第283話 蛯名里希は提案する
「意外だなぁ、あなたは冷酷非情な人物だと聞いていたけど。まるで逆じゃん」
姿の見えない相手が嬉しそうに笑っている。
この状況を変える何かを得ようと、つぐみは彼らの会話に耳をそばだてる。
男の口調は軽いものだが、声を聞くにあまり若くない。
浜尾とそれほど変わらない年齢だろうとつぐみは推測する。
「僕のことはどうでもいい。質問に答えてほしいのだけれど」
男のふざけた様子など意に介さず、里希は淡々と言葉を返している。
「う~ん、どうしよっか。いくら顔を見ていないって言ったってさぁ、彼女がこのことを他の人に喋ったら。俺のことばれちゃうじゃん」
「互いに初対面。ましてや彼女は君の姿も分からないのだけど」
「なるほど、だからといってこちらが見逃すメリットってないよね。それにさ、女性の声ってけっこう遠くまで響くじゃない? つまり彼女が悲鳴とか上げちゃうと、誰かに気付かれてしまうデメリットが今の俺にはあるんだよね」
相手はつぐみ達をこのまま帰す気は無いようだ。
ならば自分に出来るのは、足手まといにならないようにすること。
会話から、声を上げるのは相手に刺激を与えるのは理解した。
(あとは、どうしたらいい?)
思考を続けるつぐみの頭上から、里希の乾いた笑い声が聞こえる。
「ふん、メリットか。ならばこれはどうだろう。あなたを見逃し、殺さないでいてあげる。だからこのまま帰ってくれない?」
そんな提案が通るのだろうか。
自分という存在がある以上、不利なのはこちらの方だというのに。
戸惑うつぐみをあざ笑うかのように男が言葉を返す。
「あ~、それは無理。だって俺、そこの人を殺しちゃったじゃん。依頼は動き出してる。だからもう引き返せない」
殺した、という言葉があまりにもたやすく、軽く扱われている。
恐ろしさと同時に、人の命を軽視している相手につぐみは怒りが沸いていく。
「依頼ってことは、あなた自身が怨恨などで僕を狙っているという訳ではないんだね。どうだろう、僕のために働いてみない? 浜尾さんもいなくなっちゃったし、今の依頼先より好待遇で迎え入れてもいいんだけど」
里希から出されたあまりに予想外な提案につぐみは驚く。
どうやらそれは自分だけではないようだ。
「え? 確かこの人って、あなたの警護をずっと務めていた人でしょ? 自分を守って死んだのに、そんなこと言っちゃうんだ」
「だって彼は僕を守り切れていないでしょう。一回だけしか使えない盾なんていらない。それに彼を殺したってことは、あなたは彼より優秀だもの。悪くはない提案だと思うんだけど、どう?」
少し前に浜尾が話していた『盾は一度きりだけ』という言葉を実際に彼が言っていたということ。
そしてここにいる彼らと自分との、命の価値感の違いを思い知らされつぐみは唇をかみしめる。
「ははっ、さすがは一条の長の候補者。でもそれくらいの気持ちでなければ、今そこに立っていられないよね。いくら長の息子だからって……」
「それでどうなの。僕に従うの?」
相手の話をさえぎり、里希は言葉を続けていく。
「それともここで僕に殺されるの? どちらでも好きな方を選んでよ」
「えらく自信がおありのようですね。蛯名様、さすがは上級発動者といったところですか。……でもね」
くくっと男が笑いを漏らす。
「確かにあなたはお強いのでしょう。ですが今は味方はいない、あまつさえ足を引っ張る存在を抱えている。それにまず何よりこの場所だ。知っていますよぉ、ここって発動が使えない場所なんでしょう?」
自分に触れている里希の指先が、わずかながら動いた。
加えて相手の自信ありげな言葉からも、今の発言は間違いないのだとつぐみは認識する。
「……とっても物知りでおしゃべりな人だね。あなたは好きになれないよ。そんなことまで知っているとなると、どうやら僕が一条の上に立ってほしくない人からの依頼っていうことだよね」
「さぁ、どうでしょう。残念ですが、俺はあなたに嫌われたようだし交渉決裂ですね。それならば」
足音がこちらへと近づいてくる。
それに合わせて、何か重いものを引きずる音も聞こえてくる。
見えないこともあり、つぐみは恐怖に身をすくませる。
今はただ、声を出さないように手で口元をおさえることしかできない。
とさり、と何かがつぐみの足に乗った。
思わず下を向いた自分の口から、「ひっ」という声が漏れる。
見えたのは人の手。
見覚えのあるグレーのジャケットからのぞく肌色のそれは、まだらな赤に染まりピクリともしない。
逃げるように一歩、つぐみは後ろへと下がる。
分かりきっているのに、その人の顔を確認しようと視線を手の主の方へと向けていく。
そんなつぐみの目を里希の手が覆う。
同時にもう一方の手がつぐみの背に回されぐっと引き寄せられる。
感じるのは、顔に当たる風と彼の手の温もり。
「君が見る必要はない。僕の言うことだけを聞くんだ、……いいね?」
呟かれた言葉に、つぐみはただうなずき続ける。
おかしくてたまらないといった様子の笑い声が、後ろから響く。
「おや、随分と優しいですね蛯名様。その子がお気に入りなんだ? だったら」
つぐみの後頭部に固い感触が当たる。
「今ここで、この引き金を引いたらどうなるでしょうね? あ、お嬢さん。君が悲鳴を上げた時点で撃つよ。そうしたら君の前にいる蛯名様も一緒だからね」
相手の言葉で、自分の頭に触れているものが拳銃だとつぐみは悟る。
つまりは声を出した時点で発砲され、里希と共に死ぬということだ。
小さな舌打ちと共に、つぐみの目を覆っていた手が外される。
間近に現れたのは、里希の不機嫌そうな顔。
あまりにも近い距離に、つぐみが思わず目を伏せると同時に声が響く。
「誤解されるのは不愉快だから言っておく。この子が正直、どうなったって僕はかまわない」
「そうなんですか? 言葉の割には大切に扱っているように見えますよ。……あぁ、彼の血で手が滑りやすくなっているなぁ」
背中に何かをこすりつけられる感触。
後ろの人物はあろうことか、つぐみの服で浜尾の血を拭っているのだ。
あふれ出る恐怖の感情に任せ、悲鳴が喉の奥から飛び出そうとしている。
だがそれは自分だけでなく、里希の命をも奪うことになってしまう。
(だめだ、絶対にそれだけは!)
つぐみは自分の左手を口元へと運ぶと、手の甲に思い切り噛み付き無理やりに口をふさぐ。
加減なく歯を立てたこともあり、とんでもない痛みが走る。
だがそのおかげで、くぐもった声のみで悲鳴や大声は防ぐことが出来た。
口の中に血の味が広がっていく。
それでもつぐみは、小さくうなるような声を出しながらその行為を続ける。
「……止めなさい」
その言葉と共に、正面から静かにつぐみの頬に添えられる手。
もう一方の手が、彼女の左手を握りそっと下ろしていく。
つぐみが見上げた里希の顔は、少し驚いているように映る。
「女性がたやすく、自分を傷つけるものではない」
里希からの言葉に、「へぇ」と後ろから呟く声が聞こえる。
「すごいね、お嬢さん。蛯名様は全く感情を見せないって評判らしいのに。君に対してはとっても表情豊かじゃないか」
里希はちらりとつぐみの後ろを見やると、再び表情を消して言葉を続ける。
「君達が理解できていないみたいだから説明しておくよ。この子は三つの所属の上級発動者からの推薦を受けている存在。その彼女が一条の面接の際に、命を落としたとなればこちらの不備が問われる。だからここで彼女を殺させるわけにはいかない。それだけだから」
迷惑そうに語る里希に罪悪感を覚えるつぐみと違い、後ろからは弾んだ声が聞こえる。
「なるほど理解しましたよ。つまりは今、この子はあなたにとって素晴らしい弱点になるということですね。お嬢さん、ちょっと気が変わったよ。もう少し君の寿命を延ばしてあげる」
そう宣言をすると、後ろの男は楽しげに笑いだした。
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