第363話 十鳥巧は疑う
まさか名前を名乗ってくるとは。
とはいえ、こんな行動をしてくる人間が素直に本名を言うとは考えにくい。
偽名と思っておいた方がいいだろう。
……あるいは、つぐみが二度とここから出られないので知られても構わない。
そう思っているからか。
考えを巡らせながら、つぐみは
「お名前は把握しました。ですが私に対する態度に、やはり理解が出来ません」
「この対応の理由ですか? 答えても構いませんよ。私はね、あなたを疑っているんです。弱々しいそぶりをみせているが、実際のところはどうなのだか」
一連の行動からして、今はつぐみに死なれては困るようだ。
危険ではあるが、強硬な姿勢で会話を進め、相手の隙を誘ってみよう。
可能であれば揺さぶりをかけ、情報を入手したい。
つぐみはむっとした表情を作ると口を開く。
「先程から失礼ではありませんか。弱々しいそぶり? ご自身がそうだから、そう言っているのでは?」
つぐみの挑発的な口調に、十鳥の表情がわずかに歪む。
「私のこともたいして知らないくせに、うわべの調査だけで知った気になっている。そんな人に、何がわかるというのですか」
大人しくしていると思っていた、相手からの言葉。
彼の反感を買うには、それで十分だった。
「知っていますとも。落月での事件を生き延び、あの
里希との面談を、この人物は知っている。
やはり、この誘拐を企んだのは、白日の人間ということか。
思考は、そこで途切れてしまう。
十鳥がつぐみの髪を掴み、無理やり顔を上げさせたからだ。
「一般人というのは嘘だろう? お前は一体、何を隠しているんだ!」
十鳥の腕を掴もうとするものの、もう一方の手で阻止されてしまう。
痛みに声が出そうになるのをこらえ、つぐみはにらみつけるような視線を向けていく。
「おっ、お待ちください! それ以上はいけません!」
切羽詰まった男の声が、扉の方から聞こえてきた。
目を向ければ、自分をさらった男が、慌てて駆け寄ってくるのが見える。
「もうすぐ、あの方がお見えになります。それまでに、この娘になにかあってはまずいのでは? あの方に水を差したと捉えられたら、あなた様が良くないことになってしまいます」
男の声に、十鳥の手の力がゆるんでいく。
「……確かに、その通りですね。私としたことが、こんな小娘の挑発に乗せられてしまうとは」
つぐみから手を放したものの、さげすむような視線に変わりはない。
「言伝も預かっております。『来客あり、なるべく早く
男の言葉に、十鳥が舌打ちをする。
「厄介なことを押し付けられたものだ。しかし、この娘の行動はどうも気になる。あの方が来るまで、大人しくさせておくべきだろうな」
十鳥はつぐみに背を向けると、男へと話しかける。
「私は今から、この娘に発動を行う。君は巻き込まれるといけないから、この部屋から出ていった方がいい」
男は、十鳥の言葉に戸惑いの表情を浮かべていく。
「ですが、ここで発動を使えば反動がかなり強く起こります。あなた様への負担が……」
「大丈夫だ、手早く片付けるから。君は出ていきなさい」
有無を言わせぬ十鳥の口調に、男は礼をして部屋から出ていった。
退出を見届けた十鳥は、つぐみの頭を強引に掴む。
「……眠れ。何もできない無力さをかみしめながらな」
彼からの言葉を聞いた途端、強烈な眠気がつぐみを襲う。
まずい。
自分の意識が途絶えれば、さとみを呼びよせることが出来なくなってしまう。
(さとみちゃんお願い、どうか……!)
彼女の名を心の中で呼び、目を閉じないようにと抗う。
だが、自分の願いとはうらはらに、視界は狭まっていく一方だ。
「ははっ、これはいい! 反動は全部、あの狸爺に行くのか。なんとも愉快な話だ!」
嬉しそうに語る十鳥の声を最後に、つぐみの視界は閉ざされていく。
◇◇◇◇◇◇
方向感覚すらつかめない、薄暗い世界。
訳も分からないまま、つぐみはそこで立ち尽くしていた。
先程までいた景色との違いに驚き見渡した先で、一人の男性がうずくまっているのが目に入る。
白髪まじりの男性からは、苦しげなうめき声が聞こえてくる。
一瞬ためらいが生じるが、自分はすでに捕らわれている身だ。
今さら何が起ころうが、そう変わるまい。
奇妙な覚悟と共に、つぐみは男性に近づき声をかけていく。
「あの、大丈夫ですか? どこか具合が悪いのですか?」
声を掛ければ、男はびくりと肩を震わせ振り返ってくる。
五十代後半にみえる男性の顔に、つぐみは見覚えはない。
彼の目からは涙がにじみ、開いた口からは嘔吐の跡がうかがえた。
「大変! えぇと、背中をさすればいいのかしら」
近寄ろうとするつぐみの顔を見た男性が、驚きの表情を浮かべ呟く。
「君は、……冬野つぐみか? なぜこんなところに?」
男の言葉に、思わず足が止まる。
どうして彼は、自分の名前を知っているのだ。
十鳥と同様に、自分達をさらった敵であろうか。
だがそれにしては、彼の衰弱ぶりが気になる。
ましてや彼は、『こんなところに』と言っているのだ。
敵意がないのは見て取れる。
ならば、話しかけて問題はないはずだ。
声を掛けようとしたつぐみは、自身の体の変調に気付く。
まるで喉が塞がれたように、言葉を出せなくなっているのだ。
先程までは、問題なく出来ていたというのに。
表情を変え、喉に手をあてるつぐみの様子に男が気づく。
「あいつに発動を使われたのか。……頼む、今は私よりもこの子に」
男はそう呟き、つぐみに向かって手をかざしてきた。
彼の胸元が小さく光り、柔らかく澄んだ風がつぐみへと吹いてくる。
心地よさに目を閉じれば、喉にあった苦しさが消えていくではないか。
つぐみが落ち着きを取り戻したのを機に、男はかざした手を下ろしていく。
「さぁ、いますぐここから離れなさい」
男の言葉に戸惑いながらも、うなずき後ろへと振り返る。
とはいえ、光や道すらない場所で、どこへ行けばいいというのか。
駆け出す勇気が持てず、つぐみは再び男へと向き直ろうとした。
「え? そんな……」
先程までいた、男の姿は消え失せている。
さらにはまるで照明が切れるかのように、周囲が唐突な闇に包まれ、強い風がつぐみへと吹きつけてきた。
目を閉じると同時に、抗えない睡魔が再び襲う。
あの人は、大丈夫だろうか。
彼は自身の体調を顧みず、つぐみを救ってくれたように見えた。
どうか無事でいて欲しい。
その願いを最後に、つぐみの意識は途絶えた。
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