第275話 人出品子はエールを送る
服を貸与されてから四日後、つぐみは品子と共に白日の本部に来ていた。
車を降り、その場で足踏みをする。
「うん、靴はなじんでいる」
呟くつぐみを、品子が何を言うでなく見つめている。
ここに来るまでに、彼女の口数が少なかったことをつぐみは思い返す。
そうなるのも仕方がない。
今日で自分のこれからの運命が決まるのだから。
無事に面接を終え、一条の冬野つぐみとして生きていくのか。
あるいは記憶を失い、かつての冬野つぐみとして生活していくのか。
出来れば前者でありたいとつぐみは思う。
いや、必ずそうしなければならないのだ。
「では先生、行ってきます」
「う、うん。……えっとさ、エントランスまでは一緒に行っていいかな? 私も今日は本部に用事があるからさ」
どう考えても、その場でとっさに出てしまった嘘だ。
分かっているのに、つぐみにはそれが嬉しく感じる。
「はい、お願いします。実は今、ちょうどお願いしたいなって思っていたのです。私、道を忘れてしまいましたから。それに私ってば、すぐに迷子になっちゃいますから」
同じようにつく、下手な嘘。
それを知りながら、二人は互いに受け入れていく。
品子がつぐみに近づくと、ぐっと手を握る。
つぐみが見上げた先に映されたのは、ほんの少しだけ困った顔をした大切な人。
白日の皆と過ごしてきた自分として、話が出来るのもこれで最後かもしれない。
そんな弱気な心が、つぐみの口を動かしていく。
「もし私が不合格だった場合、先生が記憶を消すことになるのですか? だったら最後に顔が見れるのですね」
予想外の言葉だったのだろう。
品子は気まずそうにうつむいた。
「……里希は私と同じく、人の記憶を操る力を持っている。もし君が不合格だった場合、私ではなく彼の手によって、その場で記憶は消されてしまうだろう」
くるりと前を向き、品子はそのままつぐみの手を引いて歩き始める。
繋がった手を離さないように。
握り返して、つぐみは品子の後ろを歩く。
エントランスに近づくにつれ、品子の歩調が少しずつ緩やかになっていく。
「ねぇ、冬野君。さっきの話の続きになるけど」
そこで品子はピタリと足を止めた。
「私が君の記憶を消すことはない。里希にもさせない。だって君は先日、私に約束してくれたじゃないか」
そう言って振り返った品子の顔には笑顔。
それはあまりにもまっすぐで、そして綺麗で。
思わず見とれてしまったつぐみに品子は語り掛ける。
「最初の面接の時、一条の部屋に入る前に言ってくれたよね。『面接はやり遂げる。それを見届けてくれるでしょう?』と。だから私は待つ。君が私の元に帰ってきて、『ただいま戻りました、先生』と笑顔で報告してくれるまで」
そっと品子の両手がつぐみの頬を包みこむ。
柔らかな感触に、その心地良さに思わずつぐみは目を閉じる。
触れてくるのは、夏の暑さとは対照的なひんやりとした手。
人は緊張すると、汗によって手が冷たくなると聞いたことがある。
品子もやはり緊張しているのだ。
つぐみは優しいその触れ方に浸りながら、そんなことを考えてしまう。
品子の手のひらの感覚が去って行くと共に、今度は頬に指先の感覚が残る。
……ぎにゅっ。
そう形容するにふさわしい感触に、つぐみは思わず目を開く。
品子は、つぐみの両頬をつまみあげて笑っているではないか。
「しぇ、先生? なんで?」
「あはは! 冬野君ってば、嚙んでるよ~。こういう時はね、リラックスが大事でしょ? うりゃうりゃ」
とても楽しそうに。
いつも通りの屈託のない笑顔を浮かべ、品子はつまんだ頬を遠慮なく揺さぶっている。
「では、冬野つぐみ君。今から頑張って来る君にたくさんの幸運と私からの勇気を。……さぁ、行っておいで。君のことを大好きな皆が、戻ってくるのを待っているからね」
指を離すと同時に、思いきり品子はつぐみを抱き締めた。
そのまま二人の体の位置をくるりと回転させる。
次々と起こる動きにつぐみはただ翻弄されるしかない。
だがこれはきっと、品子が緊張をほぐそうとしてくれていること。
伝わる思いに、触れている温もりに。
つぐみの心にあった弱気の心が溶かされていくのを感じる。
どれくらいの間、そうしていただろう。
品子は一歩分はなれると、今度はつぐみの体だけをくるりとエントランスの方に向ける。
直後に、バチンと大きな音と衝撃がくる。
思い切り背中を叩かれたのだと分かったのは数秒後。
つぐみはじんじんする背中に顔をゆがめる。
だがそれは次第に、笑い顔へと変化していく。
両頬にそっと触れ、つぐみは思うのだ。
さぁ、気合いと勇気は入れてもらった。
はじめよう。
私が私でいられるために。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます