答えた。


 森の中に一歩足を踏み入れると風雨が止まった。森の外では相変わらず嵐が吹き荒れている。まるで違う世界にいるようだ。

 実際、違う世界なのかもしれない。

 森は相変わらず、凍り付いたまま動かなかった。

 空には月より何倍も大きな白い天体が浮かんでいた。その天体に向かって地上から紐のようなものが続いていた。

 西の空には月のようなものもあった。だが、あれは地球の衛星つきではない。

 静かな森に入っていくと、歌声がはっきりと聴こえてきた。

「この歌声……まさか……」

 柊矢が呟いたとき、木陰に女性の姿が見えた。ストレートのセミロングの濃い茶色の髪に赤いスーツの上下とハイヒール。

「沙陽!」

「え?」

 小夜は柊矢を見上げた。

 柊矢の声に歌が止まった。

 女性がゆっくりと振り返った。少しきつめだが、大人の女性らしい落ち着きのある顔立ちをしていた。

「柊矢」

「ホントに沙陽だ。でも、なんで……」

 楸矢が呟いた。

 あの人が沙陽さん。

 きれいな人……。

 あんなにきれいな人が柊矢の昔の恋人だと思うと気分が落ち込んだ。自分にはどうやってもかなわない。

「来たね」

 そう言って、この前中央公園で歌っていた男性が現れた。

「この間の……」

「この嵐を止めに来たんだよね」

「そうです」

 小夜は沙陽のことを頭の隅に追いやって答えた。

 椿矢はブズーキを弾き始めた。

「椿矢! その子に味方する気!」

「言ったはずだよ。君達に関わる気はないって。それに雨が降ると楽器が痛むからやんで欲しいんでね」

 沙陽はしばらく椿矢を睨んでいたが、

「好きにすればいいわ。どっちにしろ今回は失敗したみたいだし」

 そう言うと嵐の中に踏み出そうとして、小夜を見ると顔色が変わった。

 いつの間にかペンダントが服の上に出ていた。

 沙陽が小夜の胸元に手を伸ばした。

 小夜は咄嗟に胸元のペンダントを押さえた。

 沙陽の長い爪が小夜の手の甲をえぐった。

「痛っ!」

「沙陽!」

「小夜ちゃん! 大丈夫?」

 柊矢と楸矢が小夜をかばうように沙陽との間に割り込んだ。

「それを返しなさい!」

 沙陽に怒鳴りつけられた小夜が戸惑ったように柊矢を見上げた。

「これは俺の祖父の遺品で、それをこいつにやったんだ。お前のものだったことなんかない」

「それは私達ムーシコスの財産よ」

「なら、こいつも俺もムーシコスだ。こいつが持っていても問題ないはずだ」

「……本当に、あなたがムーシコスなの?」

 沙陽が柊矢に訊ねた。

 柊矢は眉をひそめた。

 何故、『あなた』に【が】という助詞がつくんだ?

 なんで『あなた』【は】か【も】じゃないんだ?

「それはムーシコスの帰還に必要なものよ」

「きかん?」

 沙陽は地方出身ではないから、イントネーションから言えば「帰還」だろうが、ムーシコスの帰還という意味が分からない。

 ムーシコスの隠れ里でもあるのか?

「私にはくれなかったのに、その子にはあげたのね」

 沙陽はそう言うと嵐の中に消えていった。

「おい、事情を知ってるんだろ。どういうことだ」

「雨がやんだら教えるよ。このムーシカ、歌って」

 椿矢が演奏しながら言った。

「このムーシカ……、火事の夜に雨を降らせたヤツじゃないか。これ以上降らせる気か!」

「これは雨を降らせるムーシカじゃなくて、水を治めるものだよ。雨を降らせることも、やませることも出来る」

 そう言うと、

「さ、歌って」

 楽器を弾きながら小夜を促した。


 ムーシコスはムーシカに関しては知らないから歌えない、演奏できないと言うことがない。

 歌いたい、演奏したいと思うだけで自然に旋律と歌詞が湧き上がってくる。だから、他のムーシコスが奏でているムーシカにすぐに合わせられるし、知らない言語でも歌えるのだ。

 楸矢は青いビニールシートから楽器を取り出すと、キタラを柊矢に渡した。椿矢にあわせて柊矢と楸矢が楽器を弾き始めた。

 小夜は三人が奏でる音に合わせて歌い始めた。椿矢も一緒に歌い出し、重唱や斉唱する声も聴こえてきた。次々に他の楽器も演奏に加わっていく。

 旋律が街に広がっていき、暴力的に降る雨を鎮めるかのように、絡み合いながら天に昇っていく。風が弱くなり、やがてやんだ。雨も徐々に小降りになっていった。

 雨がやみ、雲が切れて空が見えるようになると同時に森は消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る