第276話 冬野つぐみは確認を取る
受付で示された場所を確認し、つぐみは渡されたIDカードをしっかりと握り締める。
指定先は、一週間前に面接で使った部屋だった。
迷わずに目的地へたどり着くと、一度だけ深呼吸をする。
音や速さに気を付けながらノックを三回。
聞き覚えのある「どうぞ」という女性の声を耳にして、つぐみはゆっくりと扉を開いた。
部屋の中にいるのは一人だけ。
目を合わせれば、その人は以前と同様に美しい笑みを浮かべる。
早口にならないようにと心がけながら挨拶をする。
「おはようございます、高辺様。本日はよろしくお願いいたします」
「おはよう、冬野さん。でも『高辺様』は次からは遠慮してくれると嬉しいわね。ふふっ、緊張している女の子の顔もまた可愛いものね」
つぐみにソファーへ座るように促しながら高辺は言葉を続ける。
「今日はあなた自身の行動で何かを得るか、大切な記憶を失うかのどちらかですもの。どんな結末をあなたが選ぶのか、楽しみにしているわ」
彼女にとってはあくまで他人事。
とはいえここまで言われると、あまり気分のいいものではない。
つぐみの心に、じわりと不快な感情がこみあげる。
だがそれは今、表に出すべきではない。
これからの行動、一つ一つが高辺とこの後に会うであろう里希に、試験として見られているのだ。
彼女の一連の発言も、あえて挑発的な言葉をこちらにぶつけることで、たやすく感情を出す人間かを試している可能性もある。
里希が言っていた条件を思い返す。
『一条は他の所属先と比べて、心の強さが必要だ』
これを意識した発言や行動を、今後は行うべきだとつぐみは考えている。
「さて、今日の予定を説明するわ。一度しか言わないから、メモを取るなり準備を……」
「問題ありません。どうぞこのまま、お話を続けてください」
その発言に高辺は少し驚いた顔を見せる。
だがそれもほんのしばらくのこと。
「いいわね、思っていたよりあなたは楽しい子だったみたい。こんなに面白い反応をする子ならば私は大歓迎よ。あなたとは、共にお仕事を楽しんでいきたいわね」
高辺の口元が、弧を描くと共にそこに生まれたのは愉悦。
そう表現せずにはいられない、恍惚とした表情がそこにはあった。
新しいおもちゃを与えられた子供の様に純粋でありながら、それを壊すことすら惜しくないと言わんばかりの眼差し。
たじろぎそうになる心を抑え、つぐみはそのまま彼女を見つめ返す。
「冬野さん。あなたと過ごす時間は、とても素敵で今まで味わったことの無い時間になりそうな気がするの。だからね、どうか今日一日の選択を誤ることなく過ごしてちょうだい。では始めましょうか?」
口元の笑顔のみを残したまま。
けれどもそれ以外の雰囲気をがらりと変えると、高辺はつぐみへと説明を始めるのだった。
◇◇◇◇◇
自分の心臓の音が外にまで聞こえるのではないだろうか。
そう思えるほどに緊張しているつぐみの目の前には里希の姿がある。
ここは一条の管理室。
彼は部屋の奥にある書斎机から、射るような視線をつぐみへと向けていた。
里希の隣にはにこやかな笑顔を見せ、まっすぐにつぐみを見つめる高辺の姿がある。
彼女がうなずいたのを合図に、つぐみは口を開く。
「蛯名様、本日の予定となります。十時より会議、十五時より
(……よし、間違えなく言えたはずだ)
里希の表情を見る限り、失礼な発言はなかったようだ。
さすがに何の知識もないつぐみが秘書をするというのは無理がある。
それを踏まえ、高辺から受けた指示はまずは二つ。
一つ目は、里希への今日の行動の確認。
彼は目を閉じて考え込むと、口を開く。
「わかった。車の件は、
「承知いたしました」
スムーズに進んでいることに、つぐみは小さく息をつく。
高辺からは、何かあればその際に指導すると聞いていた。
彼女の態度に変わった様子もない。
つまりは今のところ問題がないということだ。
そんな中、まだ聞くべきことがあるのをつぐみは思い出す。
今朝の時点で、聞いていない里希の予定の取りこぼしがあるのかもしれない。
その確認を必ず取るようにと、高辺から言われていたのだ。
「申し訳ありません、蛯名様。お約束は増えていましぇんか?」
……
思いっきり
その行動に里希は一瞬だけ驚いた様子を見せる。
高辺は小さく口を結び直すとつぐみから目を逸らした。
しばらく口をむずむずとさせていた高辺だったが、きりりとした表情に戻り里希へと向き直る。
「……里希様、いかがですか?」
「いや、特にはないね」
「そうですか。では冬野さん、次の仕事を始めましょうか? 私共は失礼いたします」
何もなかったかのようにふるまう彼とは対照的に、高辺の声は少し震えている。
そうですよね、笑いたいですよね。
心の中でそう呟きながら、たった数秒間であろうこの時がつぐみの中で永遠の時間の様に感じられる。
泣くのは後だ。
今夜、布団で枕に顔を埋めてめいっぱい後悔してやる。
そう思いながらつぐみは、高辺の後について管理室を出て行くのだった。
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