歌のふる里

月夜野すみれ

第一章 凍れる音楽

      一


 風の中に歌が聴こえる。

 いつも聴こえる美しい旋律の歌。

 どこにいても聴こえるのに、どこを捜しても歌っている人間を見つけることが出来ない。

 誰かが歌い始めると、それに誘われるようにして見えない歌い手達が次々と歌に加わっていく。

 複数の蝶が戯れるように主旋律を歌う者が何度も交代し、それに多重コーラスが重なる。

 古い賛美歌のようでもあり、どこかの国の民族音楽でもあるような独特の旋律の歌だった。

 歌詞も基本的にはどこの国のものか良く分からない不思議な言語だが、稀に英語や日本語など知っている言葉のときもあった。

 どの歌も、何故か懐かしく感じるのは物心ついたときから聴いているからだろうか。


 この歌が聴こえるのは自分と弟の楸矢しゅうやだけだ。

 今まで他に歌が聴こえると言った者はいない。

 歌が聴こえることを信じてくれた人も。

 亡くなった祖父からは人に話してはいけないときつく言われていた。

 だから、この歌のことは楸矢と二人きりの秘密にしていた。

 誰かが歌っているところを見たこともない。

 聴こえてくる方角も分からないから歌っている人や演奏している人を捜すすべもない。

 それでも何度か捜してみたことはあったが、いつも徒労に終わっていた。

 だから、捜すのを辞めて久しい。


 けれど、今日の歌は違っていた。

 いつもと同じように肉声は聞こえないが、それでも聴こえてくる方角が分かる。

 もしかしたら今日こそ見つかるかもしれないと、新宿駅西口から歌声の方に向かって歩き出した。

 あまり期待をしないようにしようと思いながらも、歌に誘われるように歩いているうちに西新宿の超高層ビル群の中にいた。

 この辺は昔の建坪率で建てられているから、ビルとビルの間が大きく開いていて広々としている。欄干の下を自動車が走っていた。

 強いビル風に吹かれながら歩いていると、肉声が聴こえてきた。

 そのまま歩いていくと、紺色のブレザーとスカートの後ろ姿が見えた。肩より少し下の辺りで切りそろえた黒い髪が風になびいている。

 顔は見えないが、その少女が歌っているのは間違いなくいつも聴こえてくる歌だ。

 本当にいた……。

 信じられない思いで立ち止まって見つめていると、不意に少女が振り返った。

 整った顔立ちに大きな眼。美女と言いたいところだが、頬の柔らかな曲線が幼さを残しているから、まだ大人の美人と言える歳ではない。

「すまん。邪魔をする気はなかったんだ」

 柊矢とうやが謝ると、少女は頬を染め、軽く会釈をして走り去った。

 あの制服は確かこの近くの高校のものだったよな。

 また会えるだろうか。

 柊矢は少女が去って行った方を見つめながら立ち尽くしていた。


 翌日、昨日の場所へ行こうと駐車場に車を止めて歩き出すと同時に歌が始まった。

 太陽が天頂からわずかに傾き、斜めに差し込む光の中の無数の塵がきらめいて、まるで街を金色こんじきのベールで覆っているようだった。

 そのベールに包まれるようにして少女が歌っていた。

 柊矢が行くと、少女は恥ずかしそうな表情で小さな声になったが、そのうち慣れたのか普通に歌うようになった。

 声をかけたかったが、歌を聴いてもいたかったし、なんと話しかければいいかも分からず、ただ黙って聴いている事しか出来なかった。


 歌が始まる頃、柊矢がいつもの場所へ行き、先に来ている少女が歌い、終わると二人は互いに言葉を交わすこともなく、それぞれ違う方向へ帰っていく。

 そんな日々が続いた。


 ある日、部屋を出ようとしたとき、何か小さなものを蹴飛ばした。

 見ると、半透明の白い珠がついたネックレスだった。祖父の遺品の中にあったものだ。

 大学のとき、付き合っていた相手に贈ろうと思っていたが、結局その機会がないまま別れてしまった。

 その後はずっと見かけなかったが、机の下にでも落ちていたのだろうか。

 何となくそれをポケットに突っ込むと、すぐにそのことは忘れて家を出た。


 超高層ビル群の間を強いビル風が吹き抜けていく。

 いつものように少女は歌っていた。

 ここにいるのは少女一人だが、斉唱や重唱、副旋律のコーラスなどに、いくつもの楽器の音色が重なっている。

 一曲歌い終わり、二曲目の前奏が聴こえてきたとき、不意に風の感触が変わった。風が硬くなったような気がした。


 少女もそれに気付いたらしく、開きかけた口を閉ざした。

 周りを見ると、超高層ビル群に重なるようにして巨大な樹々がそびえ立っていた。

 地面も樹や草も氷で出来てるかのように白く透き通った色をしていた。

 白く半透明の樹は高さ二百メートル前後の超高層ビルと同じくらいだから相当な巨木だった。

 下から見上げると、巨大な樅の木のようだ。

 蟻が白いクリスマスツリーを見上げるとこんな感じに見えるのかもしれない。

 そんな樹々が森のように何本もそびえ立っていた。

 凍り付いた樹々の天辺の辺りが淡いオレンジ色に光っていた。

 不意に水滴が流れるように光が枝を伝った。

 雫が落ちたように見えたとき、

「メー……エイ……デテア……ペー……」

 少女が独特の旋律を呟きながら森の方へ一歩踏み出した。

 柊矢は咄嗟に少女の腕を掴んだ。

 少女が我に返ったようにはっとして柊矢を見上げた。そして、柊矢に掴まれている腕を見下ろすと真っ赤になった。

「男に腕を掴まれたくらいで赤くなるなんて相当な奥手だな」

 少女が更に赤くなった。

「か、からかうために掴んだんですか! 離して下さい!」

 辺りを見回すと、森は消えていた。

 柊矢は手を離した。

「そうじゃない。あの森に入っていこうとしたから」

 少女が、え? と言うように首を傾げた。

「昔、あの森に入っていった人間が戻ってこなかったんだ。だから君が入っていかないように……」

「前にもあの森を見たことがあるんですか?」

「何度かね」

「素敵なところでしたよね」

 少女が夢見るような表情で言った。

 確かに、見た目だけは水晶の森のようで幻想的だ。だが、二度と帰ってこられないかもしれないのに入っていくのは危険だ。

 柊矢がそう言うと少女は素直に頷いた。

「もう時間だから帰りますね」

 少女はそう言ってお辞儀をすると去って行った。その後ろ姿を見送ると、柊矢も駐車場に足を向けた。


 霞乃かすみの小夜さよは家の近くまで来たところで、すぐそばの超高層ビルを見上げた。

 あの樹々を覆っていたもの、あれは音楽だった。

 正確には旋律が凍り付いたもの。

 だから、溶けた旋律の雫が落ちてきたとき、自分の中に歌が溢れてきたのだ。

 そのこと、言いそびれちゃったな。

 普通の人にそんなことを言ったら正気を疑われるところだが……。

 あの人、多分、〝聴こえる〟人……だよね。

 また機会があったら、と思うが、自分から知らない男性に話しかける勇気はなかった。特に若い男の人には。

 あの人の言うように奥手だからじゃない。

 単に人見知りなだけだ。

 小夜は自分に言い訳するように胸の中で呟いた。どちらにしろ話しかけられないことに変わりはないが。

 あの森はまた現れるだろうか。

 旋律で凍り付いた森。その旋律が溶け出したら、どんな音楽が聴こえてくるのだろう。

 もう一度だけ、ビルを見上げると小夜は家の中に入っていった。


 その晩は強い風が吹いていた。窓がガタガタと音を立てている。

 柊矢は自分の部屋で仕事をしていた。

 また歌が聴こえる。

 なんだか嫌な感じのする歌だ。こういう歌は稀だ。大抵は歌詞が分からなくても聴いていると、意識と旋律が一つになって大気と溶け合ったようになり、曲が終わると清々しい気持ちになるものなのに。

 歌っているのは女性一人だけだ。

 これも珍しい。普通は誰かが歌うか演奏を始めるかすると次々に他の歌い手や演奏が加わっていくものだ。

 まぁ、こんな歌を一緒に奏でたいと思う者がいないのは当然かもしれないが。

 声に聴き覚えがあるような気がするが、あの少女以外の歌い手は知らないのだから思い過ごしだろう。あの少女の歌声ではないことは確かだ。

 歌い手は当然みな違う声をしているのだが、一人が歌い始めると次々に重唱や斉唱、副旋律のコーラスが加わるので独唱はまずない。

 同じ歌でも主旋律を担当するのがいつも同じ歌い手というわけではない上に、何人もいるため、声を個別に聞き分けて覚えるのは知り合いでもない限り不可能なのだ。

 基本的に声質や音域が違うだけで、きれいな声で歌が上手いというのは共通しているので、声が特徴的だから覚えてしまうとか、下手すぎて覚えてしまうと言うこともない。


柊兄とうにい、坂本さんから電話」

 楸矢が一階の電話口から怒鳴った。

 柊矢は机の上の子機を取った。電話は西新宿にあるアパートの管理人からだった。

「楸矢、西新宿のアパートの近くで火事が起きてるらしい。ちょっと行ってくる」

 ジャケットを羽織りながら、台所でコーヒーを飲んでいる楸矢にそう言うと、車の鍵を取って家を出た。


「坂本さん」

 柊矢が管理人に声をかけると、

「霧生さん、すみません、夜遅く」

 頭がはげ上がった初老の管理人が謝った。

「構いませんよ。火が強いですね」

 燃えているのは柊矢が所有しているアパートから二軒ほどしか離れていない、一戸建ての家だった。

 柊矢が野次馬を掻き分けて火元の家の前に出ると、あの少女が立っていた。炎に照らされながら、呆然と燃えている家を見つめていた。手にエコバッグを持っている。

 少女に話しかけようとしたとき、

「誰か中に残ってるか!」

 消防士の声に、少女がはっとすると、袋から手を離し、家に向かって駆け出そうとした。

「おい、待て!」

 咄嗟に柊矢は少女の腕を掴んだ。

「離して! お祖父ちゃんが中にいるの! お祖父ちゃん!」

 少女が燃えている家に向かって手を伸ばしながら叫んだ。

「お祖父ちゃん! お祖父ちゃん!」

 引き留めている柊矢の腕の中で、少女がもがきながら必死で祖父を呼んでいた。

 炎は風にあおられ、ものすごい勢いで燃え上がっている。

 消防士も手の施しようがないようだった。

 そのとき、楽器の前奏が聴こえてきた。それに合わせて歌が始まった。次々にコーラスと演奏が加わっていく。

 今までの歌声がかき消され、優しい旋律と共に強い風がやんだ。

 一陣の冷たい風が吹き抜けかと思うと雨が降り出した。

 雨は瞬く間に土砂降りになり、燃えさかっている炎を鎮めた。

 野次馬が散っていく。

 突然の大雨と、消防士達の消火活動のお陰で周囲の家が延焼することもなく火事は収まった。

 しかし、少女の家は完全に燃え尽きていた。黒焦げの瓦礫がわずかに残っているだけだった。

「お祖父ちゃん……」

 腕の中で少女が震えていた。


 消防士達は炎が収まった瓦礫の中に入っていくと、しばらくして黒い遺体収容袋を担架に乗せて出てきた。

「お祖父ちゃん!」

 少女が悲鳴を上げた。

「おい、大丈夫か……」

 柊矢が声をかけるのと、少女が気を失うのは同時だった。

「おい!」

 柊矢は慌てて少女を抱き留めた。

 周囲を見回すと、わずかに残っていた野次馬達が覗き込んでいた。

「誰か、この子のこと知ってますか?」

「ここのうちの子だけど……」

 近所の人らしい、中年の女性が焼け落ちた家に視線を向けて答えた。

「家族は?」

「お祖父さんだけよ」

 それは多分、今運び出された人だろう。

 そのとき、人混みを掻き分けて警官がやってきた。

 警官は周囲の人達に話を聞くと、柊矢の元へやってきた。

 気を失っている少女を見ると、警官は救急車を呼んだ。


 すぐにやってきた救急車に、担架に乗せられた少女が運び込まれる。

 一緒に乗ろうとする人がいないのを見て取った柊矢は咄嗟に、

「一緒に行きます」

 と言っていた。

「坂本さん、すみません、車をお願いします」

 柊矢は坂本に車の鍵を渡すと救急車に同乗した。


       二


 少女はすぐに意識を取り戻した。

 病院で雨に濡れた服を乾かしてもらう間、患者用のガウンを着ていたのだが、その状態で少女は二人組の警官に事情聴取を受けた。

 薄いガウン一枚で男性警官と話をするのは気になるらしく、右手で首元辺りを盛んにいじっていた。

 その事情聴取で少女が、霞乃小夜、新宿御苑の近くにある高校の一年生と分かった。

「君はどうして家にいなかったのかね」

「祖父に頼まれてお酒を買いに……」

 小夜は涙を堪えるように瞬きをしながら答えた。

 いつもの酒屋に行くと臨時休業だった。

 仕方なく少し離れたコンビニに行くと、身分証の提示を求められた。

 祖父に頼まれて買いに来たと言っても、未成年には売れないと言われ、押し問答をした末、結局買えなかった。

 他のコンビニや酒屋も回ってみたが、どこも同じだった。

 家からかなり離れたところまで行ったが、どの店も売ってくれなかった。

 諦めて家に帰ると火事になっていた。

 もし、行きつけの酒屋が休みでなければ小夜も火事に巻き込まれていただろう。

「焼け跡から見つかった遺体が君のお祖父さんなのか確認してもらえるかい?」

 警官の言葉に小夜は青くなった。

「DNA鑑定じゃダメなんですか?」

 柊矢が警官に訊ねた。

「DNAが付着してそうなものが残ってるかどうか……。お孫さんでは親子鑑定も……」

「遺体の状態は?」

「煙を吸い込んだだけなので、火傷などはありません」

「私、お祖父ちゃん――祖父なのか確かめたいです」

「じゃあ、服を着替えてきてくれるかい」


 小夜は遺体の安置されている部屋へ連れていかれた。

 霊安室で遺体と対面した小夜は、警官の、祖父かと確認する問いに頷いた後、泣き崩れた。

 柊矢をはじめとした、その場にいた者達は居たたまれない思いで、小夜から目を逸らし、ただ泣き声を聞いていた。


 小夜が落ち着いてきたところで、

「誰か頼れる人はいるかね?」

 警官が訊ねた。

「え?」

「家族や親戚は?」

「いません」

 小夜は首を振った。

「他に誰かいるかね?」

 小夜が黙り込んだ。

「俺が」

 柊矢は思わず言っていた。

「俺は霧生きりゅう柊矢とうやと言います」

 救急車に同乗してきて、ずっと側に付いていたから身内だと思っていたのか、柊矢が引き取ると申し出ると、警官はあっさり了承してくれた。

 警官に自分の身分証を見せ、名刺を渡すと小夜を連れて病院を出た。


「ここが俺のうちだ」

 タクシーから降りて少し歩いたところの家の前で柊矢はポケットから鍵を出しながら言った。

 タクシーを家の前に着けても良かったのだが、そうすると車を通りに戻すのに細い道路を何十メートルもバックして戻らなければならないので、少し手前で下りて歩いてきた。

 都内の古い住宅地は大体どこも道が狭いがここは特に細いのだ。

「あの……霧生……さん?」

「柊矢でいい。弟と紛らわしいからな」

「柊矢さん……、その、どうして……」

「さぁ? 何となく、かな」

 柊矢自身も何故だか分からなかった。

 ただ、どうしても放っておけなかったのだ。


 家の鍵を開けると小夜を先に通してから自分も中に入った。

 小夜を真っ直ぐ客間に案内した。

「夕辺は徹夜だったからな。眠いだろ。一眠りするといい」

 眠そうな小夜を残して柊矢は自分の部屋に戻った。


「ここがリビングで洗面所がそこ。で、この部屋が音楽室」

 小夜が起きてくると、柊矢は家の中を案内して回った。

「音楽室?」

 一般家庭に似つかわしくない部屋の名前に柊矢を見上げた。

 小夜は柊矢にうながされるままに中に入った。

「すごい! グランドピアノがある!」

 音楽室はこの家の他のどの部屋よりも広かった。

 黒いグランドピアノは部屋の中央に置かれていた。

 蓋は閉まっているがきれいに磨かれていた。

「柊矢さんは音楽家なんですか?」

「いや。まぁ、目指したことはあるが……」

 壁際にはガラス戸の付いた棚があり、そこにいくつかの楽器が並んでいた。

 見慣れぬ楽器の間に中にヴァイオリンケースがあった。

 ピアノを挟んで棚とは反対側に譜面台が置かれていた。楽譜も載っている。

「柊矢さんがピアノを弾かれるんですか?」

「一応弾けるが、俺がやってたのはヴァイオリンだ」

 じゃあ、ヴァイオリニストを目指してたのかな。

「なら、弟さんが?」

「楸矢も弾けるが、ピアノはうちの両親か祖父母の誰かだろ。誰のかは知らないんだ」


 この住宅街は戦後の復興期に建てられた。だから「復興住宅」と呼ばれている。当初、東京都はこの辺り一帯を動物園にする予定だったらしい。

 あちこちに湧き水の池があるから自然動物園を作る計画だったとか。

 しかしGHQに、この住宅難の折に動物園を作る余裕があるのか、と叱り飛ばされ住宅街になったらしい。

 しかし、いくら家を作れと言われたからと言って、ここまで道路を狭くしてギチギチに家を詰め込まなくても良かったのではないかとは思う。

 戦地から引き揚げてきた曾祖父は何とか金を掻き集めてこの家を買った。だから、柊矢も弟の楸矢もこの家で生まれ育った。


 柊矢が物心ついたときには既にこの部屋はあり、ピアノは部屋の真ん中に置かれていたが、自分と弟以外に弾いた者はいなかった。

 といっても、祖母は柊矢が生まれる前に亡くなっており、両親も楸矢が生まれた直後に事故で亡くなった。

 柊矢は当時まだ八歳だったから家族の誰かが弾いていたのを覚えてないだけかもしれない。

 柊矢が自発的に言い出したわけでもないのに、幼いときからヴァイオリンを習わされていたから、両親か祖父母の誰かに音楽の素養があったのだろう。

 それは家の中で一番大きな部屋が音楽室にてられていることからも明らかだ。


「ちなみに弟はフルートだ。そこに譜面台があるだろ」

 今はヴァイオリンを弾いてないんですか?

 そう訊いてみたかったが、やめておいた。何となく訊きづらい雰囲気がしたから。

「この部屋に来たのはこれを見せたかったからなんだ」

 柊矢はガラス戸を開いて棚に置かれていた弦楽器を取り出した。

 見たことのない楽器だった。強いて言うなら一番似ているのは、ギリシア神話に出てくる竪琴だろうか。

 しかし、それもかなり無理に解釈して、だ。

 凹の字の形をした無骨な太い木材で出来ている。

 凹の字の上の何もないところに横に弦が一本張られ、その弦と凹の字の底の部分の間に何本もの弦が張られていた。

「それは何て言う楽器なんですか?」

「キタラ。ギリシアの竪琴だ」

「え! これが竪琴なんですか! それもギリシアの!?」

 自分の想像が当たったのにも驚いた。

「ギリシアの竪琴といえばギリシア神話の挿絵で見るような曲線の楽器を想像してたか?」

 予想通りの反応に思わず笑みがこぼれた。

「はい」

「リラの方がそのイメージに近いな」

「リラって言うのもギリシアの竪琴なんですか?」

「ああ」

 柊矢がキタラを構えて指で弦をはじくと、聴き慣れた、懐かしい音がした。

 指慣らしをした後、柊矢が弾き始めたのはいつもどこかから聴こえてくる歌の前奏だった。

 柊矢の鳴らす音に呼応するかのように、他の楽器の音が聴こえてきた。この家の中ではない。

 小夜の歌同様、どこか他の場所にいる者の演奏も聴こえるのだ。


 小夜が演奏に合わせて歌い始めると、他の歌い手達も歌い出した。

 小夜と姿の見えない歌い手達は、主旋律を歌ったかと思うと重唱したり斉唱したり副旋律に回ったりしながら歌を紡いでいく。

 旋律が風になったようにどこまでも流れていくようだった。


 一曲終えると、柊矢はキタラを置いた。

「どう思った?」

 柊矢が小夜に訊ねた。

「柊矢さんが演奏していた人の一人だったんですか?」

「そうだが……。そうじゃなくて、この部屋は防音だ。ドアも閉めてある」

 柊矢は扉を指した。確かに閉まっている。

 二人とも黙ってしまうと、部屋は静まりかえった。外からの音は何も聞こえてこない。と言うことはこの中の音も外に聞こえないはずだ。

「どうして他の演奏者や歌い手の声が聴こえたんだ?」

 それに何故、他の歌い手や演奏者に自分達の歌や演奏が聴こえたのか。

「不思議ですよね」

 小夜も疑問に思っていたらしい。だが、理由は彼女も知らないようだった。

 そのとき、小夜の腹が鳴った。小夜が真っ赤になる。

「もう昼だな。飯でも食いに行こう」

 柊矢はそう言うと戸口に向かった。

「あ、あの、材料があれば私が何か作ります」

「材料がないんだ」

 柊矢は冷蔵庫の中を思い浮かべながら言った。

 空ではなかったような気はするが賞味期限が切れてないものがあるかどうか……。

「作ってくれるなら材料を買いに行こう」

「はい」

 小夜は柊矢について音楽室を出た。


 柊矢はポケットをさぐって車の鍵を探し、夕辺西新宿のアパートのそばに車を置いてきたことを思い出した。

 坂本が近くの駐車場に置いといてくれてるはずだ。

 車を取りに行きたいが、小夜を連れて行くのは躊躇われる。

 小夜の家の近所なのだ。小夜の家があったところにはまだ瓦礫が残ってるはずだ。

「食事を作ってもらうのは夕食でいいか? 昼は近所のファミレスにしよう」

 柊矢は歩き出しながら言った。

「夕食でもいいですけど、でも、どうしてですか?」

 小夜は柊矢について歩きながら訊ねた。

 柊矢は車を取りに行かなければならないと説明した。

「私も一緒に行きましょうか?」

「わざわざ二人で行くほどのことじゃないだろ」

 柊矢はそう言うと、小夜が注文するのを見届けてからファミレスを出て、近くのバス停から新宿駅へ向かった。


「なんか、一杯買っちゃいましたね」

 小夜は大きめのエコバッグ二つ分の荷物を見て言った。

「そのために車で来たんだ。それに、この程度じゃ二日分だ」

 柊矢はその二つを手に持つと出口に向かった。

「あ、荷物……」

 片方持つ、と言おうとしたのだが、柊矢は構わずにスーパーのドアを開けて小夜を通し、自分も出ると歩き出した。スーパーの近くにある駐車場に向かう。

 新宿は大通りのそばの住宅街なら駐車場にはあまり困らない。

 バブル全盛期の頃、地上げで奪われた土地がバブル崩壊後に不良債権と化して今は駐車場になっているからだ。

 大久保通り沿いのあちこちに小さな駐車場がある。もっとも、大久保通りの北側は、通りに面しているところを除けば地上げに遭った場所はこの近所では知る限りなかった。

 明治通りの西側は戦前からある古い住宅地だから何故地上げに遭わなかったのかは分からないが、東側はほとんどが都営住宅だからだろう。

 柊矢の家のある住宅街は都営住宅ではないのだが、被害に遭ったという話は聞いてない。

 狭い道を入った奥の不便な場所だから地上げしてまで奪う価値なしと判断されたか、都の住宅供給公社が作った住宅街だから手が出せなかったかのどちらかだろう。

 柊矢は自宅の車庫に車を入れると荷物を持って家に入った。


 柊矢が台所の食卓の上に荷物を置くと、

「じゃあ、早速夕食作りますね」

 小夜はそう言って腕まくりをした。

「頼む。俺は二階の部屋にいるから。それと、もうそろそろ楸矢が帰ってくるが、メールで事情は伝えてある」


       三


「ただいま」

 玄関から声が聞こえてきた。

 廊下を歩く足音がしたので振り返るのと、足音の主が台所を覗くのは同時だった。

 入ってきたのは小夜と同い年くらいの男子だった。

 背は柊矢と同じくらい高い――百七十センチ前後だ――が、顔は幼い感じがした。眼が大きいせいかもしれない。短い茶色の髪は緩い巻き毛だった。

 柊矢は黒髪だから脱色しているのだろうか。耳にはきれいな緑色の石の小さなピアスをしていた。高校からの帰宅だから制服を着ていた。ブレザーの色は小夜の高校のものと似ていたがネクタイの色は違う。カバンの他に細長い楽器のケースを持っていた。フルートのケースだろう。

「あ」

 二人は同時に声を出した。

「君が……鳥さん?」

「は?」

 小夜は面食らって瞬きしたとき、鍋が噴きこぼれる音がした。慌ててガス台の方を向くと、火を弱くした。

「君、歌ってる人だって柊兄から聞いたけど」

「はい、そうです」

 小夜は鍋の中を覗き込みながら返事をした。

 焦げ付いてはいないみたい。

 自分から作るなんて言いだしておいて失敗したら恥ずかしい。

 そういえば、さっき話の流れで楸矢も歌が聴こえると言っていた。

「霞乃……さやちゃん? さよちゃん?」

 楸矢はスマホの画面に目を落としながら訊ねた。

 柊矢の送ったメールを見ているのだろう。

「さよです」

小夜曲さよきょくの小夜か」

「小夜曲?」

「セレナーデのこと。君が歌う人だからその名前にしたのかな」

「さぁ? 名前の由来については聞いてなかったので……」

 まだ聞いてないことが一杯あった。名前の由来も、誰が付けたのかも、両親はどんな人だったのかも。聞きたかったけれど聞けなかった。だから、いつか話してくれるのを待とうと思っていた。でも、もう「いつか」は来ない。

 こんなことなら無理にでも聞いておけば良かった。

 小夜は浮かんできた涙を見られないようにと、鍋の方を向いた。

 楸矢もしまった、と言う表情で再びスマホに目を落とした。

「そ、そうそう、歌う人なんだよね。俺達は鳥って呼んでたんだ」

 だから鳥さん?

「元はバードなんだけどね」

「バード?」

 小夜は振り返って小首を傾げた。

「バードは鳥って意味もあるけど、吟遊詩人って意味もあるんだ。人前で話をするとき、バードより鳥の方が人の注意を引かないでしょ」

 どうやら普通の人には聴こえない歌の話をするときの隠語いんごとして使っていたらしい。

「でも、君は吟遊詩人って言うより小鳥ちゃんだね」

「小鳥ちゃんって……同い年ぐらいじゃないですか」

「小夜ちゃん、俺のこといくつだと思ってる?」

「十六、七歳くらいですか?」

「俺、十八。もう彼女とは大人の付き合いしてるんだよ」

 大人の付き合いがどういう意味なのかは分からなかったが、とりあえず自分より年上と言うことは理解できた。

「部屋のドアにかかってるネームプレートが裏返ってるときは彼女が来てるって意味だから声かけないでね」

「はい」

 小夜は返事をすると、煮物の味見をした。

「ね、俺もそれ味見していい?」

「いいですよ」

 小夜が小皿を取ろうとすると、楸矢は中鉢を取り出して差し出してきた。

 少しだけ入れると、

「もっとどーんと入れてよ」

 と言われて多めに入れた。

「夕食、食べられなくなりますよ」

「この程度で腹いっぱいになんかならないよ。おかわり」

 小夜が溜息をついて再度入れていると柊矢が入ってきた。

「いい匂いだな」

「美味いよ」

「俺にもくれ」

 柊矢はそう言うと大皿を出した。

 今日は煮物、諦めよう。

 さっき柊矢が二日分といった意味がよく分かった。

 柊矢のお椀に煮物を目一杯入れた。

 小夜は男二人の食欲を甘く見ていた。

 確か肉を買ってあったし、白滝はないけどジャガイモもあるし、新しく肉じゃがを作ろう。

 肉は牛肉だけど、関西は牛肉で肉じゃがを作るらしいし、味付けが関東風なら牛肉でも多分この二人は気にしないだろう。

 味を濃いめにすれば量が少なくてもご飯が沢山食べられるはずだから多めに炊こう。

 楸矢の皿に煮物の残りを全部入れると、ジャガイモを洗い始めた。


「小夜ちゃん、行くところがないならずっとうちにいれば?」

 夕食を食べ終えた後、そのまま台所でコーヒーを飲みながら楸矢が言った。

 柊矢は先に部屋に引き上げていて、小夜と楸矢だけが残っていた。

「そこまでご迷惑をかけるわけには……」

「料理毎日作ってくれるならそれだけでいいよ。俺、家庭料理に飢えてたんだよね」

「でも……」

「あ、もしかして、男所帯だから警戒してる? それなら大丈夫だよ。俺、大人の彼女いるし、柊兄もロリコンじゃないから、襲ったりしないよ」

「そ、そう言うことを心配してるわけじゃ……」

 小夜は赤くなって俯いた。

「ま、冗談は置いといて」

 楸矢が真顔になった。

「うち、下宿やってるんだ。今は下宿人いないけど。料理作ってくれるんなら安くしてくれるよ」

「でも、お祖父ちゃんのお葬式もまだですし、お家賃も……」

 小夜はバイトをしたことがない。

 自分にどんな仕事が出来るのかすらよく分からない。

「その辺の手配は柊兄が何とかするよ。そういうの詳しいし。それにお金のことも大丈夫だと思うよ」

「え……」

「まぁ、そう言うことはまた改めて。片付けは俺がするから小夜ちゃんはもう休むといいよ」

 楸矢はそう言って小夜を台所から送り出した。


 台所を出た小夜は客間に行こうとして、二階から下りてきた柊矢に会った。

「丁度良かった。着替えが必要だろ」

「はい」

 小夜は着の身着のままで、エコバッグに入れていた殆ど金の入ってない財布とスマホ以外は何も持っていない。


 柊矢は小夜を連れて空き部屋に入ると、部屋に置かれている箪笥たんすの引き出しを開けた。中に入っていたのは女物の服だった。ぎっしりと詰まっている。

「この箪笥の中は全部女物だ。とりあえずこの中のものを使ってくれ。明日、必要なものを買いに行こう」

「これ、どなたのなんですか?」

「俺や楸矢が昔付き合ってた相手が置いてったものだ。誰の物でもないから遠慮なく使ってくれ。風呂は沸いてる。中から鍵をかけられるから」

「有難うございます」

 小夜が頭を下げると柊矢は出ていった。

 中を見てみると、大人物おとなものばかりだった。服やパンティのサイズはS、M、Lくらいだからいいとして、ブラジャーだけはそうはいかない。自分に合うサイズのものを捜して箪笥の中の物を全部出し、ようやく一つだけ見つけた。

 柊矢はともかく、楸矢の元カノの物もあるならもっと高校生らしいのもあって良さそうなのに、と考えてから彼氏の家に泊まり込む女子高生が子供っぽいものを着てるわけがないと思い至った。

 小夜のクラスメイトでも、彼氏のところに泊まってるような子は大抵大人びていた。もし自分だったとしても、恋人の家に泊まることになったら思い切り大人びたものを着ていくだろう。

 そのとき、不意に柊矢の顔が浮かんだ。整った顔立ち、切れ長の目、額にかかって揺れる前髪。

 小夜は慌ててその顔を振り払った。

 別に自分は柊矢のことなんて何とも思ってない。柊矢の方だってそうだ。楸矢も、柊矢はロリコンじゃないといっていたし。優しくしてくれたから、それで気になっただけだ。

 でも、なんで優しくしてくれるんだろう。

 私が歌う人間だからだろうか。

 色々な考えが頭の中をぐるぐる回りだした。小夜はそれを払いのけるようにして下着と寝間着に出来そうな服を持つと、風呂場に向かった。


 翌朝。窓からレースのカーテン越しに朝日が差し込んでいた。見慣れぬ部屋に、なんで自分はこんなところにいるんだろう、と一瞬パニクりそうになって、火事のことを思い出した。

 やっぱり夢じゃないんだ。

 お祖父ちゃんはもういない。

 口数は少なかったけど、優しいお祖父ちゃんだった。

 その優しさにいつも感謝していたけど、それを口にしたことはなかった。

 言えば良かった。

 一言「有難う」って言いたかった。

 でも、もう二度と言えない。

 西新宿の家ももう無い。

 写真一枚残ってない。全部焼けてしまった。

 泣きそうになったが、そのとき、ここは柊矢の家だと言うことを思い出した。

 お世話になってるんだからご飯くらい作らなきゃ。


 小夜は慌てて服を着替えると、台所へ向かった。

 幸い、まだ二人は起きてないようだった。

 和食なのか洋食なのか聞いてなかったことに気付いて、どうするか迷ったが、トーストならすぐに作れると考えて、ご飯を炊いて味噌汁を作り始めた。

 丁度味噌汁が出来たとき、楸矢が入ってきた。

「おはようございます」

「おはよう。わぁ、お味噌汁かぁ」

 楸矢が目を輝かせた。

「パンの方が良ければ、すぐにトーストを……」

「折角ご飯とお味噌汁があるのに? ご飯の方がずっといいよ」

 それを聞いてご飯と味噌汁をよそうと楸矢の前に出した。

「コーヒーはないの?」

「あ、気付かなくてすみません」

 小夜は慌ててマグカップを取り出すと、インスタントコーヒーの瓶を探した。

「いいよ。コーヒーは俺が入れるから」

 楸矢はそう言うと、コーヒー豆とコーヒーメーカーを取り出した。

 わ、本格的。

 小夜はコーヒーの入れ方を覚えるために楸矢の手元を見ていた。

「小夜ちゃん、コーヒーくらい、自分で入れるよ」

 楸矢が苦笑して言った。

「でも、私も入れられるようになりたいですから」

「そう」

 楸矢はコーヒーメーカーをセットすると、食卓に着いて、

「いただきます」

 と言ってすぐに食べ始めた。

「俺の彼女って料理はダメなんだよね。前は柊兄が作っくれてたんだけど、今はめんどくさがって作ってくれないんだ」

「もう子供じゃないんだから自分で作れ」

 そう言いながら柊矢が入ってきた。

「あ、おはようございます。柊矢さんもご飯とお味噌汁でいいですか?」

 柊矢が首肯しゅこうすると、小夜はすぐにご飯と味噌汁をよそって差し出した。楸矢は立ち上がると、マグカップにコーヒーを注いだ。

「小夜ちゃんも飲む?」

「あ、じゃ、少しだけ」

 楸矢が自分と柊矢と小夜の分をマグカップに注ぐと、小夜は柊矢にマグカップを渡した。

 小夜は恐る恐るコーヒーに口を付けた。

 にがっ!

 思わず顔をしかめると、楸矢が微笑わらった。

「小鳥ちゃんにコーヒーは似合わないね」

「小鳥ちゃんって言うのやめてください」

 楸矢に抗議しながらマグカップを置いた。

 小夜は祖父と二人暮らしだったこともあってコーヒーを飲んだことがなかった。

「まぁ、小夜ちゃんはお茶にしておいたら?」

「そうします」


       四


 朝食の片付けを済ませ、小夜が冷蔵庫を覗いて昼食の献立を考えているとき、楸矢が台所に入ってきた。

「何してるの? 何か食べられるものある?」

「今、朝ご飯食べたばかりじゃないですか」

「そうだけど、食べようと思えばまだ食べられるよ」

 楸矢の食欲は底なしのようだ。

「で、何してるの?」

「お昼ご飯、何がいいかと」

「何が作れそう?」

「えっと……」

 小夜が考え込んでいると、柊矢が入ってきた。

「買い物に行くぞ。支度してきてくれ」

「夕食の買い出しですか?」

 昨日、あれだけ大量の食材を買ったのに冷蔵庫はほとんど空になっていた。

「夕辺、必要なものを買い揃えに行くって言っておいただろ」

「でも、私、お金持ってな……」

「気にするな」

 柊矢がどうでも良さそうな口調で言った。

 霧生家ってそんなにお金持ちなの?

「小夜ちゃんさ、今くらい、そんなこと考えないでいたら?」

 楸矢が言った。

「でも、お世話になりっぱなしで……」

「困ったときはお互い様でしょ」

「ほら、行くぞ。どうしても気になるなら金が出来たら返してくれ」

「俺も行く」

 楸矢はそう言ってから、

「今日はテスト休みなんだ」

 と、柊矢に言い訳するように付け加えた。


 服はユニクロで揃えた。

「小夜ちゃん、カジュアルブランドとか着ないの? 可愛い服、似合いそうなのに」

 楸矢はそう言ったが、そういう店で服を買うとなると、どうしてもあれこれ迷ってしまって選ぶのに時間がかかる。

 それに、柊矢は気にするなといったがやはりお金のことが気になったのでユニクロにしておいた。


「次はどこだ?」

 柊矢が車を出しながら訊ねた。

 下着もユニクロで間に合ったし、あと当面必要なものは……。

 小夜が黙り込んでいると、柊矢は車をドラッグストアの隣に止めた。

「ここで待ってるから必要なものを買ってこい」

 そう言って一万円札を小夜に渡した。

 分かってくれて良かった。

 小夜は必要なものを買うと、厳重に包んでもらった袋を抱えて車に戻った。

 柊矢にお釣りを返すと、

「次は制服と教科書と文房具か」

 と言って車を出した。

「制服と教科書は……」

 小夜は俯いた。

 お金を稼ぐ方法がなければこのまま高校へ行くことは出来ない。

 奨学金も考えないではなかったが、申込方法も申込先も分からない。

「都立高校の学費なんて大したことないだろ」

 小夜の考えを察した柊矢が言った。

「でも、生活費とかも必要ですし、そう言うお金のことを考えたら、高校を辞めて働いた方がいいのかなって……」

「金の方は大丈夫だろ」

「え?」

 柊矢は車を駐車場に入れながら言った。

「とにかく、制服を買いに行くぞ」

 そう言うと小夜の腕を掴んで強引に店に入った。


 制服を買った後、昼食をファミレスでとってから教科書と文房具を買い、最後に夕食の買い出しをして家に戻った。


 小夜が買ってきたものを冷蔵庫に入れ、夕食の支度をしようとしたとき、

「今日はまだ一回も歌ってないでしょ。俺、歌うとこ見たいから歌ってよ」

 楸矢はそう言って小夜を音楽室へ連れて行った。


 棚から木製の横笛を取り出すと、吹き始めた。

 小夜が歌い始めると、柊矢も入ってきてキタラを弾き始めた。すぐに小夜の声にあわせて他の歌い手達が歌い始めた。

 歌と演奏のハーモニーが東京の街に広がる。街を覆うように旋律が流れていく。


 これ以上悲しいことが起こりませんように。

 明日がみんなにとって良い日でありますように。


 小夜が祈るように歌う。

 それに答えるように斉唱が、重唱が、副旋律を歌うコーラスが、演奏と重なり天に昇っていく。


 この祈りがどうか天に届きますように。


 最後の歌が終わり、演奏がやむと、小夜は息をついた。

 なんだか気持ちが楽になったような気がした。

「有難うございました」

 小夜は二人に頭を下げると台所へ向かった。


 昨日の反省をいかして、今日は柊矢達がこんなに沢山食べられるのかと不安になるほど作った。しかし、そんな心配は無用だった。柊矢も楸矢もぺろりと平らげてしまった。

 ここんち、エンゲル係数高そう。

 食後のお茶――柊矢と楸矢はコーヒーだが――になったとき、小夜は思いきって気になっていたことを訊ねた。

「あの、お金の心配が無いってどういうことですか?」

「普通は生命保険や火災保険なんかに入ってるものだからな。君のお祖父さんも入ってたと思う。それに身内がお祖父さん一人しかいなかったなら、自分に何かあったときのために信託財産を積み立ててた可能性もある」

 柊矢はそう言ってから、

「焼け跡から耐火金庫が見つかった。多分、その中に書類が入ってるはずだ。開け方、分かるか?」

 小夜は首を振った。

「なら錠前屋を呼んで壊してもらっていいか?」

「はい」

「君が良ければ中身を調べて、保険の請求なんかをやっておくが」

「有難うございます。でも、どうしてそこまでしてくれるんですか?」

 小夜の問いに、

「祖父から一度拾った生き物は最後まで責任を持って面倒を見るように言われてる」

「女子高生拾ったのは初めてだけどね」

 楸矢が冗談っぽく言った。

 柊矢はコーヒーのマグカップを持つと自分の部屋へ戻っていった。

 生き物……。

 柊矢さん達にとってはそのレベルなんだ……。

 その方が気は楽だけど。

「まぁ、冗談は置いといて、似てるから、かな」

「え?」

「俺達も祖父じいちゃんに育てられたんだ。祖母ばあちゃんと両親は早くに死んで、顔も写真を見たことがあるだけで……柊兄は父さんと母さんのこと覚えてるかもしれないけど」

「楸矢さん達も……」

「歌が聴こえる人に会ったのも初めてだし」

「私も初めてです」

「誰かに話したことある?」

「いえ、言っちゃいけないって言われてたので」

「だよなぁ。俺達もそう言われててさ。まぁ、それは正解だったんだけど」

「どういうことですか?」


 楸矢が十一歳の時だった。

 柊矢と楸矢は祖父が運転する車の後部座席にいた。

 嵐の夜で視界が悪かった。

 ずっと歌が聴こえていた。

 祖父は歌の話をすると怒るから口には出せなかったが、柊矢と楸矢は眼で合図していた。

 何となく、嫌な予感がした。歌に誰かの悪意を感じた。この嵐は歌のせいだ。

 祖父に車を止めるよう頼もうとしたとき、正面からダンプカーが突っ込んできた。

 一瞬、白い森が見えた。

 気が付いたら病院だった。トラック運転手の居眠り運転が事故の原因だったそうだ。柊矢と楸矢は気を失っただけで奇跡的にかすり傷程度で済んだが祖父は亡くなったと告げられた。

 楸矢は警察の事情聴取で、普通の人には聴こえない歌が嵐を起こしたから事故が起きたんだと訴えた。


「それで、どうなったんですか?」

「あやうく精神科病棟に移されるところだった」

 まぁ、そうだろう。

 それは容易に想像が付く。

「カウンセラーが来たとき、ヤバい!って思ってさ、頭が痛くて事故のことはよく覚えてないってごまかした。事情聴取で言ったことも記憶にないって」

 あの火事の夜、小夜が家を出たときも歌が聴こえていた。

 嵐ではなかったが強い風が吹いていた。

 まさか、ね。

「それでりればいいのにさぁ、俺ってバカだからまたやらかしたんだよね」

「え?」

「中三の時、付き合ってた彼女に言っちゃったんだ。お互い秘密を持つのはよそうって言われて正直に打ち明けた」

「それで、どうなったんですか?」

 小夜は思わず身を乗り出した。

「なんか急によそよそしくなっちゃってさ。彼女の友達まで俺のこと変な目で見るし」

 私だったら好きな人が言ったことなら、たとえ自分には歌が聴こえなくても信じると思うけど……それは自分が聴こえるからそう思うのかな。

「参るよね。友達にまで言いふらすなんてさ。見る目なかったんだなぁ。でも、それに懲りて、その後は例え相手が彼女でも言わないことにしたんだ」

「どうして歌が聴こえる人と聴こえない人がいるんでしょう」

「どうしてかなぁ」

 楸矢はそう言うと大きなあくびをした。

「小夜ちゃん、お風呂に入ってきなよ。俺が片付けておくからさ」

「そんな、昨日も片付けてもらったのに……」

「いいから、ほら」

 楸矢は小夜を台所から送り出すと、片付けを始めた。


 制服や教科書を買ってもらったので、小夜は明日から学校へ行くことになった。柊矢からこの家から学校までの行き方を教えてもらった。バス通学になるので定期券も買ってもらった。

 あ、学校に行くならお弁当作らなきゃ。

 柊矢さんと楸矢さんの分も。

 小夜はとりあえず風呂に入ることにした。出る頃には片付けも終わっているだろう。


 翌日、学校へ行くとクラスメイト達が集まってきた。

「心配かけちゃってゴメンね」

 小夜がそう言うと、

「お葬式は? まだだよね?」

「うん、司法解剖って言うのをしないといけないから時間がかかるんだって」

 そんな話をしていると、予鈴が鳴った。


 霧生家から学校への通学は、明治通りを走るバスに乗るので超高層ビル群のそばは通らない。

 バスの中で歌が聴こえてきたが、さすがにここでは歌えない。

 音楽室でいつでも歌っていいと言われているので、夕食の支度の前に歌わせてもらおう。

 小夜は夕食の献立を考えながらバスに揺られていた。

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